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2015年11月21日土曜日

「〈ソリダリテ〉(連帯)」の悲しい運命

《ブッシュのアメリカをあれほど批判していたフランスも結局は同じことをしていると言わざるを得ない》としたのは、 今年初めの「シャルリー・エブド事件」後の浅田彰だ。

ヴァルス首相が国会での演説で「フランスはテロリズム、ジハード主義、過激イスラム主義との戦争状態にある」と踏み込み(*注)、オランド大統領もIS(「イスラム国」)空爆のためペルシア湾に向けて出港する空母シャルル・ドゴールに乗り込んで「対テロ戦争」に参加する兵士たちを激励する、それによって低迷していた支持率が急上昇する、といったその後の流れを見ていると……(「パリのテロとウエルベックの『服従』」)

ーーに続く文として冒頭のコメントが現われる。

ところで、昨晩、日本国籍だが元フランス人(たぶん)のエリック・Cという方のツイートを眺めた。

 @x__ok: 戦闘を拡大して行ったら泥沼に嵌まって行くに決まっているのに今回のテロでフランス人の81%が空爆賛成とコロっと大きく変わってしまった。感情的に人間はこうやって変わるものだから冷静に考えられる内にしっかり平和について考え守りを固めておく必要がある。日本はその最後のチャンスの所にいる。

@x__ok: 日本国憲法の反戦の意義を良く知っている者にとっては昨日からコロッと変わって戦争に力をいれるフランス人達と距離を感じ始めた。人間の感情は一日にして大きく変わるものだ。戦争に関わってはいけない。日本は早く元に戻るべきだ。早く安倍の安保法や秘密保護法を廃案にしなければ大変に危険だ。

@x__ok: だんだん知り合いのさらに関係する人とかでテロの被害に遭って殺害された人や入院している人達の話が耳に入って来る様になってきた。パリの人間関係は有機的に繋がっている。それと同時にテロとの戦いを支援する話も入って来てこちらとしては心が痛い。フランスは後戻りできない所まで来てしまった。

@x__ok: 同時テロ主犯格の死が確認されたとフランス政府は喜こんでいるが、これもまたビンラデンの時と同じ様に生け捕りにして裁判にかけるなどという事がないまま消されてしまった。しかしここ数日、大統領の支持率は大きく上がっている。政治とはこんなものだ。

@x__ok: 原因は貧困というより、不当な格差にです。テロリスト達が存在しだした理由も不当な格差があるからです。人間という生き物は不当な格差の中で生きる事ができない生き物なのです。 https://t.co/qbaFOk2UyQ

要はーーここでは焦点を絞るがーー、フランス人たちはどうやら集団神経症的な「連帯」をして、《空爆賛成とコロっと大きく変わってしまった》のだ。

フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が。彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。(柄谷行人

フランスの「知識人」層は「ブッシュのアメリカをあれほど批判していた」にもかかわらず、いざテロ行為で多くの犠牲者が出れば、同じ穴の狢であり、平等やら博愛やらの「理念」などすぐさまふっとんでしまう。怒りと悲しみによって人は報復に向う。反空爆デモの気配は、寡聞にしてか、窺えない。

……行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。(……)

さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。(……)

行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。

もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収ーー「一にして全」による 「イスラム国」攻撃の激化?

《米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない》とあるように、今回のフランスも「連帯」、すなわち「一にして全」となって矛盾や葛藤を一時的にしろ吹き飛ばすために、空前の「報復」空爆をせざるをえない世論なのだろう。この「一時的」な処置が泥沼への道であるのは、「冷静」になれば誰もが知っていることだ。

彼らの国々であってそうである。日本においては言わずもがな、だ。

……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収ーー「おみこしの熱狂と無責任」気質(中井久夫)、あるいは「ヤンキー」をめぐるメモ

「正義の味方」を自称するいわゆる「カウンター」運動をしている連中も、あきらかに報復活動熱烈派予備軍である。それは「構造的な類似(ネトウヨ/カウンター)」や「「パリ10 区・11 区という場所」がなぜテロのターゲットになったのか」などでみたのでくり返さない。

ーーこう記しているわたくしももちろん「予備軍」である。たとえば愛する人をテロで失ったとき、どうやって人は冷静でいられよう?

ランク(1913年)はちかごろ、神経症的な復讐行為が不当に別の人にむけられたみごとな症例を示した。この無意識の態度については、次の滑稽な挿話を思い出さずにはいられない。それは、村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪をひきおこしたために、その村にいた三人の仕立屋のうちの一人が処刑されたという話である。刑罰は、たとえ罪人に加えられるのではなくとも、かならず実行されなければならない、というのだ。(フロイト『自我とエス』ーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」)

シリア人たちは、おそらくアサド側からサリン爆弾攻撃を受けた(2013)。復讐行為はアサド直接に対してでなくてよろしい。アサドを支援しているらしき先進諸国であったら誰に対してさえーーひょっとしてサリンを使用してーー、あのトラウマを晴らすかもしれない。それはちょうど毒ガス負傷兵であったヒトラーのように、である。

(第一次世界大戦後)ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

私はテロで妻を殺されたが報復などしない、と決然と宣言するすぐれた方がいる。だが彼のトラウマは消えない。するとそのトラウマから生じる破壊衝動は、外部に向うのを抑制すれば、内へと向う。

以下の文はややここでの文脈と異なるが、メカニズムとしては同じである。

想いだしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十分に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。だが同時に、彼らは“非合理的な”罪の意識にとり憑かれる(それは単にそれ以上のようにして)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやるのだ。これが露わにしているのは、最も純粋な超自我の審級である。不可解な審級、それがわれわれを操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。(ジジェク、2012)

さて冷静で入られるうちに、こうやってジジェクでも引用しておくのだ。いずれにしろわたくしはきみたちの《おみこしの熱狂》をあまりみたくはない。

我々が考えるべき、別の、もっと形式的な側面……すなわち、普通の日常生活の束の間の残酷な途絶である。意味深いことに、攻撃された対象は、軍事施設や政治施設ではなく、日常の大衆文化ーーレストランやライヴハウス、サッカースタジアムだ。このようなテロリズムの形式--束の間の破裂ーーは、主に西側の先進諸国における攻撃を特徴づける。そこにはハッキリとした対照がある。多くの第三世界の国々では、暴力は生活の半永久的な事態だ。考えてみるがいい、コンゴやアフガニスタン、シリア、イラク、レバノンでの日常生活を。いったいどこにあるのだ国際的連帯の叫びは? 数多くの第三世界の人びとが死んでいるときに。(The Paris Attacks and a Disturbance in a Cupola BY SLAVOJ ŽIŽEK 11/18/15

ーーおまえら、第三国の連中をウサギあつかいしてるだろ? パリテロ後、「連帯」やら「祈り」やらと「涼しい顔をして」ほざいているそこのオマエラだ!!




ジジェク) リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供がちがいます。私が友人の車で講演会場に向っていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。……

浅田彰) こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見出されると考えられますね。

ジジェク)まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって熾烈な闘争が展開されているのです。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993.3『SAPIO』初出『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収ーー「ルソー派とニーチェ派」)




川上泰徳@kawakami_yasu: シリア人権ネットワーク(SNHR)が2011年3月から今年10月末までのシリア内戦の民間人死者を集計。計188502人。政府軍や政府系民兵による死者180879(96%)、反体制組織2669、イスラム国1712、クルド勢力379、ヌスラ戦線347、ロシア軍263、有志連合251。

シリア人権ネットワークは反体制地域各地で情報を確認しつつ者数を集計。政権支配地域では直接活動はしていないが、政権の拷問による死者も集計。政治的な偏向があるとか、数字が偏っているなどの批判があるとしても、空爆や樽爆弾をする政権軍が圧倒的に民間人を殺害していることは動かないでしょう。

シリア政権軍の空爆が圧倒的多数の民間人を殺している一方で、昨年9月からの有志連合の空爆による民間人死者が251いるのも重大。9月末から空爆を始めたロシア軍は263人。太平洋戦争で米軍による徹底的な都市爆撃を経験した日本人は、空爆の無差別性と非人道性にもっと敏感になるべきでしょう。

私はイスラム国を深刻な脅威であると考えるが、いまのシリアでの政権軍の非道が続く限り、ISを止めることはできないと危惧する。ISに参加する若者たちやISを支持する部族がISの暴力はイスラムを守るためでも、民衆を守るためでもないと気けば、ISは支持を失うだろうが、状況は悪化するばかり