2017年8月7日月曜日

災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはない

丸山真男は日本を無思想・無イデオロギーの国と呼んでいる。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談)

だが、なぜ日本はことさら無思想・無イデオロギーの国なのだろうか。

柄谷行人は、岩井克人との対談(1990年)にて、「日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと」という意味合いのことを言っている(参照)。

江戸文化の影響とは次のようなものである。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

ここでは「布教の禁と檀家制度」に絞れば、次のようなことがあった。

信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。(……)

布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収)

日本が「無思想・無イデオロギーの国」であるのは、《信長が比叡山を焼いた事件》、そしてその後の布教の禁と檀家制度の影響が大きいのは間違いないだろう。

だがそれだけだろうか? 丸山真男は、日本は《人間が思想によって生きるという伝統が乏しい》ことは、《宗教がないこと、ドグマがないことと関係している》と言っているが、この「宗教」とは「一神教」のことである(日本には自然宗教はふんだんにある。[参照]:「創唱宗教/自然宗教」)。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

一神教の起源については次のような見解がある。

一神教は進化の結果からではなく、宗教的天才による〈革命〉(リボリューション)によってのみ生じた。(山我哲雄『一神教の起源』、PDF

だが日本において一神教が育たなかったのは、宗教的天才の不在だったせいだろうか。上の聖書学者山我哲雄のような、学会で高い評価を得ている方ではなく、市井の、ーーおそらく独学歴史研究者だろうーー関裕二氏次の、わたくしにはとても面白い叙述を見出した。歴史的事実関係についての記述にはやや疑いをもって読まねばならないが、発想の仕方はとても示唆溢れている。

考えてみれば、災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはなかったのだ。日本列島に住んでいれば、一生に一度は、何かしら災害に見舞われたに違いない。誰が、荒れ狂う嵐に打つ勝てると思うだろう。誰が、大津波をはね返すことができると信じただろう。「自然を支配し、改造する」などという、一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていたに違いないのである。

一神教は砂漠で生まれた。地震も、津波も、台風も、火山の噴火もない場所で生まれたのだ。彼らは、「自然が支配できる」と考えたが、彼らの考える「自然」こそ、観念的なものにすぎなかった。なにしろ、砂漠には「自然がなかった」からである。それはそれで苛酷な環境だったことはたしかだ。だからこそ、「この境遇を克服したい」と考えたのだろうが、本当の「自然」を知らないからこそ、「人間は世界を征服できる」と妄信したのだろう。ここが、多神教と一神教の、決定的な差である。

また、多神教世界では、「万物は流転し、滅びたものはいずれ蘇る」と信じた。だから、アイヌはイオマンテで熊祭をし、殺した熊の魂は、再び地上界に戻ってくると願い、信じた。熊だけではない。太陽も沈み、やがて昇る。一年の移り変わりも、循環する。日照時間は短くなり、冬至の日に太陽の力が一番弱まるが、逆に「影」は長くなる。死と再生は隣り合わせだ。縄文人の円形の家で、冬至の朝日が入口にちょうど射し込む例が見つかって、円形の家は母胎で、再生の呪術が込まられているのではないかと考えられている。自然も同様に、移ろう。木々の葉は散り、春にならば深緑に覆われる。人間も、死んで終わるわけではない。魂はいつか再び、この世に戻ってくると信じていた。それは、「自然を観察していると、そう考えざるを得ない」からであり、この点も、一神教の発想とは異なっている。

ひとりの人間の、生も、多様性を持ち、「廻る」と信じられていた。鬼のような生命力を持った童子。成長して長寿を保つと、穏やかな老翁となり、周囲を和ます。そして、寿命が尽きて死んでいくが、日が沈み、また日は昇るように、いずれこの世に戻ってくると信じたのである。関裕二『日本人はなぜ震災にへこたれないのか』、2011年) 

ようするに日本が理念がない国、つまり丸山真男のいう「日本を無思想・無イデオロギーの国」であるのは、地震大国であることの影響が大きいはずである。関裕二氏が《一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていた》とするのは冒頭の丸山真男の《思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎない》との文と響き合う。

次の中井久夫の文も、日本的環境においては長期的ヴィジョンなど通用しない、という風に読むことができる。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。

為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出)

中井の《日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない》との表現は、これもまた丸山の《無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方》に繋がってくるだろう。

だがここでふたたび丸山を繰り返しておこう、日本においては《思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない》と。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006)
理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

…………

※付記
このたびの東日本大地震大津波の惨事の後から、千何百年昔にも東北に今回の規模に劣らぬ大地震大津波のあったことが指摘された。

平安初期の貞観年間のことだという。年表を見ると、八六九年、陸奥大地震大津波とある。 しかもその五年前には、富士山が大噴火を起こしている。陸奥の災害の九年後には関東の 大地震、そのまた九年後には畿内の大地震が記されている。

あまりのことに大昔のことながら暗然とさせられているうちに、ふっと貞観の仏たちの相貌が浮かんだ。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)



◆地震の神話と地震の記憶 保立道久、2015,pdf

『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で基本的な説明をしたことですが、日本の神話の基本には地震・噴火神話がありました。

日本が本格的に文明化したのは八世紀、奈良時代のことでしたが、この時代には、まだまだ神話世界は生きていました。そして、問題は、八世紀・九世紀が列島にとって一つの大地動乱の時代であったことです。(……)歴史の側の資料を点検してみると、地震や噴火が八・九世紀の社会史と深い関係をもっていることは一目瞭然である。そのうちもっとも重要なのは、734年に発生した河内大和地震でしょう。(……)九世紀に入っても事態は同じでした。とくに今回の3.11の地震とほぼ同じ規模をもっていたという869年の陸奥大地震・大津波(……)。

そのしばらく前の864年には富士大噴火が起きており、その後、いわゆる関東大地震と同じ発震構造をもつとされる南関東大地震が起き、さらに南海トラフの大地震が発生しています。これらの史料をみていますと、当時の人々は神話の神々がおそるべき怨霊に姿をかえて復活したと感じていたのではないかと思います。その恐怖は相当のものであったでしょう。

私は、京都祇園社の祇園会の創始が、869年の陸奥大地震・大津波の直後と伝えられているのは、このような世情と関係していると考えています。

(……)

日本の歴史文化には地震が骨絡みになっている事情はご理解いただけたでしょうか。私は、歴史学がこのようなことを見のがしてきたことに驚いています。それは歴史学が、地震列島日本の人々が、実は、地震のことを一種のタブーにしてきたという状態を本格的に突破しようという見通しをもっていなかったことを示すといわれてもやむえないでしょう。

(……)たしかに、この列島の住人は、過去の記憶の宝庫を点検してみる必要があるのではないでしょうか。(保立道久「地震の神話と地震の記憶」2015) 

《日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。》(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号)



ひきつづき人知を尽くさなくてはならない。それでも災害をすっかり排除することはできない。 しかしまた、災害にたいして備わっている、まもられている、という信頼なしに、人は日常の心で生きられるものだろうか。苦しいところへ追いこまれたものだ。

これまでの大災害、天変地異や飢饉や疫病の歴史を年譜だけでも眺めて、その頻繁なくり かえしの中で生きた古人たちの心を思うべきなのだろう。厄災の脅威に身近から迫られな がらの日常もあり、祭りや踊りもあった。

生きながらえたと感じる古人たちの祭りは、現代のイベントよりも、はるかに強烈なものだったと思われる。心身の底で死者たちと通じあっていたはずだ。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)

◆先進的地震津波シミュレーションの進捗について(独立行政法人海洋研究開発機構、金田義行、2013、pdf)



危機と言われる。この言葉ほど風化しやすいものはない。人は危機感を日常に長くは保って いられないものらしい。それでは生きられない。しかし危機そのものは日常につねにつきまとう。

考えてみればよい。大津波に吞まれた人はその直前まで日常の内にあったのだ。このたび の大災害から遠隔の地にあった人にとってもいつなんどき、日常に断層が一瞬にして走るか、 知れはしない。「決定的な」などと言うもおろかな断層が。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)

…………

上に引用した文のなかで、古井由吉は《人知を尽くさなくてはならない》と言っている。もちろん《それでも災害をすっかり排除することはできない》。

なによりもまず「人知を尽くす」べき標的は「東京」である。

東京の場合には富も権力も情報も非常に集中しているために、どのようにして他の地方が東京を救援するかという問題は、実際検討されているのだろうか。私にはわからない。われわれが冷静でいられたのは、やがて救援があるということを疑わなかったからである。(中井久夫『精神科医の見た二都市 1995年2,3月』)

最後に、日本には稀なヴィジョンの人、磯崎新の見解を掲げよう。

◆都市に未来はあるのか──建築と都市工学の対話、2014
磯崎新──もうひとつ聞きたいことがあります。人を東京の内側に収めることが前提になっているようですが、なぜ人は東京に同じ状態で住んでいなければいけないのか、外に出す方法は考えられないのでしょうか。東京の真ん中に、東京を延長していくことにどれほどの意味があるのでしょうか。3.11の東京では、多くの帰宅難民が出ました。あのときの東京のインフラは、死者を出さないぎりぎりのところで持ちこたえるだけで精一杯だったことを、誰もが記憶しているでしょう。ところがいまではまた内に向かって人を増やそうとしている。あたかも避難の仕方を統制すれば生き延びれるかのように、希望的なことしか話題にしない。何が必要か。僕は東京の人口を1,300万人から1,000万人を切る、理想的には800万人まで減少させることができなければ、インフラは機能しきれないと思っています。それがいろいろなことを考えたときの適正値でしょう。

東京国際フォーラム フォーラムレポート ゲスト: 磯崎新 (建築家)


磯崎新) 確率論なので何とも言えないですが、30年以内に70%の確率で直下型地震が東京に起こると言われています。その時に東京がものすごいエネルギーで壊れる訳だから、色々なシミュレーションが行われているのですが、被害は今回の震災の100倍くらいと予測されています。今回帰宅難民の中で死人がでなかったのは奇跡的なことで、ある意味ストレステストをやってもらったと考えた方が良い。そうなると東京は本気で何かをやらないといけない。少なくとも東京は安泰なのではなくて、より危険な臨界状態にいるということを考えた方が良いと僕は思います。首都が移るのはそんなに難しいことではないんです。東京が首都であるべきという思い込みが我々の思考を固めてしまっているんです。一つの社会の体制が出来上がったときに、例えば近代で考えると、国民国家の首都が国民国家の見識を示していて、都市という概念で出来上がっている。ところが今、二世代くらい後の状況が社会では起こっているにもかかわらず、国民国家がかつて決めたものに我が国は則っている。首都の形態を東京が取っていない最大の理由なのではないか。世界でも上手く行っている例はあまりないですよ。国会をイカダに乗せる案は、宮崎駿さんのアニメにも出てくるラピュタのような感じで国会が日本中を訪問したら面白いと思っていて、震災があってそれを思い出したんです。