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2017年8月7日月曜日

災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはない

丸山真男は日本を無思想・無イデオロギーの国と呼んでいる。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談)

だが、なぜ日本はことさら無思想・無イデオロギーの国なのだろうか。

柄谷行人は、岩井克人との対談(1990年)にて、「日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと」という意味合いのことを言っている(参照)。

江戸文化の影響とは次のようなものである。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

ここでは「布教の禁と檀家制度」に絞れば、次のようなことがあった。

信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。(……)

布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収)

日本が「無思想・無イデオロギーの国」であるのは、《信長が比叡山を焼いた事件》、そしてその後の布教の禁と檀家制度の影響が大きいのは間違いないだろう。

だがそれだけだろうか? 丸山真男は、日本は《人間が思想によって生きるという伝統が乏しい》ことは、《宗教がないこと、ドグマがないことと関係している》と言っているが、この「宗教」とは「一神教」のことである(日本には自然宗教はふんだんにある。[参照]:「創唱宗教/自然宗教」)。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

一神教の起源については次のような見解がある。

一神教は進化の結果からではなく、宗教的天才による〈革命〉(リボリューション)によってのみ生じた。(山我哲雄『一神教の起源』、PDF

だが日本において一神教が育たなかったのは、宗教的天才の不在だったせいだろうか。上の聖書学者山我哲雄のような、学会で高い評価を得ている方ではなく、市井の、ーーおそらく独学歴史研究者だろうーー関裕二氏次の、わたくしにはとても面白い叙述を見出した。歴史的事実関係についての記述にはやや疑いをもって読まねばならないが、発想の仕方はとても示唆溢れている。

考えてみれば、災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはなかったのだ。日本列島に住んでいれば、一生に一度は、何かしら災害に見舞われたに違いない。誰が、荒れ狂う嵐に打つ勝てると思うだろう。誰が、大津波をはね返すことができると信じただろう。「自然を支配し、改造する」などという、一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていたに違いないのである。

一神教は砂漠で生まれた。地震も、津波も、台風も、火山の噴火もない場所で生まれたのだ。彼らは、「自然が支配できる」と考えたが、彼らの考える「自然」こそ、観念的なものにすぎなかった。なにしろ、砂漠には「自然がなかった」からである。それはそれで苛酷な環境だったことはたしかだ。だからこそ、「この境遇を克服したい」と考えたのだろうが、本当の「自然」を知らないからこそ、「人間は世界を征服できる」と妄信したのだろう。ここが、多神教と一神教の、決定的な差である。

また、多神教世界では、「万物は流転し、滅びたものはいずれ蘇る」と信じた。だから、アイヌはイオマンテで熊祭をし、殺した熊の魂は、再び地上界に戻ってくると願い、信じた。熊だけではない。太陽も沈み、やがて昇る。一年の移り変わりも、循環する。日照時間は短くなり、冬至の日に太陽の力が一番弱まるが、逆に「影」は長くなる。死と再生は隣り合わせだ。縄文人の円形の家で、冬至の朝日が入口にちょうど射し込む例が見つかって、円形の家は母胎で、再生の呪術が込まられているのではないかと考えられている。自然も同様に、移ろう。木々の葉は散り、春にならば深緑に覆われる。人間も、死んで終わるわけではない。魂はいつか再び、この世に戻ってくると信じていた。それは、「自然を観察していると、そう考えざるを得ない」からであり、この点も、一神教の発想とは異なっている。

ひとりの人間の、生も、多様性を持ち、「廻る」と信じられていた。鬼のような生命力を持った童子。成長して長寿を保つと、穏やかな老翁となり、周囲を和ます。そして、寿命が尽きて死んでいくが、日が沈み、また日は昇るように、いずれこの世に戻ってくると信じたのである。関裕二『日本人はなぜ震災にへこたれないのか』、2011年) 

ようするに日本が理念がない国、つまり丸山真男のいう「日本を無思想・無イデオロギーの国」であるのは、地震大国であることの影響が大きいはずである。関裕二氏が《一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていた》とするのは冒頭の丸山真男の《思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎない》との文と響き合う。

次の中井久夫の文も、日本的環境においては長期的ヴィジョンなど通用しない、という風に読むことができる。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。

為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出)

中井の《日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない》との表現は、これもまた丸山の《無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方》に繋がってくるだろう。

だがここでふたたび丸山を繰り返しておこう、日本においては《思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない》と。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006)
理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

…………

※付記
このたびの東日本大地震大津波の惨事の後から、千何百年昔にも東北に今回の規模に劣らぬ大地震大津波のあったことが指摘された。

平安初期の貞観年間のことだという。年表を見ると、八六九年、陸奥大地震大津波とある。 しかもその五年前には、富士山が大噴火を起こしている。陸奥の災害の九年後には関東の 大地震、そのまた九年後には畿内の大地震が記されている。

あまりのことに大昔のことながら暗然とさせられているうちに、ふっと貞観の仏たちの相貌が浮かんだ。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)



◆地震の神話と地震の記憶 保立道久、2015,pdf

『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で基本的な説明をしたことですが、日本の神話の基本には地震・噴火神話がありました。

日本が本格的に文明化したのは八世紀、奈良時代のことでしたが、この時代には、まだまだ神話世界は生きていました。そして、問題は、八世紀・九世紀が列島にとって一つの大地動乱の時代であったことです。(……)歴史の側の資料を点検してみると、地震や噴火が八・九世紀の社会史と深い関係をもっていることは一目瞭然である。そのうちもっとも重要なのは、734年に発生した河内大和地震でしょう。(……)九世紀に入っても事態は同じでした。とくに今回の3.11の地震とほぼ同じ規模をもっていたという869年の陸奥大地震・大津波(……)。

そのしばらく前の864年には富士大噴火が起きており、その後、いわゆる関東大地震と同じ発震構造をもつとされる南関東大地震が起き、さらに南海トラフの大地震が発生しています。これらの史料をみていますと、当時の人々は神話の神々がおそるべき怨霊に姿をかえて復活したと感じていたのではないかと思います。その恐怖は相当のものであったでしょう。

私は、京都祇園社の祇園会の創始が、869年の陸奥大地震・大津波の直後と伝えられているのは、このような世情と関係していると考えています。

(……)

日本の歴史文化には地震が骨絡みになっている事情はご理解いただけたでしょうか。私は、歴史学がこのようなことを見のがしてきたことに驚いています。それは歴史学が、地震列島日本の人々が、実は、地震のことを一種のタブーにしてきたという状態を本格的に突破しようという見通しをもっていなかったことを示すといわれてもやむえないでしょう。

(……)たしかに、この列島の住人は、過去の記憶の宝庫を点検してみる必要があるのではないでしょうか。(保立道久「地震の神話と地震の記憶」2015) 

《日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。》(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号)



ひきつづき人知を尽くさなくてはならない。それでも災害をすっかり排除することはできない。 しかしまた、災害にたいして備わっている、まもられている、という信頼なしに、人は日常の心で生きられるものだろうか。苦しいところへ追いこまれたものだ。

これまでの大災害、天変地異や飢饉や疫病の歴史を年譜だけでも眺めて、その頻繁なくり かえしの中で生きた古人たちの心を思うべきなのだろう。厄災の脅威に身近から迫られな がらの日常もあり、祭りや踊りもあった。

生きながらえたと感じる古人たちの祭りは、現代のイベントよりも、はるかに強烈なものだったと思われる。心身の底で死者たちと通じあっていたはずだ。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)

◆先進的地震津波シミュレーションの進捗について(独立行政法人海洋研究開発機構、金田義行、2013、pdf)



危機と言われる。この言葉ほど風化しやすいものはない。人は危機感を日常に長くは保って いられないものらしい。それでは生きられない。しかし危機そのものは日常につねにつきまとう。

考えてみればよい。大津波に吞まれた人はその直前まで日常の内にあったのだ。このたび の大災害から遠隔の地にあった人にとってもいつなんどき、日常に断層が一瞬にして走るか、 知れはしない。「決定的な」などと言うもおろかな断層が。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)

…………

上に引用した文のなかで、古井由吉は《人知を尽くさなくてはならない》と言っている。もちろん《それでも災害をすっかり排除することはできない》。

なによりもまず「人知を尽くす」べき標的は「東京」である。

東京の場合には富も権力も情報も非常に集中しているために、どのようにして他の地方が東京を救援するかという問題は、実際検討されているのだろうか。私にはわからない。われわれが冷静でいられたのは、やがて救援があるということを疑わなかったからである。(中井久夫『精神科医の見た二都市 1995年2,3月』)

最後に、日本には稀なヴィジョンの人、磯崎新の見解を掲げよう。

◆都市に未来はあるのか──建築と都市工学の対話、2014
磯崎新──もうひとつ聞きたいことがあります。人を東京の内側に収めることが前提になっているようですが、なぜ人は東京に同じ状態で住んでいなければいけないのか、外に出す方法は考えられないのでしょうか。東京の真ん中に、東京を延長していくことにどれほどの意味があるのでしょうか。3.11の東京では、多くの帰宅難民が出ました。あのときの東京のインフラは、死者を出さないぎりぎりのところで持ちこたえるだけで精一杯だったことを、誰もが記憶しているでしょう。ところがいまではまた内に向かって人を増やそうとしている。あたかも避難の仕方を統制すれば生き延びれるかのように、希望的なことしか話題にしない。何が必要か。僕は東京の人口を1,300万人から1,000万人を切る、理想的には800万人まで減少させることができなければ、インフラは機能しきれないと思っています。それがいろいろなことを考えたときの適正値でしょう。

東京国際フォーラム フォーラムレポート ゲスト: 磯崎新 (建築家)


磯崎新) 確率論なので何とも言えないですが、30年以内に70%の確率で直下型地震が東京に起こると言われています。その時に東京がものすごいエネルギーで壊れる訳だから、色々なシミュレーションが行われているのですが、被害は今回の震災の100倍くらいと予測されています。今回帰宅難民の中で死人がでなかったのは奇跡的なことで、ある意味ストレステストをやってもらったと考えた方が良い。そうなると東京は本気で何かをやらないといけない。少なくとも東京は安泰なのではなくて、より危険な臨界状態にいるということを考えた方が良いと僕は思います。首都が移るのはそんなに難しいことではないんです。東京が首都であるべきという思い込みが我々の思考を固めてしまっているんです。一つの社会の体制が出来上がったときに、例えば近代で考えると、国民国家の首都が国民国家の見識を示していて、都市という概念で出来上がっている。ところが今、二世代くらい後の状況が社会では起こっているにもかかわらず、国民国家がかつて決めたものに我が国は則っている。首都の形態を東京が取っていない最大の理由なのではないか。世界でも上手く行っている例はあまりないですよ。国会をイカダに乗せる案は、宮崎駿さんのアニメにも出てくるラピュタのような感じで国会が日本中を訪問したら面白いと思っていて、震災があってそれを思い出したんです。


2016年7月6日水曜日

美容術の祕藥

喋ることと喋らないことのあいだで、言葉の意味と無意味はずるがしこくいれかわる。(富岡多恵子『女友達』あとがき)




荒木経惟



去年の秋のいまごろ  富岡多恵子


天気にかんしては
あたしゃどうでもよいと云った
ただしあたしは水を撒かねばならない
かな盥に水をいれて
肩にのせてみなくてはならぬ
会話ははじまるだろう
たいていの日の正午ごろ
男のともだちがきているのであった
その男のともだちは女のともだちを
つれているのであった
そのふたりは下界からきて
枕元に腕時計を忘れていって
あたしは得をしたかわりに
かの女に化粧水をかしてやる
男のともだちは
あめりかとか
ぷえるとりことかいう国からきて
おまいさんはわいせつが上手であると
あたしをよろこばせた
ので
あたしの瞳孔はすくなくとも三倍に
ひらいて
舌をひっこめたのである


いままでの詩なら詩というカタチにことばを書いていくことは、書いていく方のにんげんが詩から自分をズラセルということがしにくかった。つまり、詩の正面に坐っていたから自分も見物衆もたいしておもしろくないのであった。わたしは、自分がことばを書くとき、詩であれ何であれ、自分がどのようにズレル所に坐るかに興味をもっている。(富岡多恵子「詩への未練と愛想づかし」)

(ああ、キヅイタカ……この詩と彼女の解説文を、 「女はまだ浅くさえない(ニーチェ)」につなげようとしたのだけど、ヤメタンダヨ・・・、こういったことはすぐさまわかる人は、ぐだくだ言わなくてもわかるだろうし、そうではない人はいくら説明してもわからないだろうから、ーーってのはイイスギかもしれないけど:追記)


…………


富岡多恵子【行為と芸術 十三人の作家】美術出版社 1970.11より


ははあ、よい写真だーー、若き日の芸術家たちの肖像









黃入谷のいふことに、士大夫三日書を讀まなければ理義胸中にまじはらず、面貌にくむべく、ことばに味が無いとある。いつの世からのならはしか知らないが、中華の君子はよく面貌のことを氣にする。(……)

本を讀むことは美容術の祕藥であり、これは塗ぐすりではなく、ときには山水をもつて、ときには酒をもつて内服するものとされた。(……)

隨筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあつた。美容術の祕訣、けだしここにきはまる。三日も本を讀まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた變らざることをえない。町人はすなはち小人なのだから、もとより目鼻ととのはず、おかげで本なんぞは眼中に無く、詩の隨筆のとむだなものには洟もひつかけずに、せつせと掻きあつめた品物はおのが身の體驗にかぎつた。いかに小人でも、裏店の體驗相應に小ぶりの人生觀をもつてはいけないといふ法も無い。それでも、小人こぞつて、血相かへて、私小説を書き出すに至らなかつたのは、さすがに島國とはちがつた大國の貫祿と見受ける。……(石川淳「面貌について」『夷齋筆談』所収)











2015年5月16日土曜日

「鎖国のすすめ」

アメリカ合衆国が移民国家であるのはもとよりだが、たとえばフランスもきわめて多様な民族の移民で成り立っている国であり、19世紀後半から人口増加の減少にともない先ずは欧州諸国(ベルギー、イタリア、ドイツ、スイス、スペインなど)から移民を受け入れ、その後、アフリカやインドシナなどの植民地出身者が増えた。《今フランス人である人で一世紀前もフランス人であった人の子孫は二、三割であるという》(中井久夫)。

わたくしは元仏植民地だった国に住んでいるのだが、実際、仏人たちがいわゆる「現地人」たちと結婚する事例の多さは、ドイツやイギリスとは大違いなようだ。わたくしの親族のなかにもフランス人のハーフであったりクオーターであったりする人間がいるし、血は混ざっていないが長く海外に住んでこの地に戻って来ている親族は、十人ちかくいる(もっとも親族がひどく多い国ではある。妻の祖父の家にテト祝いでは、正月の三日間に百人以上の親族が、それぞれの日に別の顔ぶれで集る。五人の妻をもち、数えたことはないが二十人は軽く超える子供がいる艶福家であり、いまだ同じ日に集るわけにはいかないらしい)。




このグレアム・グリーン原作の『静かなアメリカ人』やらデュラス原作の『愛人』にかつて魅せられたということもあるのだが・ ・ ・、当地の女性はみかけとは違って、生やさしいものではない?のがしだいに分かった(で、どうしたというわけではない、やはり女たちはうつくしい)。





たとえば、フランスにいるアルジェリア人の問題と、ドイツにいるトルコ人の問題はまったく異なる。鹿島繁氏によれば、《トルコ人は永遠にドイツ人にはなれない。しかし、トルコ流にやっていてもかまわない。フランスは、フランス人になることを認める代わりに、殻の中に閉じられたようなイスラムの家族は解体されなければならないし、宗教は前面にだしてはいけない》とのことだ。

だがそのフランスでも、《そもそも「他者に開かれた多文化社会」を目指しつつ、実際は移民をフランス人の嫌がる仕事のための安価な労働力として使い、「郊外」という名のゲットーに隔離してきた》(浅田彰)のは、イスラム系住民による2005年の暴動事件、すなわちパリ郊外のクリシー・ス・ボワで二人の少年が警察に追跡されて変電所に逃げ込み感電死をしたことを受けての、ムスリムたちが怒り狂ってのフランス全土での騒乱事件や、今年初めの『シャルリー・エブド』事件などで誰もが知るところになった。

だがそうはいってもアメリカ合衆国やフランスは「他者に開かれた多文化社会」をつねに目指している国であろうし、人権などの「普遍性」が生まれるのは、あるいは、かりに今後「普遍性」概念が何らかの形で再生されることがあり得るのは、このような国からでしかないだろう。

ジジェクは最近のインタヴューで次のように言っている。

しかし私は確信している、我々はかつてなくヨーロッパが必要だと。想像してごらん、ヨーロッパなしの世界を。二つの柱しか残っていない。野蛮な新自由主義の米国、そして独裁的政治構造をもった所謂アジア式資本主義。あいだに拡張論者の野望をもったプーチンのロシア。我々はヨーロッパの最も貴重な部分を失いつつある。そこではデモクラシーと自由が集団の行動を生んだ。それがなくて、平等と公正がどうやってあると言うんだ?(Zizek,The Greatest Threat to Europe Is Its Inertia' 2015.3.31)

もっともこの文は、次の文と同時に読まなければならない。

確かに、ヨーロッパは死んだ。しかし、どのヨー ロッパが死んだのか、と。これへの回答は、以下である。ポスト政治的なヨーロッパの世界 市場への組み込み、国民投票で繰り返し拒絶されたヨーロッパ、ブリュッセルのテクノクラ ットの専門家が描くヨーロッパ──死んだのはそうしたヨーロッパなのだ。ギリシアの情熱と 腐敗に対して冷徹なヨーロッパ的理性を代表してみせるヨーロッパ、そうした哀れなギリシ アに「統計」数字を対置するヨーロッパが、死んだのだ。しかし、たとえユートピアに見えよ うとも、この空間は依然としてもう1つのヨーロッパに開かれている。もう1つのヨーロッパ、 それは、再政治化されたヨーロッパ、共有された解放プロジェクトにその根拠を据えるヨー ロッパ、古代ギリシアの民主制、フランス革命や10月革命を惹き起こしたヨーロッパである。(ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010)

さて先に掲げたジジェクの文では、新自由主義としての米国への否定的見解が述べられているが、他方、移民を受け入れ、国の中にあらゆる民族がいて、しかも商品も資本もかなり自由に行き来できるというアメリカという国がある。《西欧民主主義などという原理の勝利じゃなくて、移民を受け入れるという事実の勝利》(岩井克人)の国である。

いずれにせよ、アメリカ合衆国やフランスに住んでいれば、たえずアメリカ人とは何か、フランス人とは何かというアイデンティティの問いが生まれざるをえない。祖父の代やら曽祖父の代まで遡れば、純アメリカ人、純フランス人である人びとは少数派なのだろうから。そのため、日本のように日本で生まれ日本語を話せば日本人であると素朴に思っている人びとは少ないだろうから。たとえば前仏大統領のサルコジーーパリ郊外の移民を「社会のクズ」と呼んだ「チビ・ナポレオン」(バディウ)――はハンガリー移民二世であるが、彼の評価は別にして、移民二世が大統領になりうる国であり、日本で「在日朝鮮人」が首相になりうるかどうかをすこしでも想起してみたら、両国の相違は歴然としている。

日本だけが特殊な国だというつもりはないが、日本のような国からはけっして「普遍性」はでて来ないだろうから、フランスや米国の猿真似をしてもいたしかたないという観点はあるだろう。

磯崎新は、2010年の毎日新聞のインタヴュー記事「特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか」でこう語っている。

日本は鎖国状態でやっていけますか? 「日本は鎖国状態を恐れる必要はありませんよ。今の日本は、米国から外される、中国から追い抜かれるとビクビクしている。だけど、日本はむしろ孤立した方がいいんです」。意外な答えが返ってきた。

 「僕はこの鎖国状態の期間を『和様化の時代』と呼んでいいと思います。歴史を見れば、和様化の時代は、輸入した海外の技術を徐々に日本化していく時期にあたります。今はこの和様化、つまり『日本化』を徹底する時期だと思いますね」

 磯崎さんに言わせれば伊勢神宮もしかり。漢字とひらがなが入り交じった日本語も、外国語をいかに日本化するかを考えたことから今の形となった。戦 後で言えば、自動車やカメラだ。日本が始めた産業ではないにもかかわらず、実用化、大量化、精密化して世界の群を抜く製品化に成功した。

 「どう言ったらいいんですかね」などと言葉を探しながら語る磯崎さん。

 「歴史を振り返ると、日本人は鎖国状態の時期、非常に細かい技術を駆使して、発案した人たちを脅かすものをつくり続けてきた。そして、その時期にできた日本語や自動車などの日本的なものが、日本の文化や産業の歴史的な主流になってきています」

「鎖国」のすすめと読みうる見解だが、これは経済的な観点、すなわち少子高齢化社会トップランナー日本では、移民がなければ社会保障制度は破綻するのは瞭然としていることが全く考慮はされていないと批判することはできるだろう。

少子化の進んでいる日本は、周囲の目に見えない人口圧力にたえず曝されている。二〇世紀西ヨーロッパの諸国が例外なくその人口減少を周囲からの移民によって埋めていることを思えば、好むと好まざるとにかかわらず、遅かれ早かれ同じ事態が日本にも起こるであろう。(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」『時のしずく』所収)

だが日本という共同体では、移民政策はなかなか実現しそうもない。それでも経済的観点から「好むと好まざるとにかかわらず」受け入れざるを得ない状況にあるわけだ。曽野綾子の物議を醸した「移民を受け入れ、人種で分けて居住させるべき」との主張は、実は日本という共同体はそれしかないだろうという残念ながら現在の「真理」を突いた認識を示しているさえ言い得る。岩井克人は1990年に「ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ」と言ったが、外国人との接触が極端にすくない日本人の大半はいまでもレイシストであることを免れているとは到底思えない。

ところで、なにが日本というこの共同体を生んだのだろうかといえば、たとえば古くは中村光夫の指摘がある。

わが国が歴史時代に踏入った時期は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかったためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようです。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)

もっとも《外国から全面的な侵略や永続する征服をうけたこと》がないというだけで日本民族の連続性、一貫性を主張するのは、単純すぎるという見解は当然あるだろう。たとえば司馬遼太郎は。日本も、応仁の乱あたりで一編切れたと考えてもいいぐらいだと言っている。

とはいえ江戸時代である。ここで真の日本的なものが育まれた。柄谷行人は、かつてコジューヴの日本文化論(日本的スノビズム)を語りつつ、《日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと》としている。

江戸文化とは、江戸幕府の基本政策によって醸成された。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

かりにこのような日本的なものがいまだ21世紀の日本に生き残っているならーーおそらくいまだ蟠踞していると思われるがーー、「普遍性」など目指しようがない。移民政策をいまさら推進したら、フランスであれ移民居住区がゲットー化しているのだから、日本では、かねてよりの得意技「ムラ八分」が起こるに決まっている。《一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する》(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」)――このような社会でどうして移民との共存があり得えようか。

日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。(……)

労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

加藤周一は、この類の批判、ーー日本の「共感の共同体」、コンセンサス主義などの変奏をもってーーを終生何度もくり返している。

ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一、『学ぶこと・思うこと』2003)

さて、もちろん表題の「鎖国のすすめ」は、わたくしの思いとしては反語である。だが「鎖国」的メンタリティは癒しようのない日本の症状なのかもしれないとはときに思う。

現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。(中島義道『醜い日本の私』)

蓮實重彦の言い方をするなら、日本人はいまだ文化的にすこぶる「制度的な」存在なのだ。そしてくり返せば、それはある意味ではやむえないのかもしれない。

たしかに蓋然性という点からすれば、いま、大部分の日本人が日本語で話し、かつ読んでいることに間違いなかろうが、そうでない残りの部分、つまり日本人でありながらも日本語を話さず、読んでもいない人たちや、逆に日本人でないにもかかわらず日本語で話し、読んでいる人たちは、決して不自然さの中に仮に身を置いているわけではない。余儀なくそうしているのであれ、あるいは自分から進んでそうしているのであれ、その理由はともかくとして、割合からいえば確かに少数者であるに違いないこの残りの部分の存在を無視したばあい、二十世紀の地球はたちどころに地球として機能しなくなるはずであり、その意味で、それは不自然とはほど遠い一つの現実にほかなるまい。だから、いま、この日本語のつらなりを日本人として読んでいるあなたは、決して自然さに保護されているわけではなく、選ばれた不自然を自然であるかに思いこんでいるに過ぎない。選択された不自然を自然だと信ずることへの確信を、ここではとりあえず「制度」と呼んでみたいが、この「制度」が、懐しさの訪れようもない世界へと人びとを閉じこめてしまうことはいうまでもない。「制度」は、それ自体として余白も陥没点も持たない充足しきった空間である。無知のまわりには、知識へと向う強烈な磁力が働いている。誤謬の前には正確さが立ちはだかって正確さへの道を告げる。理性は、非理性を訓育する。正常は狂気を哀れに思う。しかも、こうした二元論をどこまでも堅持すべく、ときには狂気の祭典、非理性の反乱、誤謬の顕揚、無知への郷愁といった儀式をすら「制度」は計画し現実に演出したりもする。そして、いたるところで懐しさの可能性が絶たれてゆくのだ。懐しさとは、知識でも無知でもなく、正確さでも誤謬でもなく、理性と非理性、正常と狂気といった差異そのものを無効にする徹底した曖昧さにほかならぬからだ。(蓮實重彦『反=日本語論』)

もっとも反=制度的な振舞いを演じてしまうこと自体、ーーたとえばわたくしが今いささかやっているのかもしれないことだがーー制度的な存在ではあるのを忘れてはならない、《 制度に抗うには、 少なくとも抵抗すべき対象を見据えうる程よく聡明な視線がそなわっていなければならぬ。 その意味で、 あらゆる反抗者は、いくぶんか制度的な存在たらざるをえないだろう》(『凡庸な芸術家の肖像』)

この蓮實重彦と近似した論理を、晩年のラカンも表明している。

資本主義のディスクールを告発することは、それに規範を与え、つまり完成させ、結局、それを強化することになる。(ラカン『テレヴィジョン』)

結局、告発するだけではラチがあかない。対抗運動を組織するしかないのだろう。マルクスはイデオロギー批判において、ひとが自分をどう考えているかではなく、現実に何をしているかが問題だという意味合いのことをくり返している。とはいえ、次のようにフロイトの言葉を引用しておこう。

知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)

いずれにせよ日本人の多くは閉じられた共同体の徹底的な「制度的な」存在である。

フロイトは言っている、

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』)

もちろんこの「ユダヤ人」は、ユダヤ共同体を意味していない。《ここでの「ユダヤ的であること」は、いかなる共同体にも帰属せずその「間」に立つことである》(柄谷行人『探求 Ⅱ』)。

とすれば日本人はどうか。フロイトをパラフレーズしておこう。

「日本人であるせいで、私は、 この列島の曖昧模糊として春のような文化に染まり、ことごとく「 空気」を読みながら行動するようになりました。そして知力を行使する際に著しい制約の憂き目に遭い、数多の偏見にまみれることになりました。日本人の故に私はまた、知らず知らずのうちにムラ八分的な排斥運動に身をそめてしまうのですし、固く結束した多数派に組みすることにうっとりと慰安を見出すのでした。」