われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。 (プルースト『花咲く乙女たちのかげに 第二部』井上究一郎訳)
わたくしはどちらかというといわゆる「性格の悪い」方なのだが、たとえば他人のツイートを眺めているとどうもニヤニヤしながら悪口を言ってみたくなる傾向がある(わたくしがとくにツイッターでの発話に注目するのは海外住まいのせいで日本語でなされる「ナマの」発話行為は、ほとんどそこでしかお目にかかれないからだ)。他人の欠点とは自分の欠点よりもずっと目にとまりやすいものだから、自分の欠点に気づかぬままに他人を罵倒をしてはならぬと自制してみるのだが、ときおりふとその自制が剥がれてしまう。
他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫『世界における徴候と索引』)
ツイッターでは発話者の欠点が目につきやすいとまでいわないまでも、次のような「錯覚に閉じこもり得る」のがしばしばであるのは(わたくしの場合)歴然としている。
Twitter は、賛成や反対を表明するにしてもその表明の仕方において、また、無視するにしてもその流し方において、また、 皮肉や弁明や留保の書き方において、また、ツイートを停止するその時間の取り方において、その立場がモロに手に取るように透けて見えてくるツールである。恐ろしいものである。 (小泉義之「切れ目」などについて)
……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。
そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)
ーーなどと記しているのは、小林秀雄の愉快な文に行き当たったからである。
文藝春秋祭で、毎年文士劇をやっている。今はもう面倒臭くなったから出ないが、以前は何度も出た事がある。だから役者の経験はあるなどと馬鹿な事を言うのではないが、役者とはこんなものという一種の感じだけは、はっきり摑めたように思っている。言ってみれば、見物を瞞着する快感である。この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った。だが、そう言って了っても拙いので、やってみて初めてわかった感じはもっと微妙なものであった。
たかが文士劇だ、無論やる当人もそう思っていた。ところが、やってみると文士劇も芝居であると合点した。芝居という或るどうにもならぬ世界があって、其処へ、文士劇であろうが、何劇であろうが、這入って行く、どうもそういうものらしい。川口松太郎とか今日出海とかいう連中は実にうまいが、それは根が器用な男だからではない。私の観察によれば、彼等にはたかが文士劇と見くびる心が少しもない。彼等の身についた芝居の教養がそれを極く自然に許さない。そういう事だと思った。
菊池寛の「父帰る」をやった事がある。私が兄の賢一郎をやり、井上友一郎が弟の新二郎をやった。彼には初対面であったが、稽古をやり、東京で二回やり、大阪でやり、京都でやりしているうちに、お互いに妙に情のうつるものだ。個人的感情を越えた芝居の感情が作用するらしい。芝居がすんで、しばらくして、新二郎にぱったり出くわしたら、「今度、桃中軒雲右衛門という本を出すから、序文を書いてくれ、兄貴」と言われた。仕方がないから、中身はよく知らないが、弟が力作だというから面白いものだろう、どうぞよろしくと言った風な事を書いた。芝居がつづいているようなものである。
彼は舞台で、私とのやりとりで、感情がたかぶって来ると眼に涙をためる事があった。それが直ぐこちらに反射して、おやおやと思うほど妙に調子が合う事がある。夢中であってはいるのだが、頭の何処かが覚めていて、しめたうまく行っていると感じている。無論こんな事は、玄人からみれば、ほんの役者のいろはに違いないが、私にはやってみて初めて感じられてひどく面白い事に思えた。舞台で役に成り切るなどという事は嘘で、何かが覚めているものだ。玄人が新二郎をやれば、眼に涙なぞ溜めなくても、もっとうまくやるに決まっている。だが、私の言うのは、役者のいろはである。感情がたかぶらなければ、井上君は眼に涙を溜めやしないが、たかぶるのは日常現実の感情ではあるまい。芝居の秩序に従って整頓された感情であろう。泣いてはいるが、心を乱してはいまい。新二郎に成り切りながら、見物の眼をはっきり感じとっている。そういう時に、私はなるほど役者とはこれだなという言いようのない快感を覚えた。見物を瞞着する快感と前に言ったのはそういう意味だ。恐らく、この初歩的敬虔はどんな名優にも通じているものだと推察する。(小林秀雄「役者」『考えるヒント』所収)
まず冒頭近くに、《この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った》とある。
ツイッターで多くのフォロワーをもった発言者はこれと似たようなことがあるのではないか。それをフォロワーを瞞着する快楽とまでは言わないでおくが(かつまたそれはフォロワー数の多寡にはあまり関係がないのかもしれない)。
そもそもリツイートやファヴォとは観衆の拍手や反応に似た効果をもっているのではないだろうか。そしてそれに《言いようのない快感を覚え》てしまえば、俳優的振舞いを《やめられない》ということになるのではないか。いずれにせよ彼らは多くの場合、《見物の眼をはっきり感じとって》ツイートをしているに相違ない。そしてそれは多かれ少なかれツイッターという場では誰もが同じだろう。ただ見物から多くの拍手を受けるかどうかの相違はあるということだけだ。
ところで上の文に引き続く文がさらに面白い。
「父帰る」をやっているうちに、だんだん巧くなった。大阪まで来ると、幕が下りても誰も手をたたかない。みんな泣いている。これはちと大袈裟だが、まあそいう言った具合で、大阪がすむと気がゆるんだ。今までも、芝居は何も芸で持って来たわけではない、ただ一所懸命で持って来たのであるから、気がゆるんだ途端に大失敗をした。
京都には井上君の知合いが多いらしく、「友チャーン」などと出ない前から騒々しい。私はちゃぶ台の前に坐り、お燗をしながら、弟の帰りを待っている。すると弟の奴、只今ァと玄関から草履をはいたまま上って来た。あわてて脱いだが、これは幸い見物には見えない。着物に着かえる時、袖も一緒に結んで了った。今日はちょっと様子がおかしいぞ、だが、これも大した事ではない。弟は、ちゃぶ台の前に坐り、二十年前に家を出た父親らしい人物を近所の人が見たという話をする。
言わばこのせりふで芝居が始まる、そういう大事なせりふで、やってみると、その切っかけと間(ま)とが容易でない事がわかった。二人で相談の上、兄から酒をついでもらい、一杯のんでから始めるという事にし、それでまことにうまくやって来た。ところが、今日は、盃などに目もくれず、坐るや否や、兄さんと来た。こりゃ、いけねえと私は思った。弟の意外な話を聞き終り、母親と兄弟と妹と四人がめいめい違った想いに沈み、しばらく舞台は沈黙する。ここで、弟は取って置きの名ぜりふを言わねばならぬ。菊池寛の芝居は大雑把のようでいて、実は細かいので、――「おたあさん、今日浄願寺の森で、モズが啼いとりましたよ。もう秋じゃ」――このせりふ一つで、急に見物は舞台に秋を感ずる。それを、弟の奴、フクロが啼いとりましたよ、とやって了った。
妙な事だが、と言って、考えてみれば少しも妙な事ではないのだが、見物はモズでもフクロでもどっちだって構わないのである。事実、見物はフクロが啼いとりましたでは笑わなかった。せりふというものはそういうものらしい。「もう秋じゃ」というこなしがあればよい。菊池寛のような写実のせりふでも、写実主義は台本の上にあるだけなので、とぼけていれば何の事なくすんだのに、あっモズだと訂正したからどッと来た。
これが切っかけで、「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了ったのである。見物は大喜びで、こんどは何を笑ってやろうかと身構えて了った。この辺りから賢一郎の深刻なせりふがつづくのだが、こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない。芝居が進んで、父親が登場し、父親から賢一郎と呼ばれて、「賢一郎は、二十年前、筑港で死んどる」と恨みをこめて発言すると、何がおかしいのか、未だゲラゲラ笑われるのには驚いた。私はこの時ほど、芝居というものの不思議さを、身にしみて味った事はない。この状態は長くつづいた。
見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった。この間の状態とは何だろう。私達素人役者の失敗によって、たまたまかもし出されたこの特別の状態とは何だろう。なるほど見物は芝居を見ることを止めたが、決して我れに還ったのではない。芝居をやる文士というもう一つの新しい芝居を見る事にしたのである。これは言葉を代えれば、見物席の見物が主役となり、舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事になった、そういう状態に他なるまい。場内全体を舞台とする、このような芝居を見る人は無論いない。だが精神の眼には見えている。という事は、この特別の状態は、普通に芝居が行なわれている時にも、いつも潜在的に存する状態だと考えられるという事だ。劇場内の見物も亦役者と共演する一種の役者である。芝居を見る楽しさはそこにある。私達は芝居を見に行くのではなく、心のなかで役者と共演しに行くのである。(同「役者」)
ある失敗が切っかけで、《「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了った》とある。そして《こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない》と。
ツイッターでインテリ「役者」として振舞っている人物はいくらでもいるだろう。しかしあるしくじった発言をしてーー、たとえばふだんは正義派の発言をし続けていながら、ふとしたことから「人間の顔をしたル・ペン主義(差別主義者)」であることが周知してしまうとする。とすれば、そこでは「正義派」の芝居をやる差別主義者の芝居の幕が開くだろう。
すると《こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない》ということになる。こうなれば観衆の出番だ。フォロワーたちが主役となり、《舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事》になる。誰もがいままで何度もこういった現象を見てきたのではないか。
それは差別主義者ということだけではない。要はニーチェのいう《その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきもの》の悪臭がツイッター上で拡散してしまったという場合だ。
その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。(ニーチェ『この人を見よ』)
教育の上塗りによって隠れていた汚れが露顕するときほど、フォロワーにとって「嬉しい」ものはない・・・
かつまた《みにくさはたやすく美しくなるような顔立ちにおいていっそうよく目立つ》(アラン)のであれば、醜さはインテリ正義派として振舞う発話行為いおいていっそうよく目立つと言いうる。
わたくしはすぐさまツイッター上でこのような目に不幸にも遭遇した「知識人」の名を四、五人は挙げられそうだが、ここでは慎んでおく・・・
ところで小林秀雄は《見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった》と記しているが、幸いなことに最近の観衆はひどく健忘症なので、三ヶ月もたてばすっかり忘れている。インテリ役者にとってはひどく幸福な時代である。
とはいえ見物人はインテリ役者の失態を待ち望んでいることは昔も今もかわらない。
注目された〈わたし〉が落ちていく姿、それを誰もが見たいんだから……。自分は事故のとき痛切に感じたですね……。マスコミから一般の人たちの憶測に秘められた嬉しさ……、ちょっとゾッとしますね……(北野武のバイク事故後の発話より)
仮に失態に親身に同情するかのようでも、それは殆どの場合、《権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑》(大江健三郎)である。
《何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする》(中井久夫「いじめの政治学」)のであり、インテリ役者の凋落を嬉しがる心性もこの人間には免れがたいメカニズムの顕れにすぎない。
…………
蚊居肢子世ノ好事家ニ質サントス。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。
諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。
定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、
ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。
諸氏ノ美シキ魂ノ汗ノ果物ニ敬意ヲ表スレド
諸氏ノ誠実ナ重ミノナカノ堅固ナ臀ヲ敬ヘド
余少シバカリ窓ヲ開ケタシ。
にいちぇト共ニ「空気ヲ! モツト空気ヲ!」ト叫ビタシ。
余新鮮ノ空気ニ触ルヽコトヨリ暫シ隔タリ、
鼻腔ヲ見栄坊ニテ鵞鳥ノ屁屎尿ノ穢臭ニ穿タレ
身骨ヲ美シキ魂ニテ猫カブリノ垢衣汗物ノ腐臭ニ埋メルガ如シ。
性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)