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2015年3月24日火曜日

クメールの女たち

続き)とはいえ、わたくしにはインド系やら、ひょっとしてサラ・チャン系は、もはや荷が重すぎる。この十年ほどはクメール系が好みである。ーーと書いたとき、ではなんの好みなのだろうか、ーーもちろん「観賞」の対象としての好みだけである・ ・ ・




比較的近くにアンコール・ワットがあるので、オンボロバスに乗ってーーそれでもこの5年ほどのあいだには空調つきの韓国製中古バスになって味わいが減ったにしろ、まあ快適になったとしておこうーー国境を越え、1年に1度ぐらいは、この20年のあいだ、訪れている。






デモ生キテイル限リハ、異性ニ惹カレズニハイラレナイ。コノ気持ハ死ノ瞬間マデ続クト思ウ。(…)スデニ無能力者デハアルガ、ダカラト云ッテイロイロノ変形的間接的方法デ性ノ魅力ヲ感ジルコトガ出来ル。現在ノ予ハソウ云ウ性慾的楽シミト食慾ノ楽シミトデ生キテイルヨウナモノダ(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)
「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(松浦寿輝『官能の哲学』)





丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)

《「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かったという。》(九鬼周造『いきの構造』)


現代日本の女の足指は、ハイヒールのせいで歪んでしまっている。クメールの女の足指は美しいままなのがまだ生き残っている。ただし都会はだめだ、プノンペンはだめだ、シェムリアップSiem Reapまでいかないと。





私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(谷崎潤一郎 「痴人の愛」)





これは別の肢だが、彫刻の肢や女の肢を見に行くだけではなく、こっちの肢もわたくしの好みであり、我庭にも、これほど巨大ではないが、樹齢百年は遥かに越えるガジュマル樹(ベンガルボダイジュ,バンヤンジュ)を15年ほどまえ植樹した。

その女の足は、彼に取つては貴き肉の宝玉であつた。拇指から起こつて小指に終わる繊細な五本の指の整い方、 繪の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤澤。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であつた。 (『刺青』)











盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)







もっともインドにもカジュラホKhajurahoではなく、ハンピHampi には、やや穏やかな彫刻群がある。




いやカジュラホKhajurahoだって選べばダイジョウブかもしれない。










カンボジアだってちょっと間違えば、サラ・チャン系がいるとさえいえるのだから、世の中をあまく判断してはならない。





春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)