(荒木経惟) |
去年の秋のいまごろ 富岡多恵子
天気にかんしては
あたしゃどうでもよいと云った
ただしあたしは水を撒かねばならない
かな盥に水をいれて
肩にのせてみなくてはならぬ
会話ははじまるだろう
たいていの日の正午ごろ
男のともだちがきているのであった
その男のともだちは女のともだちを
つれているのであった
そのふたりは下界からきて
枕元に腕時計を忘れていって
あたしは得をしたかわりに
かの女に化粧水をかしてやる
男のともだちは
あめりかとか
ぷえるとりことかいう国からきて
おまいさんはわいせつが上手であると
あたしをよろこばせた
ので
あたしの瞳孔はすくなくとも三倍に
ひらいて
舌をひっこめたのである
いままでの詩なら詩というカタチにことばを書いていくことは、書いていく方のにんげんが詩から自分をズラセルということがしにくかった。つまり、詩の正面に坐っていたから自分も見物衆もたいしておもしろくないのであった。わたしは、自分がことばを書くとき、詩であれ何であれ、自分がどのようにズレル所に坐るかに興味をもっている。(富岡多恵子「詩への未練と愛想づかし」)
(ああ、キヅイタカ……この詩と彼女の解説文を、 「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」につなげようとしたのだけど、ヤメタンダヨ・・・、こういったことはすぐさまわかる人は、ぐだくだ言わなくてもわかるだろうし、そうではない人はいくら説明してもわからないだろうから、ーーってのはイイスギかもしれないけど:追記)
…………
◆富岡多恵子【行為と芸術 十三人の作家】美術出版社 1970.11より
ははあ、よい写真だーー、若き日の芸術家たちの肖像
→
黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。(……)
本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。(……)
隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)
→