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2016年5月9日月曜日

静止的視覚映像による遡及的なトラウマの構成

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収)

一見、奇妙な文かもしれない。なぜ震災のトラウマ経験が三割で七割は別のもの(井戸の底のような)があるのか。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

もうひとつ、中井久夫の文を掲げておく。

一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)

しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 )

…………

以下のロレンツォ・キエーザによる文は、静止的視覚映像(スナップショット)による遡及的なトラウマの構成の説明がある。昨晩読んでいて、わたくしはようやく何かを真に掴みかけた(ラカン派観点からの、という意味だが)という心持に襲われた。すくなくとも、上に掲げた中井久夫の文を読み解く鍵にもなる文のはずだ。


◆ロレンツォ・キエーザ、2007(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007,PDF、P.149~)

幻想とともに、我々は何かの現前のなかにいる。記憶の流れ le cours de la mémoire をスナップショット l'état d'instantané に固定し還元する何かーースクリーンメモリー souvenir-écranと呼ばれるある点で止める何かの現前。

映画の動きを考えてみよう。素早く継起する動き、そして突然ある点で止まり、全登場人物が凍りつく。このスナップショットは、フルシーン scène pleine の還元の特色である…幻想のなかで不動にされているもの、そこには全てのエロス的機能が積み込まれたままだ…フルシーンが表現したものを含み、そして幻想が目撃し支えたもののが不動化されている…(Lacan,Le séminaire livre IV)
我々はいかにこの濃密な一節を解釈すべきだろう。実際のところ《還元された réduit 》幻想的なスナップショットから何を得るのか。ラカンの説明のなかでは暗示的なままになっている二つの直接的な核心をはっきりさせなければならない。

第一に、問題の映画は、我々すべてにとって、必然的に恐怖映画だということだ。

二番目に、我々はみな恐怖映画を観賞したい。最初は誰もがそれを好きでなくてさえ。率直に言えば、子どもが、トラウマ的内容に気づかないままで、偶然に観ている映画の衝撃シーンに凍りつくとき、ーー彼が最初に、不安を引きおこす「母の欲望」(母なる大他者の欲望 the desire-of-the- (m)Other )の現実界との耐がたい遭遇を組織したときーー、子どもはどちらの場合も、トラウマから保護してくれる静止画像を得る(場面の想像的な対象化を通して)。そして自ら部分的にトラウマ化される(想像的な対象化の底に横たわるリアルな場面を通して)。

言い換えれば、ラカンが「フルシーン」と呼ぶものを固定する「スクリーン/ヴェール」という緩和のおかげで、子どもは、彼が観たものを「楽しむ=享楽する」ことになる。そして、何度もくり返し観たくなる。親がフィルムを没収したら、子どもは類似の場面をほかのフィルムに再発見しようとする…(ラカンが言っていることを把握するために、怖がっている子どもが両手で目を覆い、同時に、指のあいだの隙間を通して覗き見しているやり方を思い起こそう)。

ここで強調されるべき最も重要な点は、トラウマ的シーンは、静止画像の想像的固着によってのみ、遡及的(事後的)に構成されうるということだ。「記憶の流れ」は、「スクリーンメモリー」によって提供された静止画像のおかげでのみ記憶化されうる。

最初は、「母の欲望」(母なる大他者の欲望)との純粋なカオス的遭遇があるだけである。それは、幼児には、主体的に経験されていない。厳密に言って、恐怖映画のリアルなシーンが、純粋なカオス的出来事以上の何かになるのは、想像的に凍りついた後のみだ。

これにつけ加え、リアルなシーン(の遡及的出現)は、次の両方だと見なされるべきだ。すなわち、一方で、欠如、つまり子どもがそれ自体として欲望する、喪われたカオス的出来事の残余として。他方で、正確な意味での欠如、つまり出来事の目撃、その《居残っている支え support restant》として。

ここには、ラカン後年の《原初とは最初を意味しない》(セミネール、「アンコール」)ーー《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》( séminaire ⅩⅩ)の説明もある。

かつまた、不快であるはずのトラウマ的静止映像がなぜ反復されるのかの説明もある(わたくしには、三歳と三十代に得た、長いあいだ悩まされたスクリーンショットが二つある)。

いや、「悩まされた」というよりも、上の説明にあるように、《怖がっている子どもが両手で目を覆い、同時に、指のあいだの隙間を通して覗き見しているやり方》をしていさえわたくしはいる。

たとえば、三十代に得たスクリーンショットは、阪神大震災にかかわるものだ。わたくしは被災者ではない。ただ被災現場に慌てて訪れなければならない理由があった(別れたばかりの前妻と娘が西宮に住んでいた)。そこで得た、「あなたのせいでこんな目にあったのよ」という顔の静止画像に、ある時期、ひどく悩まされた。

だが、今でも、大きな災害があるたびに、この静止画像と類似した画像を探しさえする、などということが起る。


上のロレンツォの文に戻れば、あの文には現実界がなぜ象徴界側にあるのかーー上の文では想像的なスクリーンメモリーだが、想像界は、つねにいつも象徴界によって構成されている、という意味では象徴界の静止映像と言ってよいーーの説明さえ読みとれる。

再掲しよう。

最初は、「母の欲望」(母なる大他者の欲望)との純粋なカオス的遭遇があるだけである。それは、幼児には、主体的に経験されていない。厳密に言って、恐怖映画のリアルなシーンが、純粋なカオス的出来事以上の何かになるのは、想像的に凍りついた後のみだ。(ロレンツォ・キエーザ、2007)

これは、ラカンの存在欠如 manque à être とは、言語の遡及的な rétroactif 効果 effet から生じる、という見解を日常的な経験の下で、よりよく理解させてくれる、《L'effet du langage est rétroactif précisément en ceci que c'est à mesure de son développement qu'il manifeste ce qu'il est à proprement parler de manque à être.》 (S.17)。

わたくしは、スクリーンショットがあって初めて純粋なカオス的不安が、《純粋なカオス的出来事以上の何かになる》という文を、原シニフィアンの介入があって初めて、原不安が、死の欲動になる、と読む。

原初にある人間の「本源的な欲動のアナーキー(l'anarchie de ses pulsions élémentaires)」(セミネールⅠ)とは、いまだ本来の欲動ではない。人間に「死の欲動」があるのは、最初のスクリーンメモリー、あるいは原シニフィアン(原言語)が事後的にそれを構成する、というふうにわたくしは読む。

本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。(……)

情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従って消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、精神のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event (Trans. B. Fulks).ーー人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?


現実界は象徴界の側にある、彼方にはない、というジジェクの主張もこられの説明からよりいっそう納得的に読むことができる。

象徴秩序と現実 reality とのあいだの対立において、現実界 the Real は象徴界の側にある。それは、象徴界にまとわりつく--象徴界の非一貫性/裂け目/不可能性という装いにてしがみつく--現実 reality の部分である。現実界とは、象徴秩序と現実 reality とのあいだの外面的な対立が、象徴界自体に内在しているーー内部から手足を切断されつつ内在しているーーそのポイントにある。すなわち、象徴界の非全体 pas-tout である。ひとつの現実界 a Real があるのは、象徴界が外部の現実界 external Real を掴みえないからではない。そうでなく、象徴界が十全にはそれ自体になりえないからだ。存在(現実)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で、ひびが入っているせいである。というのは、現実界 the Real とは形式化の行き詰まりだから。

この命題は、その十全な「観念論者」の重さを与えられねばならない。すなわち、現実 reality があまりに豊かなので、どの形式化も現実 reality を掴むのに失敗し、現実の上でよろめくという《だけではない》。現実界 the Real とは、形式化の 行き詰まり以外の何ものでもない。濃密な現実 reality が「向こう out there」にあるのは、象徴秩序の非一貫性と裂け目のためである。現実界 the Real は、形式化の非全体 pas-tout 以外の何ものでもない。現実界は象徴秩序の外部にある例外ではないのだ。

現実 reality はそれ自体、不安定で非一貫的なものだ。したがって、現実は、それ自体を一貫的な領域へと安定化するために、主人のシニフィアンの介入が必要である。この主人のシニフィアンは、点(ポワン・ド、キャピトン)を徴づける。この点において、シニフィアンが現実界 the Real のなかに落ちる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


ジジェクによる、トラウマの遡及的 nachträglich 特性をめぐる叙述も附記しておこう。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)