S.Richter_bot @RichterBot
(キーシンの弾くリスト『超絶技巧練習曲第十番』について) 先生について勉強し、上手に弾く。しかし、危険を顧みずに海に飛び込んだりはしない。たぶんこれからも決して飛び込むことはない? http://www.youtube.com/watch?v=e3ByIdSA-Ic …
優等生ってことだよな、キーシンは。面白くないんだよ。
許し難く凡庸な優等生は、音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造の内部のしかるベき位置に音を置いていくことしかできない(浅田彰『ヘルメスの音楽』)
でも優等生も必要さ。
ニーチェは卓越した人間であった。文献学の優等生。メッツの城壁の下では良き看護兵。勤勉で控え目な青年。屈託よりも病気で身を退いた優れた教授。狂気にいたってもなお静かな人柄であった。彼の生涯は真のキリスト教徒の、あるいは賢者の生涯であった。いや、賢者よりもキリスト教徒としてこそ適わしいと思える貞節、そのような貞節のつらぬく生涯であった。
ところが彼の存在の、さほど重要でもない内的部分が、書くことへと向かった。そしてこの部分こそが心神喪失をきたしたものと思える。全体的には穏和で規則正しいこの体系〔人間〕が、ある熱狂的な一部分に、錯乱した冗漫な一部分に、とり憑かれたのだ。」(ポール・ヴァレリー『ニーチェに関する手稿』sur les manuscrits de Paul Valery au sujet de Nietzsche)
でも、ニーチェはやっぱり「危険を顧みずに海に飛び込んだ」わけだ。
浅田 「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。
そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。
千葉 そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。(「つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん」)
「優等生」で引き出しのなかを拾ってゆくとこんなものもあるな。
僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。(浅田彰)
「ドゥルーズ哲学の正しい解説?そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ」(浅田彰)。
ーー浅田の優等生憎悪というのは、もちろん近親憎悪だろう。
ところで、アルゲリッチって、若いツバメ風の男だったらだれでもいいんじゃないか。このなかに彼女の餌食になった男、何人いるかのか・ ・ ・
アルゲリッチの餌食になった男とのデュオでは、このミシェル・ベロフとのストラヴィンスキーがすばらしい。
Nicolas Economouが餌食になったかどうかは知るところではない。
ーー若い頃のアルゲリッチとともに演奏して惚れ込まない男などというものがいるものだろうか。
マルタの逸る足は小さな沢の水などけちらかし、
ドガの女のように、うつむきかがみ
水をもっと、からかおうとして、かかとを愛撫する
L'an pareil en sa course au fleuve qua voici
S'écoule vers la fin d'un été sans merci
Où le pied altéré, fêté par l'eau, se cambre
Pour le taquiner mieux au bout d'un ongle d'ambre.
年はここを流れる川と同じ運行を続けて
夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る
喉の渇いた足はそこで水に祝福されて、琥珀色の爪先で
水をもっと、からかおうとして、指を反らす。
ーーマラルメの愛人メリ・ローランの47回目の誕生日(1886)への四行詩
「この足は食物の根のように水を飲む。そのあと
いかにも足はうれしそうに、まるで渇きが止まったよう
水に祝福された足の甘美
水は乱された無数のさざ波と一緒になって楽しげに浮かれ
さざ波は自分を踏みつけに来る
美しい女の《足》にきらめく愛撫の囁きに来る。」(プルースト)
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ」(西脇順三郎)