あまり時事的な話題を記すつもりはないのだが、このところなぜだか続いている。きょうもまたそのたぐいだ。やや身体的な不調があり(痛風気味がつづく)、退屈しているせいかもしれない。
…………
よい子はこういった「諷刺」を面白がっちゃいけないぜ。
bcxxx氏ーー通称ばんちょう氏ーーは本人によれば、かの「ヘサヨ」という秀逸な語を発明された方である。だが「バター犬」も秀逸な表現だなどとイッテハナラヌ!
律法は罪であろうか。決してそうではない。 しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。(パウロ ローマの信徒への手紙7章)
しかし「バター犬」がこんなにもツイッター上で流通しなかったならば、わたくしは「バター犬」を知らなかったであろう。
◆last tango in paris (The butter scene)
すこし探ってみると(dog,lick,○○○○の三語で)、こんなものもある。
(My dog licks my pussy) |
シツレイ! 重ねて言うが、よい子はこんなものを貼り付けてはならぬ!
ここでフェミニストのお二方に敬意を表して、そのツイートを貼りつけておく。
@akishmz: 女性研究者と師弟関係にある男性研究者を「バター犬」と罵るって、1. 女性がかかわる非性的関係を性化して侮蔑 2. 女性「上位」の性的関係にある男性を非人間化して嘲笑 3. それを「通常の(正常位挿入的)」性関係と区分される「異常な」関係として揶揄、の三重の意味で下劣で差別的。清水晶子
@kazukazu881: 「バター犬」という揶揄は、女性を上司に持つ男性を「去勢された人間以下の存在」として表象すると同時に、男性を部下に持つ女性も性的にグロテスクに描く女性嫌悪丸出しの「罵倒」なのだから、片方の普段からのセクシズムを指摘しても、社会的地位にある女性全体を貶めていることは変わらないよね?
@kazukazu881: 社会的地位にある女性を性的にグロテスクに表現することを通して他の男性を貶める行為に対して、それはおかしいと指摘があるのであって、罵倒された一人の男性を擁護しているのではないでしょ。
@kazukazu881: さらに言えば、なぜ女性差別問題に敏感な人間が、そのような社会的地位のある女性をグロテスクに描くことに問題視するかと言えば、社会的地位にある女性をことさら攻撃の対象にするのは、男性のジェンダー支配を揺るがすような女性の処罰と他の女性の服従のための手段として長く使われてきたわけで。
@kazukazu881: それは現代でも、オバマの選挙スタッフが選挙で敗北したヒラリーの写真の胸を揉むような写真をSNSにアップするような「遊び」から、ISISが支配した地域の女性の議員や人権活動家、医者や弁護士といった社会的ステータスのある女性を真っ先に処刑した「暴力な支配」まで幅広く見られるわけで。
たぶん男性のジェンダー支配の社会であるからあの諷刺はいけないのだろう
とすれば女から男への悪態はかまわないのだろうか?
"Obama? He's got nothing in the pants."(Hillary Clinton)ーー• Sarah Palin: Operation "Castration" •.........Jacques-Alain Miller
サラ・ペイリンの選択は時代のサインである。政治において、女性の言明は支配的になりつつある。しかし注意して! もはや肱を振り回して男たちを模倣する女性についてではない。わたしたちはポストフェミニストの女性の時代に突入している。その女性たちは、容赦なく、政治的な男性たちを殺す準備をしている。この移り変わりは、ヒラリーのキャンペーンのあいだに完全に目に見えた。彼女は最高司令官の役割をもって始めた。だがそれでは機能しなかった。何をヒラリーはしたのか? 彼女は潜在意識的なメッセージを送った。それは次ぎのような何かである。“オバマ? 彼はパンツのなかに何もないわ”。そして彼女はすぐさま撤回したが、遅すぎた。サラ・ペイリンは、切り上げられた場所を拾いあげただけではない。15歳若い彼女は、その他の点では、獰猛で、女性的皮肉を、自然に投げつける。サラは明らかに彼女の男性の敵対者を去勢する(率直な大喜びで!)。そしてそれらへの反応は沈黙したままだ。彼らはどうやって攻撃したらいいのか分からないのだ、その女性性を、男たちをからかうのに使い、男たちをインポテンツに陥れる女性に対して。さしあたり、“去勢”カードで遊ぶ女性は、征服できそうもない。(ミレール 「サラ・ペイリン:「去勢」手術」ーー獰猛な女たちによる「去勢」手術の時代)
いやかりにヒラリーの悪態が差別的であったにしろ、彼女には「情状酌量」しなければいけない理由がある。
クリントンは政治権力上ではファルスを持っていた。だが…モニカは彼が去勢された主体であることが分かってしまった…私の友曰く、フロイトの「葉巻はただの葉巻だ」よ、と。…モニカが見出しのは、クリントンはファルスを持っているが、所有していないことだ。(Levi R. Bryant, Sexuation 1– The Logic of the Signifierーー簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」(ラカン))
さてここでいささか飛躍してこういってみよう。
ーー日本の男たちもそろそろ「情状酌量」される余地はないのだろうか。
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。
men were the new silent victims in the sex war, "continually demeaned and insulted" by women without a whimper of protest.(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists)
現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。
The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(Élisabeth Badinter )
Doris Lessing(ノーベル賞作家)はすくなくともかつてのフェミニストの闘士のひとりだが、 Élisabeth Badinter もフェミニストの範疇に入る思想家だろう。
著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。(エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話(L'Amour en Plus)』訳者鈴木晶「あとがき」)
さてここでまた話をかえるがーー。
ところでこんな表現も、たとえば「同性愛者」への侮蔑にあたるのだろうか。
白状しろよ。いつも下痢がちの安倍のケツを、いったい何人のクソバエ記者たちがペロペロと舐めてきたことか。(辺見庸)
白状しろよ、そこのボク珍たち!おまえらフェミニストのケツをペロペロ舐めてきたバター夜郎自大の社会学者だろ、キンタマついてんのか! それとも隠蔽された男根主義者か、はあ?
ーーくり返せば、よい子はこんなことを書いてはいけない
一方は完全ロバと、もう一方は自分の墓掘人どもの才気ある同盟者(クンデラ『不滅』)
おまえらフェミニストの墓掘り人にだけはなるなよな
ーーいやシツレイ! すくなくとも「完全ロバ」はここでの文脈ではまったく正しくない!
女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006 鈴木晶訳)
女がフェミニストの主体になるにはどうするか? 父権的ディスコースによって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。“庇護”のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男の“女性に対する心遣い”(食事代を払う、ドアを開ける等)を拒絶することによってのみ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』2012,私訳)
《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(ヴェルハーゲ) ーーとすればオカアチャンのバター犬になりたいというのは、ほとんどすべての男のひそかな欲望なのではないか。
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)
女たちはどうだろう、バター犬のような若いツバメをかかえていたくないのだろうか?
いずれにせよーーと誤魔化しておくがーー過度の「バター犬」批判は、《すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなる》傾向を促進させかねない。ある種の男たちは、《抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている》ーーかどうかは知るところではないが。
…………
とはいえ、世の中には言わせちゃいけないことがある。だがわたくしには「バター犬」がその言ってはならない諷刺・揶揄のたぐいなのかは判断できないままでいる。
構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。
この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe))
いずれにせよーーと誤魔化しておくがーー過度の「バター犬」批判は、《すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなる》傾向を促進させかねない。ある種の男たちは、《抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている》ーーかどうかは知るところではないが。
浅田彰)いまの論調の支配的な流れの一つは、デリダからレヴィナスへの回帰ですよね。ポジティヴな絶対的神はない、しかしネガティヴな絶対的他者がその不在においてわれわれに呼びかけている、それに向かってわれわれは無限の応答責任(レスポンサビリテ)を負う、と。これはニーチェ的にいうと最悪のモラリズムになりかねないでしょう。さらに問題なのは、そういう擬似宗教的な他者論がしばしば政治的な文脈にダイレクトに導入されることです。いわゆる「従軍慰安婦」の問題にしても、まずは、国家が謝罪し補償するという近代の原理で行けるところまで行くのが先決だと思う。そこで、われわれは他者の顔の前に恥を持って立たねばならないとか何とかいっても、あまり実効性がないばかりか、いたずらにマジョリティの反発を招くことにさえなりかねない。結局、そういう擬似宗教的なモラリズムは、一種の麻痺――すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなるという、最近よくあるポリティカリー・コレクトな態度を招きよせるだけではないか。そのような脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるそ、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないんだというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思うんですが。(「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」(『NAM生成』所収)
確かに、良質の諷刺には愛嬌がつきものである。しかし、過激でない諷刺、「他者への配慮」によって去勢された諷刺など諷刺とは言えず、諷刺のないところには民主主義も文化もない。(浅田彰「パリのテロとうエルベックの服従」)
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とはいえ、世の中には言わせちゃいけないことがある。だがわたくしには「バター犬」がその言ってはならない諷刺・揶揄のたぐいなのかは判断できないままでいる。
ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう。 (……)
今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。 (ジジェク『幻想の感染』松浦俊輔訳)