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2015年11月20日金曜日

傷口に塩を塗る「連帯」理念

なにやら意味不明のことを言ってくる人がいるが、「「パリ10 区・11 区という場所」がなぜテロのターゲットになったのか」において、別にむずかしいことをいっているわけではない。

「被害者意識」とは、人を正義の場に立たせてくれるのだから、おおくの人はそこに憩う。その悪臭をかぎつけただけだ。あの程度の露骨な悪臭であるなら、ニーチェほどの鼻が利く必要はまったくない。

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)


◆「メモ:「被害者意識」(蓮池透氏)」より一部再掲。

被害者意識というのはやっかいなものです。私も、被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有してしまった時期があります。時のヒーローでしかたらね。(……)

被害者意識は自己増殖します。本来、政治家はそれを抑えるべきなのに、むしろあおっています。北朝鮮を「敵」だと名指しして国民の結束を高める。為政者にとっては、北朝鮮が「敵」でいてくれると都合がいいのかもしれません。しかし対話や交渉はますます困難となり、拉致問題の解決は遠のくばかりです。

拉致問題を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い性となっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか。

(……)日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか。(蓮池透発言(元「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長))
……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

両方とも日本民族の被害者幻想を指摘しているが、これは多かれ少なかれどの民族にもある。

他方、多文化主義者の他民族との連帯意識は、たとえばフランス人であればアルジェエリア戦争の《過去の戦争責任に向き合》うことを忘れさせてくれる(参照:「フランス人のマグリブ人に対する敵意」)。

ーーようはムスリムたちが、パリにおける自由・平等・博愛的「集団神経症」に鼻を抓みたくなる心性ぐらいは気づけよ、ということだけだ。

そもそもムスリムたちはパリ郊外というゲットーに隔離されて生活してる連中が多いのだ。次ぎの文も何度も引用しているが、再掲しておこう。

そもそも「他者に開かれた多文化社会」を目指しつつ、実際は移民をフランス人の嫌がる仕事のための安価な労働力として使い、「郊外」という名のゲットーに隔離してきたわけで、そういう移民の若者の鬱屈をイスラム原理主義が吸収したあげく今回のようなテロが起きたと考えられる。 (浅田彰「パリのテロとウエルベックの『服従』」

フランスは、《わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている》(参照)のであり、自由と連帯と他者に開かれた多文化社会の象徴であるパリ10 区・11 区に、鬱屈をかかえたムスリムたちが、仏人の過去の搾取や暴力的支配の実践を隠蔽する仕草、そして《傷口に塩を塗りつけるように、反対物、すなわち自由・平等・民主の仮面の下で、野蛮な現実をプレゼンする》現場を幻想的に見出してもなんの不思議でもないだろう、--そういうことを記しただけだ。

…………


同情されて怒り狂うドストエフスキーの誇り高い登場人物たち。

彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです。(プルースト『囚われの女』)