2016年7月8日金曜日

オレは完全な倒錯だよ

ラカンは晩年次のように言っている。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)

同時期に、「私は精神病的だ je suis psychotique」とも言っている。

La psychose est un essai de rigueur. En ce sens, je dirais que je suis psychotique. Je suis psychotique pour la seule raison que j’ai toujours essayée d’être rigoureux. (Universités nord-américaines.1975, « Yale University, Kanzer Seminar ».)

とはいえ、理由として 「厳密性の試み essayée d’être rigoureux」 ともあり、これは大他者を信用しないで、厳密に論理的に世界を再構成する自らの性向を言おうとしている。

二年後にはこうも言っている。

私がもっと精神病だったら、おそらくもっとよい分析家になれたのだが。Si j'étais plus psychotique, je serais probablement meilleur analyste.(Ouverture section clinique 、1977、PDF)

 さらにこう付け加えてもいい。

きみたちは、私が何度もくり返したことを聞いたはずだ、精神分析は、新しい倒錯を発明することさえ成功できていない、と。ああ何と悲しいことだ!(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)

Vous m'avez entendu très souvent énoncer ceci : que la psychanalyse n'a même pas été foutue d'inventer une nouvelle perversion. C'est triste !

というわけで、なんでもいいんじゃないか、すくなくとも臨床家でなかったら。がたがた言うなよ、神経症やら精神病やら倒錯と。

オレは完全な倒錯だよ、症状のない、な。いやヒョットシテあるかも知れないが。

そもそも、臨床的ラカン主流派でさえこう言ってるんだからさ。

ラカンは後に父の隠喩について冷笑的になる、それはまた一つの倒錯だと言うことにより。ラカンは皮肉にも、それを père-version と記した…父に向かう [vers le père] 動き、と。(JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER 2013)

オマエさん、神経症だろ。神経症ってのは、言ってしまえば、固まりつつある倒錯だよ、最悪だね。

以下も何度も引用してきたけどね、

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan Tout le monde délire、1979)という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてど うしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆ る臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。 そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller
神経症においては、我々は「父の名」を持っている、正しい場所にだ。「父の名」は、太陽の下に、その場がある。太陽とは「父の名」の表象だ。

精神病においては、我々が古典的ラカン派の仕方でそれを構成するなら、代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ。(…)

「ふつうの精神病」において、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ。 (…)とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かによって、主体は逃げ出したり生き続けたりすることが可能になる。ある意味、この何かは、「父の名」と同じようなものだ。ぴったりした見せかけの装いとして。

精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。(…)父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれに仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでも、まさにこのようにある。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited.、私訳,PDF


神経症ってのは、ある特殊な主体の症状なんだよ、オマエさん、特殊なんだよ。オレは倒錯というどちらかというと特殊でない症状をもつ「幸福」な種族なのさ。

…………

以下は初出。

(後期の)ラカンは、フロイトの「無意識」という言葉を「言存在parlêtre」に置き換えた。« le sujet se supportant du parlêtre, qui est ce que je désigne comme étant l'inconscient »(S.23)

(……)ご存知のように、症状ーー言語のように構造化されている無意識の形成物としての症状は隠喩である。症状は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンの代替によって引き起こされる意味の効果だ。

他方、言存在 parlêtre のサントームは、「身体の出来事 un événement de corps」、享楽の出現である。さらに、ここで問題となっている身体は、あなたの身体であるとは何も言っていない。あなたが〈女〉であるなら、あなたは「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」でありうる。

そして、症状の症状があるとき、「誰か他の症状 symptôme d'un autre」から症状を形成するとき、すなわち、症状が二次的な力へと持ち上げられるとき、ヒステリーがある。言存在の症状は、臨床的類型化と関わって、疑いなくいっそうの明瞭化が必要である。私が、ラカンの指示に従って(“Joyce le Symptôme (II)” in Autres écrits, op. 569)いま言ったように、いかに言存在はヒステリーに適用すべきなのか?(L’INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT LECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER、2014)

ミレールはここで、ラカンのオートルエクリの次の文への問いをしている。

Laissons le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps, lié à ce que : l'on l'a, l'on l'a de l'air, l'on l'aire, de l'on l'a. Ça se chante à l'occasion et Joyce ne s'en prive pas. Ainsi des individus qu'Aristote prend pour des corps, peuvent n'être rien que symptômes eux-mêmes relativement à d'autres corps. Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps.

Si ce n'est pas le cas, elle reste symptôme dit hystérique, on veut dire par là dernier. Soit paradoxalement que ne l'intéresse qu'un autre symptôme : il ne se range donc qu'avant dernier et n'est de plus pas privilège d'une femme quoiqu'on comprenne bien à mesurer le sort de LOM comme parlêtre, ce dont elle se symptomatise. C'est des hystériques, hystériques symptômes de femmes (pas toutes comme ça sans doute, puisque c'est de n'être pas toutes (comme ça), qu'elles sont notées d'être des femmes chez LOM, soit de l'on l'a), c'est des hystériques symptômes que l'analyse a pu prendre pied dans l'expérience. (AE..569、1975)

これでみると、ヒステリーでさえ、揺れ動いてるんだよ、どのように捉えたらいいのかいまだ議論しているらしい。

たとえば、次のアルゼンチンの女流分析家Florencia Faríasの文を掲げておこう。

女性性は、女にとって(も)異者である。したがって、彼女自身の身体という手段にて、女は「他の女」の神秘を敬う。「他の女」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、他の女を通して、リアルな他者を通して、彼女が何なのかを具現化しようと試みる。 ……

純化したヒステリアの目的は、リアルな身体を作ることである。その身体のなかには、症状が住んでいる。症状の能動化の肉体的場。これがヒステリー的女の挑戦である。この身体、「症状の出来事」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない

言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui
である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF