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2015年11月23日月曜日

テロ集団の構造(パラノイアとヒステリーの馬鍬い)

「パリ同時多発テロ」と「オウム真理教」」から引き続く。

そこでは、《今回のパリテロは、「シャルリー・エブド事件」以上に、フランスとその周辺国を含めて存在する「オウム真理教」の仕業とみるのが妥当ではないか》としたが、いずれにせよ、イスラム原理主義者の過激派集団とは、オウム真理教のそれと同じように、パラノイア的(妄想的)主体を長とするヒステリー的主体の集団であろう(後述)。

このような集団は、以前から存在したのだろうが、わたくしはそれにはまったく詳しくない。とはいえ、そもそも宗教団体がこの構造をもっているとしてもよい。すなわちパラノイア的長(あるいは理念)とそれに同一化するヒステリーの主体たちの集合体であり、フロイト用語なら集団神経症集団である(参照:「〈ソリダリテ〉(連帯)」の悲しい運命)。

だがある時期からーー「父の死」が顕著になった時代からーーいっそう目立つようになってきているはずだ、いわゆる「小さな〈大他者〉」に同一化した集団の乱立が。

…………

20世紀には「三つの父の死」があった。それは次ぎのように整理される(参照:三つの「父の死」)。

①第一の父の死ーー第一次大戦(西欧文化の父への哀悼)
②第二の父の死--1968年5月(父への哀悼を追い打つ父の権威の死)
③第三の父の死--1989年ベルリンの壁崩壊(マルクスあるいは理念の死)

そして1989年以後、これらの「象徴界の父」の最終的な死によって、「現実界の父」(享楽の父)が回帰している。

「享楽の父」とは、ラカン派の文脈では、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者であり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我である。これはラカンが超自我を「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan ,1955)と形容したことに基づく。

いささか図式的なきらいはあるにせよ、21世紀とは次のような時代と整理できるのは明らかであろう。

・ムハンマドは回帰した、テロリストとして。
・モーセ(世界宗教)も回帰した、世界資本主義として。
・キリストももちろん回帰している、レイシズムとナショナリズムとして。

これらは結局、「父の象徴的機能」なしの「資本主義」ーー資本の論理、資本の欲動ーーの席捲の問題に収斂される。

ラカンは早くも六0年代に、今後数十年の間に新たな人種主義が勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するだろうと予言した。…最近のナショナリズムの激発は、おそらくラカン自身もここまで予想外しなかったであろうと思われるほど、予感が的中したことを…証明している。…この突然の衝撃は、一体どこからその力を引き出しているのだろうか。ラカンはその力を、われらが資本主義文明の基盤そのものを構成している普遍性の追求の裏返しとして位置づけている。マルクス自身、すべての特殊な・「実体的な」・民族的な・遺伝的な結束の崩壊こそ、資本主義の決定的な特徴であるとしている。(ジジェク『斜めから見る』1991 ーー「人間の顔をした世界資本主義者たち」)

こういった洞察を受けて、ラカン系譜の思想家、ジジェクだけでなくたとえばバディウなどが「主人のシニフィアン」(≒父の名)を新しく確立することの重要性を説き続けているわけだ(参照:「神の二度めの死」=「マルクスの死」)。

肝腎なのは「権威としての父」ではなく「父の機能」である(参照:フロイトとラカンの「父の機能」(PAUL VERHAEGHE))。

仏ラカン派女流分析家の第一人者 コレット・ソレールは、今世紀に入る前後、われわれの世紀を次ぎのように定義した、すなわちわれわれは「父」をその役割に教育しなおしたい世紀だと。このあたりのことを、リベラル左翼の学者たち、あるいはフェミニストたちの多くはいまだほどんど分かっていないのではないかと、ときに疑いたくなるときがある。多文化の共存を顕揚するあまり、かつてのヨーロッパ的な普遍性ーー今では虫の息ではあるとはいえーーが「ヨーロッパ中心主義」として敬遠されてしまう(参照:彌縫策とユートピア)。

中井久夫の用語「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」を使うなら、21世紀は「母性のオルギア(距離のない狂宴)」の時代になってしまっているというのに。それは主に資本の欲動の渦巻く世界と言いうる。

・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……

・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)

すなわち、父の機能というオブラートなしの「えげつない」資本の論理の世界である。難民・移民問題とは世界資本主義の時代における新しい奴隷制度とさえ捉え得る(参照:「グローバリズムとは現代の「奴隷制度」である!」)。

「母性のオルギア(距離のない狂宴)/父性のレリギオ(つつしみ)」をめぐる話に戻れば、ラカン派の観点からは次ぎのように言える。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

ーーここでの「権威」とは、構成的な権威(権威主義的な父)ではなく、統整的な権威(父の機能)として読まなければならない。

バディウが「11月13日金曜日のパリテロ」の後、普遍主義といっているのもその意味、「父の機能」の再発明ということである。

絶望した若者を幻惑する、イスラム原理主義とは本来無関係な戦闘行為のヒロイズムに抗して、新たなる普遍主義を構築すべきだ。(バディウ

…………

ところで、なぜパラノイア的主体を長とするヒステリー的主体の(狂信)集団が目立ってきたのかを、フロイト・ラカン派の観点から説明してくれる論文がある。それはベルギーの臨床家でもあるポール・ヴェルハーゲによるもので、オウム真理教事件後の1997年に書かれている(とはいえ彼が日本のオウム真理教のことを念頭に浮べて記したのかどうかは窺い知れない)。

以下、THE TACTICS OF THE MASTER: PARANOIA VERSUS HYSTERIA.,Paul Verhaeghe,1997(PDF)より私訳を掲げるが、ヒステリー概念の基本については、「シェイクスピア、ロラン・バルト、デモ(ヒステリーの言説)」を見よ。

たとえば、そこからいくらか抜き出せば、次のような記述がある。

ヒステリーという概念は1980 年にのDSM-III( 『精神疾患の分類と診断の手引き』 第 III 巻) なるアメリカ精神医学会の診断マニュアルーー中井久夫曰くは「黒船」ーーにて消滅し、その上位区分「神経症」(強迫神経症とともに) カテゴリーが解体されてしまった。
ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)

すなわち、主流の精神医療の分野における「ヒステリー概念」は、現在、解体されてしまったにもかかわらず、我々のほとんどはヒステリー的な側面がある(すくなくともラカン派の観点では)。その前提で以下の文を読もう。

さて、「主人の戦術:パラノイア対ヒステリー」(ポール・ヴェルハーゲ、1997)からの抜粋訳である。


【信仰者 believer としてのヒステリー的主体】

フロイト以来、我々は知るようになっただろう、どのヒステリーの主体も持っている中心的問題は「分裂 Spaltung 」だということを。それは、彼(女)は分割されているということだ、意識と無意識とのあいだ、エゴとイドとのあいだ、真の私と偽の私とのあいだ、等々に。この分割は、ある特定の点にて、何度もくり返し現れる。その点に至ったら、主体は呼び起こされるのだ、自らの存在 being への問いに応えるようにと。

これらのポイントはフロイトによって、いわゆる発達段階において、見出された。すなわち子供はある問いに直面する、三つの重なった問いに。①性の相違、とくに女性の性的アイデンティティ、②父の役割、とくに主体の起源にかんしての父の役割、③三番目に、両親のあいだの性関係。

フロイトの説明は、ラカンによって、構造的な仕方で捉えなおされた。すなわち主体は、象徴秩序のなかの欠如のせいで、常に分割されている、と。そして分割された主体は、ある特定の点にて、何度もくり返し現れる。それは、女性のアイデンティティ・権威・性関係であり、ラカンの公式によって、S(Ⱥ)と要約された。そして、三つの挑発的言明を誘い出した、①〈女〉は存在しない、②大他者の大他者は存在しない、③性関係は存在しない、と。

これは構造的な問題である。というのは、これらの三つは現実界には存在するが、象徴界において妥当な答を見出せない。したがって、避けがたく、想像界においての解決法を探ることに陥る。ヒステリー的主体にとっての古典的解決法は、既にフロイトによって見出されたように、エディプス・コンプレックスである。エディプス的解決法は、大他者を設置することにより成り立っている。この大他者は、女性のアイデンティティを保証し、ゆえに性関係の可能性を保証してくれる。

ヒステリー的主体のくり返される問題は、保証してくれる大他者が決して十分にそうし得ないことだ。すなわち、エディプス的連鎖が父とともに始まる。しかしどの父もうまくいかないという事実が判明するのは長い時はいらない。この点にて、大他者たちの絶え間ない連鎖が始められる。ふつうはエディプスの連鎖は、宗教やイデオロギーへと続いていく。そこで、ヒステリー的主体は、保証として機能する分割されていない大他者を探しもとめる。このように、構造的観点からみれば、ヒステリー的主体は、信仰者 believer である。彼(女)は、疑念を振り払うために信じうる大他者が必要なのだ。


【ヒステリー的主体の逆説】

何とも逆説的なことだが、この信仰は、よりいっそう目立つ特徴の背後に隠される。すなわち、ヒステリー的主体は、権威を問うたり傷つけたりする強い傾向があるのだ。その権威とは、別の権威のことである。本質的な狂信者として、ヒステリー的主体は、唯一真のものと考えられた彼女自身の名のもとに、常に他の宗教あるいはイデオロギーと闘う。この闘争は、類似した、ゆえに競合的な信念のあいだに起こるなら、いっそう暴力的になる。(…)

この意味で、ヒステリー者は革命的というより権威の本質的なサポーターである。ときにいわゆる「代替の」権威に対して革命的であろうとも。この関係は、ラカンの言説理論にて構造的な方法で理解しうる。そこでは、主人の言説とヒステリーの言説は完全なバランスもっている。臨床的な観点からは、ヒステリーの主要な問題は、権威を具現化した人びとが決して十分にその権威に見合っていないことだ。そのため、典型的なヒステリー的不満と絶え間なく移行する欲望をともなう。


【不信仰者(Unglauben)としてのパラノイア的主体】

これが我々にもたらしてくれるのは二番目の主体であり、ヒステリー者とは根源的に異なった主体だ。構造的観点からは、パラノイア的主体は分割されておらず何の欠如も示さない。すなわち、彼は「知っている」。その精神病的構造のせいで、彼は決してエディプスの応答を受け入れない。これが、フロイトがパラノイアを本質的な不信仰者(“Unglauben”)と叙述した理由である。

パラノイア的主体のエディプスの拒絶、ラカンの用語なら父の名の排除は、精神発展のある一定の段階で、自分自身の答を生み出すように彼を余儀なくさせる。これらの答は、ヒステリー的主体と同様な問いにかかわる。すなわち女性の性的アイデンティティ、父支えとしての父の役割、性関係である。しかしそれら全く異なった仕方ないで扱われる。


【パラノイア的無垢 innocence paranoiaque】

基本的に、ヒステリー的主体は常に疑いをもっており、自ら行なった選択について決して確信していない。逆に、パラノイア的主体は確信する。そしてこの知をシステムへ変形させる。根源的な三つの問いへの応答において、アクセントは欲望から享楽へと移行する。心理学的観点からは、これは妄想を引き起こす。そしてこの妄想の典型的なスタイルは、誇大妄想、疑念の欠如、自己反省の欠如、過度の確信性である。

彼はなんの欠如もない主人なのだ。基本的欠陥や欠如は、常に、そして覆すようすもなく、他者のせいにされる。他方、パラノイア者は具現化された無垢である。彼は無垢であるだけでなく、彼を非難し悩ます他者の悪意を確信している。コレット・ソレールはこれを「パラノイア的無垢 innocence paranoiaque」と名付けた。


【シュレーバー事例】

このように、過剰に確信するパラノイア的主人は、永遠に疑いつづけるヒステリー的主体とは全く異なっている。彼は自ら確信している唯一の者である限り、すべてを知る者としての彼の地位はいくらか不安定である。フロイトはシュレーバーについての研究においてはっきりとこれを観察した。フロイトは自問した、彼(フロイト)自身とシュレーバーとのあいだにある相違は何だろう、と。とくに何人かの科学者がフロイトの妄想理論を非難したという事実の観点から。

この問いへのフロイトの答は次のようなものだ。すなわち、シュレーバー理論は一人の人物によってのみ信じられている。他方、私の理論は少なくともある集団の人びとによって信じられている。彼らは実践によってその理論を試してみようと準備している。したがってパラノイア的主体の典型的な問題は、彼が、彼の知を確信している唯一の者であることだ。主人としての彼の地位は、むしろ不安定であり、信じてくれる他者を切実に必要としている、と。

ふたたびシュレーバーの、今度は歴史的事例を参照するなら、彼は自伝 (the Denkwürdigkeiten eines Nervenkranken) を書いた。世界が彼の「世界観 Weltanschauung」の正しさを確信してくれるようにと。これは、パラノイア的主体の相当数が書いたり講義し始めたりする理由を説明する。それは、精神病の主体に欠けていること、すなわち社会的絆を設置しようとする精神病的な試みなのだ。社会的絆が欠けているというのは、どの社会的紐帯も常にエディプス構造の相続人であり、精神病者はエディプス構造を拒絶しているからだ。

ゆえに精神病者はふつうの社会的関係の外部にいる。精神医学の用語なら、精神病者は本質的に異なった他者である。不気味な他者とさえ言える。ラカンの用語なら、精神病者は四つの言説とそれに引き続く社会的関係の「外部に」立っている。フロイトの用語なら、精神病者はナルシシスティックな神経症(自己愛神経症)である。すなわち、ふつうには期待される対象関係のない神経症だ。


【パラノイア的主体の逆説】

この状況の逆説的な帰結は、まさにパラノイア的主体が、最も切実に、聴衆・集団を欲するということだ。それが彼の正気を保つ、彼の精神病的破綻を防ぐ。彼にとって集団はビタミン剤として機能する。


【ヒステリー的主体とパラノイア的主体の完全調和】

ヒステリー的主体とパラノイア的主体のこの描写を元にすれば、この両者は完全な調和を形作る。ヒステリーの分割された主体は、欠如のない確信をもった主体を探し求める。パラノイア的主体は、フォロワーと信者を探し求める。このような関係は、なによりもまず、通常の集団形成と呼ばれるものを基盤としている。それは、フロイトが『Massenpsychologie und Ich-Analyse(集団心理学と自我の分析)』にて叙述したものだ。リーダーは外部の場を占める。そのリーダーに未来の集団 group-to-be のメンバーは彼ら自身を同一化する。

より特化していえば、同一化は「Ich-Ideal 自我理想」に焦点を絞る。自我理想は元の自我を完全に覆い隠す。この理由で、もともと異なった主体は互いに似はじめる。しばしば十分に見出されるのは、服装であったり共通のジャーゴンの開発であったりの表出だ。彼らはラカンが“des egos/égaux”ーーすなわち、まったく同じ花の集まりーーという駄洒落で描いたようなものになる。

ふつうはーーエディプス的な規範によればーー、リーダーのポジションは、本来の父のポジションであり、まさに欠かせない機能を具現化したものだ。簡潔にいえば、主体に欲望と享楽と折り合いをつける機会を与えるものである。通常は、父との関係を念入りに作り上げ最終的には投げ出されて自分自身との関係を選ぶことになる。


【発展的ヒステリア】

この標準的な進化はーー私は発展的ヒステリアと呼びたいがーー、幼年期に全能の父への信念にて始まる。思春期と青春期のあいだに父を挑発し捨て去り、成人期に彼と折り合いをつけるようになる。これに関して、ラカンによってなされた差異化、つまりリアルな父、イマジネールな父、シンボリックな父のあいだの区別はとても役に立つ。

標準的な進化という考え方が意味するのは、ヒステリー者とパラノイア者はそんなにしばしば出会わないということだ。もし近過去にそれが起こったとするなら、ヒステリー者が15歳から25歳のあいだのどこかの傷つきやすい時期にふつうは限られていた。その期間というのは、誰もが元々のエディプス的主人の代わりに相応しい代替者を探し求めている。


【病理的ヒステリア】

それを超えて、主人とヒステリー者とのあいだの絆を維持しようとする病理的なヒステリアもあるに違いない。私が言ったように、ふつうはあのようだったのであり、しかし、おそらく今日最も大きな問題は、ヒステリー的主体にとってだけではなく、次の事態である。すなわち、象徴的父の機能自体が疑わしいようになったのだ。その支えと答を提供する機能が、控え目に言っても、もはや説得的でない。

結果として、新しい主人を探し求めるヒステリー的主体は増え続けており、そのためにパラノイア的主体にとっての好機を創造している。……