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2016年7月10日日曜日

Guarneri Quartet(グァルネリ弦楽四重奏団)

◆Guarneri Quartet: Beethoven Op. 130 Mvt. V. Cavatina




次のフォーレの遺作の演奏はどのカルテットのものかわからないのだが、
Guarneri Quartet(グァルネリ弦楽四重奏団)かもしれない。
いずれにせよ、わたくしが一番愛するアンダンテの演奏だ。


◆Faure, String Quartet, Movement 2(op.121,andante)




三楽章は、わたくしには若い四重奏団のLe Quatuor Ebène(エベーヌ四重奏団)の演奏を好む。





わたくしは機会あるたびに、このフォーレの弦楽四重奏op.121の二楽章、三楽章に戻って来る。そしてときに全身が戦慄する・・・何かを思い出そうとするのだが、それが何なのかいまだつかみえない。

昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に苦悩をひきおこしたのは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。
また人生が、あるときはじつに美しいものに見えても、結局つまらないものと判断されたのだったとしたら、そのつまらなさというのは、人生それ自身とはまったくべつのものによって、人生を何一つふくんでいない映像によって、人生を判断し、人生を貶めているからであることを理解するのであった。そしてそれに付随してやっと私が気づいたのは、ざっとこういうことだった、現実の真の印象の一つ一つのあいだをへだてている相違はーー人生の型にはまった一様な描写がとうてい真のものに似るはずがないのは、このたがいの相違によって説明されるんだがーーたぶんつぎのような原因によるのだ、すなわち、われわれが人生のある時期にいったきわめてわずかな言葉とか、ある時期にやったきわめて些細な身振とかは、論理的にすこしもそれとは関係がない諸物にとりかこまれ、その諸物の反映を受けていたが、それらの物を言葉、身振から切りはなしてしまったのは理知で、そうなった以上、理知は、われわれが推理を必要とする場合がきても、それらの物をどこにつなぐこともできなかったのだ。
ところが、それらのさまざまな物のまんなかにはーーここには、田舎のレストランの花咲く壁面のばら色の夕映とか、空腹感とか、女たちへの欲望とか、ぜいたくへの快楽とががあり、かしこには、水の女精たちの肩のようにちらちらと水面に浮かびでる楽節の断片をつつみこむ朝の海の青い波の渦巻があるというふうにーーこの上もなく単純な身振や行為が、密封した千の瓶のなかにとじこめられたようになって残っており、その瓶の一つ一つには、絶対に他とは異なる色や匂や気温をふくむものが、いっぱいに詰っているだろう、いうまでもなく、それらの瓶は、われわれが単に夢によってであれ思考によってであれ、たえず変化することをやめないで過ぎてきたその年月順に配列されているのであり、また種々さまざまな高度に位置していて、われわれにきわめて多種多様な雰囲気の感覚をあたえるというわけなのだ。
 むろんそういう諸変化をわれわれは知らずのうちになしとげただろう。それにしても、突然われわれにもどってくる回想と、われわれの現状とのあいだには、異なる年月、場所、時間の、二つの回想のあいだにおいても同様だが、非常な距離がある、したがって、両者に特有の独自性を問題外にしても、その距離の点だけで、それぞれをたがいに比較できなくするに十分だろう。
そうなのだ、回想は、忘却のおかげで、それ自身と現在の瞬間とのあいだに、なんの関係をむすぶことも、どんな鎖の輪を投げることもできなかった、回想は自分の場所、自分の日付にとどまったままだった、回想はいつまでもある谷間の窪道に、ある峰の尖端に、その距離、その孤立を保ってきた、というのが事実であるにしても、その回想が、突然われわれにある新しい空気を吸わせるというわけは、その空気こそまさしくわれわれがかつて吸ったある空気だからなのである。そうした一段と純粋な空気こそ、詩人たちが楽園にみなぎらせようと空しく試みたものであり、その空気は、すでに過去において吸われたことがあって、はじめて、あのように深い再生の感覚をあたえることができるのであろう、けだし、真の楽園とは、人がひとたび失った楽園なのだ。(プルースト「見出された時」)