2016年7月7日木曜日

「多恵子、かずこたちの詩」

ふと、手元のアンソロジーのなかにある富岡多恵子の詩を読んで、なんだか急に気にいってしまったのだけれどーーつまり昔は素通りしていた詩だーー、吉岡実が彼女について何か言っていたな、と思いだし探ってみると、タエコとマスオ(池田満寿夫)に小説家を書くように勧めたとある。これは憶えていた。

それとは別に、《多恵子、かずこたちの詩》ともあり、こっちのほうは失念していた。

というわけで、「現代日本でいちばん不道徳な、いちばんエロティックな いちばんグロテスクな、いちばん犯罪的な、…詩を書く詩人」(澁澤龍彦)の〈私の好きなもの〉を掲げる。

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)。

…………

《二十才の春》にも反応しよう。 「昭和16年(1941)夏満州に出征」だから、1919年生まれの吉岡実の出征は、二十二歳であり、「支那」での出来事は、それ以降のどれかの年のことで、《二十才の春》とは、実際には別の話なのかもしれないが、《それはぼくが二十才のとき/死なせたシナの少女に似ている》と《粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた》という文が、わたくしには強い印象が残っている。


半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石(〈珈琲〉)

ぼくがクワイがすきだといったら
 ひとりの少女が笑った 
それはぼくが二十才のとき 
死なせたシナの少女に似ている(〈恋する絵〉)

コルクの木のながい林の道を
 雨傘さしたシナの母娘 
美しい脚を四つたらして行く 
下からまる見え(同上)

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)。


オレは、吉岡実という人間がひどく好きなんだろうな、その詩と同じくらい。

〈私の好きなもの〉から受ける感じは、金井美恵子が下に記している吉岡実像とそっくりだ。さらに《吉岡さんは、いつも、…平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう》という印象さえ受ける〈私の好きなもの〉の数々だ・・・

……すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。

もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。

なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人Ⅰ 「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)


この金井美恵子の文もとってもお気に入りなのだけれど、その原因のなかには、失われたものを懐かしむ心持ちもいくらか混じっている、ーー炬燵での家族団欒の鍋は、母が50歳(1982)で死んだあとにあっただろうか、と。

そもそも、あれ以降、畳のある家に住むことがなくなった。実家もふだんは洋式のテーブルで食事をしたのだけど、大晦日と正月だけは日本間での家族親族の団欒がーーあの前にはーーあった。