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2015年11月26日木曜日

神の復活(神の死の死)

《思弁的実在論による相関主義批判(カント批判)の是非については千葉さんとの対話に譲るとして、ぼくは最近、霊とか死者とかに関心が出ているので、その点では思弁的実在論界隈の話題に結果として近づいてきている感じもしないではない。》(東浩紀)

ーーというツイートを先ほどみたので、かなり以前訳したものの在庫整理として掲げる(わたくしは最近寝ながら英文PDFをiPadで読み、気になるところをコピーして、これまた寝ながら訳しておく習慣がある。どうも英文のままでは失念してばかりだから)。

ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、彼が言っているのは、物事を説明する原理、中心的で唯一の、全てにかかわる原理はないということだ。さて、もし唯一の全てにかかわる原理はないなら、科学もまたもう一つの解釈にすぎないことを意味する。そして科学は、絶対的真理への排他的権利を持っていないことになる。しかし、もしそれが本当なら、世界についての非科学的な思考方法がーー宗教的方法も含め--、再浮上することになる。

実際に本当だ、現在の支配的な「懐疑論」、啓蒙の世俗的ナラティヴについての「懐疑論」は、いわゆる「ポスト世俗的」転回と表裏一体であることは。ポスト世俗的転回においては、宗教が鍵となる「抵抗の場」として現れている。それは単独的な西洋の近代性として認知されたものにおける「疎外」に対する抵抗の場だ。

宗教は、ここでは〈神〉への「アウラ的」信念を表している。ここでの言葉は、どんな積極的な存在論的目的論の onto‐teleological 地位も与えられていない。すなわち、神はもはや我々の運命を観察する至高の存在ではない。そうではなく、根源的な「開け」にとっての名、変革の希望にとっての名、常に来るべき always‐to‐come「他者性」にとっての名である。

メイヤスーによれば、「神の死の死」の起源に横たわっているものは、カントの「批判」に固有の誤謬である。すなわち、カントは混同したのだと、哲学的独断論の拒絶(ライプニッツ流の)と全ての哲学的(理性的、概念的)な「絶対」への依拠の拒絶を。あたかも「絶対」とその根源的偶然性は互いに相入れないもののように。

カントは「絶対」を考えることを禁じたとき(というのは、ヌーメノン(物自体)は我々の理性による把握を超えているから)、「絶対」自体は、それによって消滅しはしない。ーーそのような人間の知の批判的境界画定は、「絶対」への新しい論証的空間を開く、「これらの言説において、何もその有効性の理性的正当化とは似ていないという唯一の条件の下に」(Meillassoux, After Finitude)。

このようにして、「イデオロギーの満ち足りた批判 victorious critique は、盲目的信念にとっての再生された議論へと変形させらる」(同上 Meillassoux)。すなわち、どの独断論 dogmaticism 批判も、「credo qua absurdum(私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから)」の予期されていない復活に終わる。

しかしながら、メイヤスーが、嫌味たっぷりに、いかにカント的な観念論者の「理性的形而上学」が「非合理的信念主義」にとっての空間を開くかに注目するとき、彼は奇妙にも見過ごしている、同じことが彼自身のポジションにとっても真実であることを。すなわち、相関主義 correlationism への唯物論者の「批判」もまた新しい神性 divinity を開くのではないか? (我々はメイヤスーのほとんどは未発表のテキスト--存在しない潜在的な神 inexistent virtual God をめぐるテキストーーから知るように)。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

実は、「テロ集団の構造(パラノイアとヒステリーの馬鍬い)」の後半にあるポール・ヴェルハーゲの「なぜパラノイア的主体を長とするヒステリー的主体の(狂信)集団が目立ってきたのかを、フロイト・ラカン派の観点から説明してくれる論文」にかかわって在庫整理しようと思ったのだが、思い留まった(わたくしは流行りつつある「哲学」を勉強する心持は毛ほどもないし、そもそも一般にいわれる「哲学」自体に関心があるのかといえば疑わしい)。いつまでも利用機会がなさそうなので、ここにナマのまま投稿しておく。

ーーと記したところで、神の死の死とは、ヘーゲル流の「否定の否定」にかかわるんだろうよ、たぶん。以下、「難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン)」よりさわりの部分を掲げておこう。

ラカンの否定の否定は、"性別化の式"の女性の側に位置し、非全体non‐Allの概念にある。例えば、言説でないものは何もない。しかしながら、このnon‐not‐discourse (言説の二重否定)は、すべては言説であるということを意味しない。そうではなく、まさに非全体non‐Allは言説であるということ、外部にあるものは、ポジティヴな何かであるのではなく、対象a、無以上でありながら、何かでなく、一つのものではないmore than nothing but not something, not Oneということだ。別の例を挙げよう。去勢されていない主体はない(性別化の式の女性側では)。しかし、これはすべての主体が去勢されていることを意味しない(非去勢の残余は、もちろん対象aである)。この二重否定において、われわれが触れている現実界とは、カントの無限判断に関連しうる。述語否定の肯定affirmation of a non‐predicateである。"彼は不死である"は、彼が生きていることを単純には意味しない。そうではなく、彼は死んでいないものとして、生きている死として、生きているのである。"彼は不死である"とは、non‐not‐dead(死の二重否定)なのである。同様に、フロイトの無意識とは、不死のようなものである。それは単純に意識しないnot‐consciousことではなく、non‐not‐conscious(意識の二重否定)なのである。そしてこの二重否定において、それはただ存続しないことの否定no not only persistsではなく、強められさえするのだeven redoubled。不死は、死に非ずnot‐dead生に非ず not‐aliveの状態として生き続けるremains。同様に、対象aとは、non‐not‐object(対象の二重否定)ではないだろうか。そしてこの意味で、空虚を具現化する対象ではないだろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING)