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2015年9月24日木曜日

フロイトとラカンの「父の機能」(PAUL VERHAEGHE)

貴種流離譚変奏としてのフロイトエディプス理論」から引き続く。

女-母なんてのは、交尾のあと雄を貪り喰っちまうカマキリみたいなもんだよ(ラカン、セミネールX(不安))

ーーもちろんこれはわたくしの意訳であるが、「Le seminaire, livre X: L' angoisse」に出てくる数箇所の la mante religieuse(カマキリ)をめぐる叙述をまとめればこう要約できる(参照:子どもを誘惑する母(フロイト))。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(ラカン、セミネールⅩⅦ(精神分析の裏面))

などとしきりにオッシャラレタLacanだが、セミネールⅩⅦ以降は、こんなひどいことは言わなくなった(わたくしの知るかぎり)。なにか変わったのだろうか。齢を重ねたせいだけだろうか。

これは「父の機能」解釈にかかわるはずだが、比較的初期からその機能に言及していなかったわけではない(参照)。

ジジェクは「父の機能」がないとどうなるかについて、90年前後からしきりに記してわれわれはそれを面白く読んだ。

父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991)

ジジェクと異なり穏やかで地味な臨床家ポール・ヴェルハーゲはーーとはいえ彼の90年代の仕事はジジェク解釈の引用が豊富であり、たとえば「主体の解任」という最も臨床的な概念でさえジジェクによって最初に鮮明に語られたと暗に他の分析家たちの凡庸ぶりを腐しているーーこのヴェルハーゲは父の機能についてこう説明する。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe,1999、私訳)

ここには後期ラカンのサントーム理論に近いことが記されているのだが、いまはそれに触れない(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

ここではヴェルハーゲは最近の著書(2009)で次のように書いていることに注目したい。

フロイトの最晩年の著作『モーセと一神教』をめぐって書かれた箇所である。

……モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教の書は同時に典型的な男-女の関係性を導入する。そこでは、女は統御されなければならない人格である。なぜなら想定された原初の悪と欲望への性向のためだ。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、奇妙ではない。患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこのディスクールを、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。他方、それは現実界の脅迫的な部分、すなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)の想像的なエラボレーション、かつその現実界に対する防衛として読み得るのに。

ラカンだけがこの陥穽から逃れた。とはいえ、それは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男自身の欲動の男性による投影以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムにて統合されたものである。.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

フロイトやラカンの母や女が怖いなどという理論は、実際は、女たちを犠牲にした男自身の手に負えない欲動(享楽)への防衛機制による「投影」にすぎない、としている。ここにヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判がある。彼らの理論は神経症的であり、症状的なのである。


他方、ヴェルハーゲは、「父の機能」的側面について、後期ラカンがようやくその真価に気づいただけでなく、フロイトさえもそのエディプス理論再構築のなかで「父の機能」にほとんど気づいていた、としている記述もある。

彼はもともとこう書いていた。

『トーテムとタブー』1913の原父についてはただ忘れたほうがよい。『モーセと一神教』1939における臨床的な示唆を研究するほうがはるかに興味深い。この仕事において、フロイトは父の象徴的な機能の考え方をわれわれに提示している。それは、母たちから来る不可解な何かへの不安を基盤として、息子によって設置される何かである。そんなに難しいことではない、ラカンの後期の理論をこのフロイトの神話の中へ読み込むことは。主体は全的な疎外を怖れているのだ。すなわち、現実界の享楽のなかでの消滅を。そして象徴界のなかに対抗策を探し求める。この象徴界の影響は、フロイトの研究そのものの中に、まったく明白に見出せる、とくにラカンを通してフロイトを読むのなら。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)1999、私訳)

ーーフロイトの『トーテムとタブー』にあらわれるエディプス理論など忘れたほうがいい、ただし最晩年の『モーセと一神教』は傾聴に値すると。

今のは1999年の書の記述だが、ここでもう一度2009年の書に戻れば、ヴェルハーゲはフロイトの「モーセと一神教」から次ぎの文を抜き出して、フロイトを惜しんでいる、ああ、いま一歩のところだったのに、と。

That religion also brought the Jews a far grander conception of God, or, as we might put it more modestly, the conception of a grander God.

独原文は次ぎの通り。

Die Religion brachte den Juden auch eine weit großartigere Gottesvorstellung, oder, wie man nüch-tern sagen könnte, die Vorstellung eines großartigeren Gottes(Sigmund Freud、Der Mann Moses und die monotheistische Religion)

ようするに、ヴェルハーゲはここにフロイトにとっての「父の機能」概念を読み取っているのだ。

…………

肝腎なのは「権威としての父」ではなく「父の機能」である。われわれは勘違いしてきたのではないか。権威としての父を打ち倒したのはいい(フェミニスム運動等)。だがそれと一緒に「父の機能」まで捨て去ってしまったのではないか。

仏ラカン派女流分析家の第一人者 コレット・ソレールは、今世紀に入る前後、われわれの世紀を次ぎのように定義した、すなわちわれわれは「父」をその役割に教育しなおしたい世紀だと。 

「権威としての父」/「父の機能」とは、柄谷行人=カントの構成的理念/統整的理念に限りなく近い。

キルケゴールは、「思弁は後ろ向きであり、倫理は前向きである」といった。その意味で、彼はヘーゲルからカントに戻っている。実は、マルクスも同様である。彼もヘーゲルからカントに向かったのだ。未来に向かって現状を乗り越える、つまり事前の立場に立つ者は、理性の統整的使用を必要とする。マルクスは歴史に関して構成的理念を一切斥けた。つまり、未来社会についての設計を語らなかった。彼にとって、コミュニズムは統整的理念である。そして、彼はそれを生涯保持した。

しかるに、コミュニズムを歴史の必然として、社会を理性的に構成しようとしたマルクス主義者は、ヘーゲルの事後的な立場を、事前の立場に持ち込んだことになる。そのようにして、統整的理念と構成的理念が混同される。「理性の構成的使用」は暴力的強制となる。その結果、理念一般が、あるいは理性一般が否定されるようになった。(柄谷行人 第一回 長池講義 講義録 2007)


われわれは「権威としての父」/「父の機能」を混同して、父の機能さえ否定してしまったのではないか。

その結果なにが生じているか。

要なことは、権力powerと権威authorityの相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

明らかなことは、第三者がうまくいかない何かがあり、われわれは純粋な権力のなすがままになっていることだ。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

さてどうしたらいいのか。すこし前に「皺のない言葉」(アンドレ・ブルトン)との表題で主人のシニフィアンS1をめぐって曖昧に記した。ようするに皺のない新しいS1、新しい父の機能、新しい名付け、新しい統整的理念をめぐっている。そしてこの考え方のより基本的な起源は、Lorenzo Chiesaとジジェクによるミレールのサントーム解釈批判にある(参照)。

※ここで強調しておくが、「父の機能」を担うのは解剖学的な男/女とはまったく関係がない。すこしでも思い起してみればそれはすぐさま判然とするだろう、脱原発、脱財政赤字、難民受入れ推進のドイツ連邦首相メルケルとわが国の(安倍に代表される)総理大臣たちとどちらが「父の機能」をより発揮しているかを(参照:「きたるべきメーメーアイコク・ヒツジさんたち」)。

…………

最後にヴェルハーゲによるフロイト・ラカン批判ーー上に引用された内容のより具体的な記述ーーを掲げておこう。かつて次ぎのように書いたヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判である。

フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。(ヴェルハーゲーー「忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念」)

さてヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判である。

後期ラカンはフロイトの錯誤(誤った推論)を公然と非難した。…

この非難はきわめて後期のセミネールでなされた。それ以前は、彼らは異なった時代に書いているにもかかわらず、二人の理論はとても似ている。両方の理論とも、母に関する欲動に支配された危険に対する欠かせない支えとして父への嘆願、陳謝にさえ至るエディプス理論を展開した。

両者のあいだの最も重要な相違は、フロイトにとって危険は母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)に起源があり、他方ラカンにとってはあべこべだということだ。

ラカンにおいては、危険は子どもをあまりにも強く欲望する母(事実上、彼女の息子への欲望)に起源がある。この相違を脇にやれば、彼らの理論は全能の父の形象からの解決を期待するという点で類似している。彼らの理論のまさにこの側面、ーー私はそれを底に横たわる問題への神経症的応答としての(理論を通した)治療上の裏書きendorsementだと考える。
誤解のないように言おう。私は子どもたちを損なって楽しむ超-権威主義的な父(原父のスタイル)の存在を否定するつもりはない。貪り食う母、ああ、それもたんなる神経症のフィクションではない。

私の批判はフロイトとラカンともにある方法論的錯誤に向けられている。彼らの臨床実践の過程で見出された不安と不安に対する防衛が(十分に)分析されていないのだ。その代わりにそれらは一般化された理論として提出され、患者の信念を支えてしまうものとして使われている。

これは精神分析治療が提供しうるものとは全く逆だ。我々自身の、かつまた我々の患者についてのイマジネールな構築物、欲動に対処するために我々が必要とする構築物に疑義を呈する可能性を作り出すこと。それが分析治療である。そうではなく、これらの構築物を臨床的に裏書きしてしまうなどということは、実質上問いの可能性の根を絶ってしまう。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

もちろんわれわれはこのヴェルハーゲのフロイト・ラカン批判を額面通り受け取る必要はない。ただしこうはいっておこう、《真理への愛は弱さへの愛、真理が隠している去勢への愛である》と。

Cet amour de la vérité, c'est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s'appelle la castration.(Lacan,Séminaire 17 Staferla 版 p.66)