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2015年11月16日月曜日

最悪のレイシズム国フランス

フランスは、《わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている》、そしてそれが最悪レイシズム国を生みだしたーー The French are much worse than either the Germans or the British (『ジジェク自身によるジジェク』摘要)。

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イデオロギーの最も基本的な定義は、おそらくマルクスの『資本論』の次の文である、"Sie wissen das nicht, aber sie tun es" 、すなわち、「彼らはそれを知らないが、そうする」。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)
我々は忘れるべきではない、強制収容所は、「自由主義的な」イギリスの発明だったことを。それは(南アフリカにおける)ボーア戦争に起源がある。またアメリカ合衆国においても使われた、日本国籍の住民等をを隔離するために。(同ジジェク)

で、1989年ベルリンの壁崩壊以降の、新自由主義のイデオロギーの時代、《我々はそれを知らないが、そう》していることは何だ?

そもそも「他者に開かれた多文化社会」を目指しつつ、実際は移民をフランス人の嫌がる仕事のための安価な労働力として使い、「郊外」という名のゲットーに隔離してきたわけで、そういう移民の若者の鬱屈をイスラム原理主義が吸収したあげく今回のようなテロが起きたと考えられる。(浅田彰
ベルリンの壁は崩壊しましたが、新しい壁や分断があらゆる場所で勃興しているのです。ほとんどの国家において、富裕層と貧困層の間だけでなく、分断は強化されています。(ジジェク - アルジャジーラ・インタビュー:今や領野は開かれた)

で、オランドは空爆再開したそうだが、なんで自国のムスリムたちを強制収容所に隔離しないんだろ? 人数が多すぎるってわけかい?

それとも、テロを誘発してんのかな

アルジェリアでアンゴラで、ヨーロッパ人はたちまち殺害される。ブーメランの時代、暴力の第三の時期が来たのだ。暴力はわれわれの上に跳ね返り、われわれを襲う。ところがわれわれは依然としてそれが自分自身の暴力にすぎぬことを理解しないのだ。(サルトル、1961)

あの馬鹿どもめ!

《ファノンは、お前たちが彼の本を読むかどうかについてなど、何を気にすることがあろうか。彼がわれわれの古い計略を告発しているのは、彼の兄弟たちに向ってなのだ》

ヨーロッパの人々よ、この本を開きたまえ。そのなかに入ってゆきたまえ。暗闇を数歩あゆめば、見知らぬ人々が火を囲んで集うさまが見えるだろう。近づいて耳を傾けたまえ。彼らは、お前たちの商業センターと、それを護る傭兵に、どのような運命を与えてやろうかと議論している。おそらく、彼らはお前たちの姿を目に留めよう。だが声を低めもせずに、彼ら同士で話を続けるだろう。この無関心さが心に突き刺さる。彼らの父親たちは、影の人物であり、お前たちの被造物であり、死せる魂だった。お前たちは光を分け与えてやった。彼らはお前たちに向ってしか語らなかった。そしてお前たちは、このようなゾンビどもにあえて応答しなかった。(……)順番はめぐり、新しい曙が現われようとしているこの暗闇では、ゾンビとはお前たちのことだ。(サルトル序文――ファノン『地に呪われたる者』)

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アルジェリアは、 フランスが1830年の軍事占領した後、フランスの国内県に編入されて130年以上にもわたり仏の統治下にあった。アルジェリアを2012年12月に訪問したオランド仏大統領は、アルジェリア議会での演説で、132年間にわたる植民地主義は「極めて不正義で野蛮」な制度だと位置づけ、暴力、不正義、虐殺、拷問についての真実を認識する義務があり、全ての記憶を尊重すると述べた。一方、その前日の公式記者会見では、ある記者より「過去の問題について悔恨の意を表したり、謝罪をするのか」と質問されたのに対し、 同大統領は、 「過去や植民地主義、 戦争や悲劇についての真実を語る」と述べつつ、謝罪や悔恨の意図はないことを暗に示した)。現在の価値基準に照らせば、植民地主義が不適切な政策であったと認めつつも、旧宗主国側が一貫して謝罪に消極的なのは、当時は合法かつ正当な施策として行ってきたとの考え方に加え、謝罪は容易に責任問題としての賠償に結びつきやすいとの側面も考えられる。(「和解 ―そのかたちとプロセス― 河原 節子 (一橋大学法学研究科 教授(外務省より出向) )」よりーーフランス人のマグリブ人に対する敵意


連中には、過去の植民地政策、あるいはアルジェリア戦争の記憶ーーある意味で隠蔽された記憶ーーがある。

すなわちフランス人は負債があるからこそ、ムスリムを憎むのさ、日本人が中国人、韓国人を憎むようにな。

《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

で、ル・ペン父娘が今後いっそう大衆に愛されるってわけだ

アルジェリアで解放戦線に対する拷問のプロだったル・ペンのような人物が、フランス本国で国民戦線のリーダーになり、イスラムの移民がわれわれフランス人から職を奪っていると言って、ナショナリズムを煽っている。(柄谷行人―浅田彰対談より(初出 『SAPIO』 1993.6.10 『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

ーーフランス人はムスリムを憎んでいないよ、だって? ああ、そうさ、表面的にはな。彼らのほとんどは、「意識的には」ムスリムに好意を抱いているさ

最も基本的な幻想とは何か。幻想の存在論的逆説(スキャンダルといってもいい)は、それが「主観的」と「客観的」という標準的な対立を転倒するという事実である。もちろん幻想はその定義からして客観的(何かが主体の近くからは独立して存在する)ではありえない。しかし、主観的(主体の意識的・経験論的直観に属している何か、彼あるいは彼女の想像の産物)でもない。むしろ幻想が属しているのは「客観的主観性という奇妙なカテゴリー」である。「自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的にはそのように見えてしまう」のである。たとえば、われわれがこう言ったとするーーあの人は、意識的にはユダヤ人に対して好意を抱いているが、自分では気づかずに心の奥底には反ユダヤ的な偏見を抱いている、と。このときわれわれは、(彼の偏見は、ユダヤ人が実際にどうであるかではなく、ユダヤ人が彼にどう見えるかを反映しているのだから)、彼がユダヤ人が実際に彼にどう見えているかに気づいていないと主張しているのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

テロがあるたびに(現実の危機が発生した瞬間)、悪党ル・ペンはさらに人気急上昇ってわけさ、アメリカ三文映画を観るよりはずっとオモシロイぜ

彼らは理性的な議論のレベルでは、レイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得力のある理由を掲げる。しかし、それにもかかわらず、彼らは自らの批判の対象に明らかに魅せられている。結果として、彼らのすべての防衛は、現実の危機が発生した瞬間(たとえば、祖国が危機に瀕したとき)、崩壊してしまう。それはまるで古典的なハリウッド映画のようであり、そこでは、悪党は、――“公式的には”、最終的に非難されるにしろ、――それにもかかわらず、われわれの(享楽の)リビドーが注ぎ込まれる(ヒッチコックは強調したではないか、映画とは、ただひたすら悪人によって魅惑的になる、と)。(ジジェク、2012)