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2015年9月4日金曜日

忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念

現勢神経症の諸症状、すなわち頭が重い感じ、痛み、ある器官の刺激状態、ある機能の減退や抑制には、なんの『意味』、すなわち心的意義もありません。これらの症状は、たとえばヒステリーの症状のように、たんに主として肉体に現われるばかりではなく、それ自体が全く身体的過程なのであり、この身体過程の成立にあたっては、われわれの学び知っている複雑な心的機制はいっさい抜け落ちているのです。(フロイト『精神分析入門』1917)

後年、私が現勢神経症の研究に立ち戻る機会はもはやなかった。他のひとが、私の仕事のこの部分の研究をさらに引き継いでくれることもなかった。当時の成果を今日、振り返ってみるなら、それは、実際にははるかに複雑にちがいない事態を図式化しようとした最初のこころみ、それも粗雑な図式化の試みだったと言えよう。とはいえその図式は、今からみても、おおむね間違っていないと思われる。(フロイト「みずからを語る」1925)

ーーとは「精神分析における情動論の基礎ーーS・フロイトの「現勢神経症」の構成と意義ーー(古川直子2010)からの孫引きである。

 …………

中井久夫)フロイトは神経症を三つ立てています。精神神経症、現実神経症、外傷神経症です。彼がもっぱら相手にしたのは精神神経症ですね。後者の二つに関してはほとんどやらなかった―――あるいはやる機会がなかったと言った方がいいかもしれないけど。フロイトの弟子たちも「抑圧」中心で、他のことはフロイティズムの枠内ではあまりやっていませんね。

また、「抑圧」の原語verdrangungは水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。「中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でもrepressionを否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斉藤/中井/浅田)


◆「精神医学」と「精神看護」の出会い  中井久夫氏を囲んで(2001)

中井久夫)看護大学で講義をしていて,最も講義しにくいのが神経症です。

 僕は看護大学では,《発達》にしたがって現れる神経症を教える時は,まず黒板に線を引きます。そして,例えば「“チック”というのは,治る能力が備わらないと出てこない」とか,「離人症は,“自分を見つめる自分”とかがないと出てこない」というように講義していました。

 しかしそうすると,昔でいう「ヒステリー」などはそこに収まらないわけです。そこで,それは一応《退行》,つまり“赤ちゃんがえり”として説明してみて,それに外傷神経症などを加えて解説しています。

 その助けになったのは,ヤングという人で──今度『PTSDの医療人類学』(みすず書房)という本を翻訳しましたが──,彼はDSM体系ではフロイトの精神神経症を否定しただけだと言っています。

 「フロイトは現実神経症と外傷神経症もあげているけれども,それには目が及んでいない,この2つは浮いているんだ」と書いているので,私もチョッピリ味方を得たような気になりました。

《新型うつ」と過労の関係について、精神分析の側から考えなければいけないのは、欲動の不適切な処理から生じる現実神経症Aktualneuroseのこと。この概念はあまりにも忘れ去られすぎた》(松本卓也ツイート 2012)

…………

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

ヴェルハーゲは2009年の論文でもくり返している。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。



◆“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe – Dublin, September 2007 – Health4Lifeconfererence – DCU.

ラカン派のタームであるなら、鏡像段階のあいだに何かがうまく行っていないのです。鏡像段階、すなわち、アイデンティティの形成が欲動の規制と共同して始まる時期です。まるで現代の〈大他者〉――その意味するところは、両親だけではなく、また象徴的秩序ですがーー彼/彼女の鏡像的機能を果たすことにますます失敗しているかのようです。その結果は、子供は心理的に発達しないのです、すなわち、欲動やそれに伴う興奮を取り扱う表象的な方法に欠けているのです。さらにアイデンティティ自体の形成さえも狂わされています。結果として、欲動の処理はソマティック(身体的な)レベル、すなわち原初の現実界のレベルに立ち往生してしまっています。

これが、なぜ症状が、なにものにも介入されない、さらにはパフォーマティヴな仕方で身体に呼びかけるのかを説明してくれます。同様に意味の欠如をも説明してくれます。それらは、防衛メカニズムのたぐいではなく、意味のない「解除反応Abreaction」により接近しています。私の考え方の道筋では、これはフロイトが命名した「現勢神経症」ものへと導いてくれます。時間がないので、フロイト理論の現代的解釈を詳しく述べることはしませんが、こういうだけで充分でしょう、すなわち。「現勢神経症」の主な特徴とは、表象を通しての欲動興奮を処理することの失敗である、と。

ラカンの鏡像段階の理論とフロイトのアイデンティティ発達の理論の光の下では、表象能力の失敗とは、原初の〈大他者〉との関係における失敗として理解されなければなりません。ごく一般的には、そうなのです。古典的な精神神経症では、欲動興奮は表象的なオブラートがあり、意味溢れる古典的に分析され得る症状を通して、象徴的な表現を見出せます。

現勢神経症の場合では、この表象の処理がひどく妨げられています。臨床像に関する結果は、“意味溢れる”症状の不在です。そこにはソマティックな現象にかかわるパニックな攻撃と不安が伴っています。不安とは原初の興奮arousalの表現なのです。結果として、興奮状態excitationが過剰な割合を占めてしまいます。そして行動をとおした捌け口が見出されるのです。それは自らの身体に向けてであったり、他者に向けてであったりします。

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。


このヴェルハーゲの立場への批判ーーミレールの「ふつうの精神病」概念と比較してーーが書かれている論文Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis Jonathan D. Redmond。200ページ以上あるので、ちら見しただけだが。


おい、だれかマトモにやれよ、現実神経症の研究。ラカンがどうたら、自閉症やらボーダーラインやらなどとばかり言っておらずに。 たぶん核心のひとつだぜ

オレに手許にはフロイト旧訳しかないからな、英訳とみくらべてみたり、ほとんど縁のない原文参照はウンザリさ。おまえらやれよ

フロイトだって正直にこういってるんだぜ。

……不安が抑圧をひき起こすのであって、私が前に考えたように、抑圧が不安を起こすのではないのである。

私は前にたびたび次ぎのようにのべた。いま、それについて考えることは快くないが、かといってそれをさけるわけにはいかない。私がのべたのは、抑圧によって衝動の表象は変形されたり、おきかえられたりして、その衝動のリピドーが不安に変化するということである。(……)いまになって見わたしたところ、たいていの恐怖症がリピドーの欲求にたいする自我の不安に帰着するのである。そのさい、つねに自我の不安な態度が抑圧にとって第一義のものであり、またその動因なのである。抑圧されたリピドーから不安が生ずることはない。私は前に、抑圧があってから後に、予期されるリピドー表現のかわりに、相当量の不安が現われるといって満足していたのだが、いまでもそれを撤回する必要はないだろうと思う。この記載は正当であり、抑圧された衝動とその結果もたらされた不安の強さとのあいだには、まったくこの主張に該当する関係がある。だが実をいうと、私はたんなる記載以上のことをいおうと考えていたのである。リビドーが直接不安に変わるメタサイコロジー的過程を知ったと思っていた。しかしいまではもうこれを固執できない。以前にも、どうしてこの転化が起こるかについては、説明できなかったのである。

それでは、どうして私はこの転化という考えをもつようになったのだろうか。それは、まだ自我内の過程とエス内の過程を区別するにはいたらなかった時代のことであって、現実神経症の研究からである。(フロイト『制止、症状、不安』1926人文書院 旧訳 P.335) 


おれはいまのところヴェルハーゲの融合不安と分離不安概念でかたまってるからな、おまえら反論してみろ。

フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。る(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009ーー享楽 (a) とファルス化された対象a(Paul Verhaeghe)

日本井蛙ラカン派の連中ってのは寝言がおおいからな、おまえらもうすこし勉強したらどうだい?

アドラーやらをなんたらいってる連中とか心理療法士のたぐい? あいつらはたんなるマヌケだよ

ようするに「マ」が抜けているのさ、フロイトというな。

ラカンに関するかぎり、彼が構造主義者であるかどうかという問いへ答えるのはやや困難です。このたぐいの論議は、すべて、そこに付随する定義しだいなのですから。それにもかかわらず、ひとつだけは、私にとって、とてもはっきりしています。フロイトは構造主義者ではありませんでした。もしラカンが唯一のポストフロイト主義者、すなわち精神分析理論をほかのより高い水準に上げたとするならば、この止揚(Aufhebung)、ヘーゲル的意味での「持ち上げ」は、すべてラカンの構造主義と形式主義にかかわります。残りのポストフロイト主義者は、フロイトの後塵を拝しています。プレフロイト主義の水準に戻ってしまっているとさえ、とても多くの場合、言いうると思います。フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。(ヴェルハーゲーーわれわれを途方にくれさせる「構造主義者」マルクスとラカン

……………

※追記

…現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の…障害形式のあいだにもある。(フロイト『精神分析入門』1916-1917、私訳)
 …das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms. Man beobachtet ein solches Verhältnis am deutlichsten zwischen der Neurasthenie und der »Konversionshysterie« genannten Übertragungsneurose, zwischen der Angstneurose und der Angsthysterie, aber auch zwischen der Hypochondrie und den später als Paraphrenie (Dementia praecox und Paranoia) zu erwähnenden Formen. (Sigmund Freud Vorlesungen zur Einfuhrung in die Psychoanalyse)

パラフレニアという用語がある。ここでの記述、≪パラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆dementia praecox と パラノイア paranoia)≫とは、ラカンのパラフレニアの定義とは異なるようにわたくしには思える。
想起してもらいたい。シュレーバー事例ーーそれは、精神病に関するフロイトの主要テキストだがーー、その考察の最後で、フロイトはあたかも「分水嶺」を追跡している。すなわち、一方でパラノイア paranoia と、他方で彼が呼ぶところのパラフレニア paraphrenia とのあいだの境界線を。このパラフレニアとは、スキゾフレニア(分裂病)の領野を正確に覆うものだ。それは、いわゆる分析の疾病分類における分裂病の全領野を提供しているとさえ言える。…パラフレニアとは、まさにどの痴呆 démence をも包含する。

私はあなたがたに言おう、この必要不可欠な参照点を。この参照点には、我々が引き続いて言わなければならない全ての要点がある。

したがって、フロイトにとって、精神病の領野は二つに分割されている。(すなわち)精神病自体は、精神病学的領野 domaine psychiatrique のほぼ全体を包含する。精神病、それは痴呆症ではない。(ラカン、セミネールⅢ「精神病」私訳)
…je vous rappelle qu'à la fin de l'observation du cas SCHREBER… qui est le texte fondamental de tout ce que FREUD a apporté concernant les psychoses, texte majeur …vous y verrez de la part de FREUD la notion d'une « ligne de partage des eaux » si je puis m'exprimer ainsi, entre paranoïa d'un côté, et d'un autre tout ce qu'il aimerait, dit-il, qu'on appelât « paraphrénie »… et qui correspond très exactement au terme qu'il voudrait bien, lui FREUD, qu'on donne au champ à proprement parler des schizophrénies, ou encore ce qu'il propose qu'on appelle champ des schizophrénies dans la nosologie analytique …paraphrénie qui recouvre exactement toute la démence.

Je vous indique les points de repère qui sont nécessaires à l'intelligence de ce que nous dirons dans la suite.

Donc pour FREUD, le champ des psychoses se divise en deux : psychoses à proprement parler pour savoir ce que cela recouvre à peu près dans l'ensemble du domaine psychiatrique, psychose cela n'est pas démence.


フロイトのシュレーバー事例1911の記述においては、確かにラカンの言っているように読めないことはない。だが、その後、1916-1917には、上に見たように、≪パラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆dementia praecox と パラノイア paranoia)≫としている。

フロイトは、1914年にもすでにこう言っている。

ナルシシズムを直接に研究することにはこれを妨げるいくつかの特別な困難があるように思われる。そのための本筋がパラフレニアの分析にあることにはたぶんかわりはないだろう。転移神経症がわれわれに欲動のリビドー的な動きを追求することを可能にしてくれたように、早期性痴呆やパラノイアは自我心理への洞察をわれわれにゆるしてくれるであろう。(フロイト『ナルシシズム入門』1914、旧訳:フロイト著作集)
Ein direktes Studium des Narzißmus scheint mir durch besondere Schwierigkeiten verwehrt zu sein. Der Hauptzugang dazu wird wohl die Analyse der Paraphrenien bleiben. Wie die Übertragungsneurosen uns die Verfolgung der libidinösen Triebregungen ermöglicht haben, so werden uns die Dementia praecox und Paranoia die Einsicht in die Ichpsychologie gestatten. 

ここでもパラフレニアは、早期性痴呆とパラノイアを包含する概念であることが示されている。

とはいえ、このあたりは複雑であって、たとえば、次のような図表を示されている方がいる(Reading… Seminar III, Chapter I)。




日本でも次のような指摘がある。

Lacan のいう「パラノイア(paranoia)」は、E.Kraepelin のパラフレニーとパラノイアを一括して捉える概念であり、つまるところ症例 Schreber のような、急激に痴呆化に至ることのない妄想優位の精神病を指している。(要素現象の概念――統合失調症診断学への寄与――松本卓也,加藤 敏 ,2012)