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2015年9月27日日曜日

狂気とparlêtre(言存在)

デカルトは『省察』において狂気の考察をしているのだが、まずは《夜の眠りの中で、服を脱いでベッドのなかで横たわっている時に、自分がここで服を着込んで、炉辺に座っていると信じ込んでいる》という夢のなかの状況は狂人の妄想と同じだといっている。そして狂人たちは、《自分が極貧であるその時に王であるとか、素裸でいるその時に紫衣をまとっているとか》考えているとしている。この後者についてラカンが次ぎのように言い放っているのは比較的よく知られているだろう、

自分を王だと思う人間が狂人だとすれば、自分を自分だと思う自分もやはりそうだ。(ラカン、セミネールⅡ)

これには後年もいくつかのヴァリエーションがある。そのうちの一つを掲げれば次ぎのような文だ。

「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら……、それは「私は考えていると思っている」という意味…これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(『同一化』セミネールⅩ)

つまり「私は何々と考える」、「僕の見解ではこう思う」等々とは、「彼女が私を愛していると私は思う」とするのと変わりがないと言っている。ここでの「彼女」は自分(自我 ego)ということだ。

ジジェク流の言い方ならこうなる。

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、2012)ーー「ラカン派の「記号」と「シニフィアン」」)

やや穏やかに言いかえれば、結局これらは言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差にかかわる。

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

われわれは言表行為をなす〈主体〉と、言表内容における〈私=エゴ〉があると言い換えてもいい。だがそれを混同してしまう。これについてはニーチェがすでに言っている、《<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている》と。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは<私>という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』湯浅博雄訳)

ニーチェ読み、ラカン読みのロラン・バルトが次ぎのように記すのは、上の内容とともに読めばよりよく分かるだろう。

……今日では、主観ないし主体は《ほかのところに》成立するのであり、また「主観性ないし主体性」が再帰する場所も螺旋の上の別の位置でありうる。その主観性ないし主体性は分解し、分離し、方向をそれて、錨を失っている。

「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか。

人称代名詞と呼ばれている代名詞、すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私」は想像界を発動し、「君」と「彼」は偏執病を発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレの反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「私ですか、私は」と言うとき、「私」は「私ですか」ではない、ということがありうる。つまり「私」は「自我」を、いわばカーニヴァルの喧騒のうちにこわしてしまうのだ。

私は、サドがやっていたように、私に向かって「君」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体(“著者”)から切り離すためだ。(……)そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について《あたかもいくぶんか死んでいるもののように》、偏執病的強調という薄い霧の中に捉われているものであるかのように語っている、という意味にもなりうるし、それはさらにまた、私は自分の登場人物に対して距離設定(異化)をしなければならないプレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなる。(『彼自身によるロラン・バルト』ーー「この「私」に何の価値があるのでしょう?」)


…………

ところでラカンの概念に〈主人〉のシニフィアンというのがある。これはS1と表記される。われわれは〈主人〉という言葉にだまされてはならない。これは支配者とか王とかのたぐいの意味ではない。すくなくともそれだけの意味に限ってはならないというのが、ラカンの形式化の要であり、ラカンのS1に代表されるマテームとは、いわば空の箱であり、そこにはその機能を果たせば(たとえばS1の機能を果たせば)なんでも入る。

…l'expérience psychanalytique, et le plus simplement à partir de ceci, qu'il y a un usage du signifiant qui peut se définir de partir essentiellement du clivage d'un signifiant Maître avec ce corps justement dont nous venons de parler, ce corps perdu par l'esclave, pour qu'il ne devienne rien d'autre que celui où s'inscrivent tous les autres signifiants. (Lacan,SéminaireⅩⅦ)

さて〈私〉という人称代名詞がS1であるのは次ぎのように示される。

S1、最初のシニフィアン、フロイトの境界語表象、原シンボル、原症状“border signifier”, “primary symbol”, “primary symptom”とさえいえるが、それは、主人のシニフィアンであり、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ヴェルハーゲ、1998)
〈私〉を徴示(シニフィアン)するシニフィアン(まさに言表行為の主体)は、シニフィエのないシニフィアンである。ラカンによるこの例外的シニフィアンの名は主人のシニフィアン(S1)であり、「普通の」諸シニフィアンの連鎖と対立する。(ジジェク、Less than nothing、2012)

〈私〉という一人称単数代名詞だけではない。たとえば人の名前も主人のシニフィアンである。

なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)

あるいは、この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)

ラカンはセミネールⅩⅦにて《主人の本質…は、彼が何を欲しているのか知らないことである。これが主人の言説の真の構造を構成している》という意味のことを言っている。

c'est bien en effet l'essence du Maître, à savoir qu'il ne sait pas ce qu'il veut. Car c'est cela qui constitue la vraie structure du discours du Maître.(Lacan,SéminaireⅩⅦ)

かつまた “m'être, m'être à moi-même”ともある。

Ce qui fait le Maître, c'est ceci : c'est ce que j'ai appelé, en d'autres termes « le cristal de la langue ».

Pourquoi ne pas utiliser ce qui en français peut se désigner sous l'homonymie de l'« m apostrophe être » m'être, m'être à moi-même ?

C'est de là que surgit le signifiant-m'être, dont je vous laisse le deuxième terme à écrire comme vous le préférerez.

Pour commencer d'articuler comment ce signifiant unique opère de sa relation avec ce qui est là déjà, déjà articulé, de sorte que nous ne pouvons le concevoir que d'une présence du signifiant déjà là, je dirais, de toujours.

Car si ce signifiant unique… le signifiant du Maître, à écrire comme vous voulez …s'articule à quelque chose d'une pratique qui est celle qu'il ordonne, cette pratique est déjà tissée, tramée, de ce qui, pas encore certes, ne s'en dégage, à savoir l'articulation signifiante qui est au principe de tout savoir, ne pût-il d'abord être abordé qu'en savoir-faire……

これは〈私〉という主人のシニフィアンは、私自身であり、私自身の主人であるというふうに理解できる。

すなわち主人の言説とは、フロイトの洞察ーーいわゆる人類のナルシシズムを打ち砕く「コペルニクス的転回」とフロイト自らが言うものだーーであるところの、「自我は自分自身の家の主人ではない」“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”に不感症の人物の言説だということになる(参照:「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。

このフロイトの言明のラカンヴァージョンは、「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」である(より詳しくは、→参照)。

このラカンの言明は、結局、次のようなことだ。

我々が主体となる以前にS2sは既にあり(誕生時に、いや母体内でもS2sはある)、S1は後にS2sの介入としてゲームに参入するにすぎない。そしてそれが主体の場を示す。S1の導入とは父の機能だが実はたんなる構造的なオペレーターにすぎないのであり、既に存在するS2sへのこの主人のシニフィアンの介入が「ほかのシニフィアンに対して主体を代表象する」ということになる。

…………

では、われわれは〈私〉という一人称単数代名詞を使ってはならないのか、使えば「狂人」と似たようなものなのだろうか。それについてはロラン・バルトが上に引用した文のなかで語っている、《「自我」がもはや「自身」でない以上、私が「自我」について語っていけない理由はないではないか》と。

バルトは『彼自身のロラン・バルト』で次の内容を二度も強調している。一度は表紙裏に、そしてもう一度は本文中に。

ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物――というより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。(……)すなわちエッセーはおのれが《ほとんど》小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。(『彼自身によるロラン・バルト』)

これらのバルトの見解もニーチェの次の言葉とともに読むことでよりよく理解できるだろう。

われわれは時々、自分自身から逃れて息ぬきをしなければおさまらない、――自分というものを見下ろし、芸術的な距離をおいて遠くから、自分の姿について笑ったり泣いたりすることによって、われわれは、認識の情熱のうちに姿をひそめている主役と同時に道化をあばかねばならない。自分の知恵に対するたのしみを持ちつづけられるように、自分の愚かさを時々槍玉にあげて楽しめねばならぬのだ!

そして、われわれは、究極のところ、重苦しい、生真面目な人間であり、人間というよりか、むしろ重さそのものなのだから、まさにそのためにこそ、道化の鈴つき帽子はど、われわれに役立つものはない。(ニーチェ、悦ばしき知107 番 秋山英夫訳)

…………

ただしラカンの思考はこれらだけではない。ラカンはさらに後年、parlêtre(言存在、話す存在)ということを言い出した。

le sujet qui se supporte du parlêtre… au sens que c'est là ce que je désigne comme étant l'Inconscient((Lacan,SéminaireⅩⅩⅢ)

これはミレール曰くはフロイトの「無意識」概念を言い換えたものであるそうだ。

無意識を分析するなら解釈の意味は真理だ。 話す身体を分析するなら解釈の意味は享楽だ。 この真理から享楽への置換が、21世紀というparlêtre(言存在 )の時代の精神分析実践の基準である。(The Unconscious and the Speaking Bodyby JACQUES-ALAIN MILLER、2014)

これはシニフィアンの主体と享楽の主体にもかかわる(あるいはララングにも、参照:「私」とは他者である ''JE est un autre.''( ランボー))。われわれの無意識は二重構造になっているのだ(参照:二つの主体(二つの無意識)をめぐる)。


ここでやや飛躍的に記すが、話す存在として〈私〉という人称代名詞を使うのなら、それはかまわないとしてみたくなるところだ。

すなわち「自分の考え」を話すのではなく、「自分の声」で話すのなら。--《自分の声をさがしなさい》(須賀敦子

・声というのは不思議なもので、全部が全部自分の声じゃないんです。「あ、こんな声を出している自分がいるのか?」と思うことあるでしょう。これ親父の声じゃないかと思ったり、ご先祖様の声だと思ったりして(笑)。

・結局、言葉も声でしょう。読む人のなかで活字が声になって再生される。すると、やっぱり自分で声に出して自分で聞いて、ある程度恥をかかないといけないように思って、ある時期から朗読会をやりはじめました。

・昔は読むというのは本来、黙読じゃなかったんですね。音読です。声なんです。

・今、人は総じて耳が悪くなっていますよね。自分についてもそう思う。ひょっとしたら近代に入って、そうなったんじゃないでしょうか。つまり理論や観念が発達してくると、耳が悪くなる。

・変な商売で、しばらくしてもわかんないところがある。調子がいいときに書いたのがいいかというと、そんなことはなくて、もう鬱々と嫌々書いた文章のほうがいいことがある。生涯わかんないんじゃないかと思ってます。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談)

《どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。》(『彼自身によるロラン・バルト』)

冒頭はデカルトの夢見る狂人の話で始めたのだ。最後にこう補っておく必要があるだろう。

夢に現れる思想の方がしばしば他の思想より力強くはっきりしていることがある以上、夢の思想のほうが他より偽であると、どうして確かに知りうるのであろうか。(デカルト「方法序説」)

(端折ったところはそのうち続く、--かもしれない)