@OesWords: しかし、いまここに来て見ると、若い人が力強い声を発している。民主主義の基本の力がこのように活発で失われていない以上、自分たち老人がもう希望はないとへたり込んでしまうことはできない。(2015.9.14国会前)大江健三郎
ーーということをおっしゃっているようだが、辺見庸氏のブログが「おひさしぶり」(9月15日)に更新されて大江健三郎にも触れている。前投稿は8月8日であり一カ月以上の空隙がある。体調でも崩されかとシンパイしていたが、おゲンキなようだ。
・おひさしぶりだというのに、あまりにも唐突で恐縮ですが、あの醜いブチハイエナは、ちょっと嗅ぎでもしたらたちまち失神するか、あなたが虚弱体質のばあい、ころりと死にいたるほど、とんでもなくくさい屁をするのだ。食性はいうまでもなく肉食で、ものすごいアゴの力で骨までばりばりと嚼みしだく。並はずれた体力と(無)神経をもち、10数種類の鳴き声をときにおうじて器用に鳴きわける。英名はspotted hyenaだが、ひとをこばかにして「アハハハ…」「へへへへ…」「ヒヒヒヒ…」などとよく笑うことから、 laughing hyenaともよばれる。いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう(ex.inada gas-hyena)。ブチハイエナは雌雄ともいっぱんに無用のけんかをこのまないが、いったんしかけられたら、集団であいてを傷めつくし殺しつくすまでたたかう。しかるのちに敵を食いつくし、みなで放屁しながら「アハハハ…」「アへへへへ…」「アヒヒヒヒ…」と笑うのである。ブチハイエナは、つまり、本質的には超過激で超強力な暴力集団であることをわすれてはならない。話などつうじるものではないのだ。さて、数十頭の群れ(クラン)からなるブチハイエナ集団を覆滅するにはどうすればよいのか。それが問題だ。そろいの字体のプラカードをぶらさげた無害なヒツジさんたち数万頭で、ブチハイエナたちをミンシュテキに包囲し、メ―メ―メ―メ―鳴けばよいというのか。メ―メ―メ―メ―・オマワリサン・ケフモ・オツカレサマ・コンバンモ・ゴクロウサマ!まいどおなじみ大江健三郎たちに、やくたいもないスピーチをさせて、メ―メ―メ―メ―、無傷でもりあがろうってか!?おい、大江、このクニに戦前も戦後もいちどだって民主主義なんてありえたためしがないことぐらい知っているだろうが。まもるものなんてヘチマもない。ならば、大江よ、なぜそう言わないのだ。なぜこうなったのかをかたらないのか。このていたらくのわけを。血のいってきもながさずに、無傷ではなにもできはしない、虫がよすぎる、と。たとえ50万いや100万のヒツジさんたちが、ペンライトをケツの穴から夜空に照らして、メ―メ―メ―メ―、ミンシュテキに鳴いてみたところで、takaichi gas-hyenaの屁いっぱつ、たちまち異臭さわぎで全員気絶だぜ。おい、大江、もうちょっとましな演説ができないのかね。あんたも、もうかるくいっぱつ、頭にかまされたんとちがうか。なに?オナラは暴力ではない?あくまでミンシュテキに、ボウリョク・ハンタイだと?……ああ、見解のそういですな。ひつようなのは、laughing hyena集団の国家暴力をはばむ対抗暴力のイメージだ。やかましい、メ―メ―メ―メ―鳴くんじゃない、きたるべきアイコク・ヒツジさんたちよ、さっさとブチハイエナどもに骨ごと食われてしまえ。いでよ、ふかき憎悪もて、群れず、ひとり闇をさまようもの。暗きうちを歩みて、おのが往くところを知らず、これ暗黒がその眼をくらましたればなり……。されど、いでよ!(2015/09/15)
ーーでこの「名文」を引用すれば、ガンジーの非暴力やらなんたらと言ってくる連中がいるかもしれないのを憂え、ここでガンジーの言葉をも引いておこう。
侵略者達にあなたがたの屍の上を歩かせなさい、罪のない人々の屍の上を踏み越してゆくような軍隊は二度と同じ経験をくりかえすことはできないでしょう。(ガンジー『非暴力の精神と対話』)。
屍になるまでの覚悟があるなら非暴力もよろしい。ブチハイエナどもに貪り喰われる覚悟があるのなら。
そして《いまとくに注目すべきは、メス個体で、陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》ブチハイエナどもである。
「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」《不滅》クンデラ
ーーなぜこうなのか? いやいやソンナコトハナイ、ある種の男たちの錯覚である・・・
だがある種の女たちもどうやらそうであるのではないかとシンパイしているらしい。
イギリスのラディカル・フェミニスト・グループの創設者の一人であったジュリエット・ミッチェルJuliet Mitchellは精神分析フェミニズム系のフェミニストで名高いが、21世紀になって、ラカン派の臨床医の書(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、PAUL VERHAEGHE 2009)の序文をーー序文にしてはいささか長すぎるほどの文をーー書いている。
このヴェルハーゲの書のフロイト・ラカンの女性論をめぐる箇所のまとめ(のいくらか)は「古い悪党フロイトの女性論」にある。だがいまはその話ではない。ラディカルフェミニストの序文の話である。
ジュリエット・ミッチェルはその長々しい序文で、シルヴィア・プラスの詩、 「すべての女はファシストを崇拝する Every woman adores a Fascist(Sylvia Plath)」を引用して、なにやらを説明しようとしている。ただし、女のほうが残酷である、などということは口が裂けても記さない、ただ「父なる超自我」/「母なる超自我」に近いことを口に出そうとはしている。
「母なる超自我」とは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan)である。
ーーというわけで女性のみなさん、フロイト・ラカンなどは決して読まないようにしましょう! そんなものを読めばラディカルフェミニストでもこんなことを口にだそうとしてしまいます!
さてなんの話だったか?
ベンヤミン(『暴力批判論』)は問う、「係争をなんとかして非暴力的に解決することは可能なのか?」
彼の答えは、非暴力的な解決が可能なのは、礼儀、共感、そして信頼のある「内輪の人間どうしの関係において」である、としている。「暴力を行使せず人間同士が合意する領域というものが存在するのは、それが隈なく暴力を受けつけない場である場合だ。すなわち、「理解」(悟性)に固有の領域、言語である。」
ブチハイエナとメーメーこひつじさんたちは、「内輪同士の関係」にあるつもりなのだろうか。それなら「非暴力」に徹したらよろしい。
彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからといって軽視できない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実存するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。(小林秀雄『ヒットラーと悪魔』)
人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかあったところに現れたと言った方がよかろう。(同上)
ところでヒットラーは1930年代の日本を羨んだらしい。
ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)
この「会社主義」の主要な原因(のひとつ)はなにか。
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)
父権的/母性的などとある。これもある種の男たちの錯誤である・・・
とはいえかの上野千鶴子さんーー思想界の注目すべきメス個体、《陰核がふだんでもペニス状に肥大しており、政治的に昂揚したり怒ったり発情しりするとさらにエレクトし、そのデカさゆえに、しばしばファルスとみまがう》などとはわたくしはケッシテイワナイーーがひどくお好みになっているらしい精神科医中井久夫もこっそりとこんなことを言っている、→「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」。
というわけで、女性のみなさん、「思想家」の本など読まないようにしましょう! 穏やかでスカスカの人生指南書のたぐいだけ読みましょう!
…………
※附記:念押ししておけば、ここでの男/女は解剖学的な性別ではない。たとえばラカン派では男と女とはシニフィアンにすぎない(参照)。
いまの総理大臣をどうして「男」だと決めつけるのか、あの解剖学的には男であるらしい人物が実は「女」であると推定してどうしてワルイわけがあろう?
…………
で、何が言いたいんだってーー。
おまえらよく「秩序を以て行列をつくる国民」のデモをいまだやってられるな、感心するぜ!
たしかに権力者に人民への恐怖はある。連合艦隊司令長官山本五十六は、東京が空襲されれば「近衛や自分などは3度ぐらい八つ裂きにされる」と言ったという。だが、それどころか、実際に起こったのは敗戦をお詫びする人民の群れであった。当時の首相は一億が総懺悔せよと言った。
今、原発の真実を知らなかったと自分を責める普通の人たちがいる。その気持ちはどこか私にもある。しかし、一億総懺悔に陥ってはなるまい。どこに、当日、秩序を以て行列をつくる国民があるか。こんな治めやすい国があろうかと多くの国の為政者は羨ましく思ったにちがいない。しかし、不信や「なめるな」の思いが積もっていった。風評被害はその延長上にある。(中井久夫 「清陰星雨」(9.18)より)
※補遺→ 暴力と精神衛生