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2015年4月3日金曜日

獰猛な女たちによる「去勢」手術の時代

フロイト・ラカン派の意味での「去勢」概念は、たとえば次ぎのように言われるとき、--すなわち、お前は去勢が十分でないんだよとされるときーー貶めの含意をもって使われる。

日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。(柄谷行人「日本精神分析再考(講演)(2008)」

鏡像段階とは、母と子の二者関係にある、ということである。そのとき、子供は、母の想像的ファルス φ petit phiになろうと欲望する(désir d'être phallus)。母の方も、自分の場所に欠けているものとして子を欲望する、その欲望に応じるように、母の期待に応えるために、子は母の場所に欠如している想像的ファルスであろうとする。通常、ここに介入するのが、Φ grand phiであり、それを「象徴的去勢」と呼ぶ。


母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。(ラカンーー鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス

上の文にある「ファルス」とは象徴的ファルスΦ grand phiであり、この支えがないままだ、というのが、「去勢されていない」ことの謂いであり、ようするにラカン的な意味で、お前は去勢されていない、というときには、通常、母と子の二者関係のままの輩だな、という嘲弄になる。

この鰐の口の支えの機能は、父の有無、あるいは不在とはあまり関係がなく、《問題は父親にたいする母親の関係、「単に母親が父親にいかに対応するかだけではなく、母親が父親の言葉、正確には父親の権威、にどのような地位を与えるか、いいかえれば法のプロモーションにおいて母親が父の名のために空けてある場所をどうするか》である(ラカン『エクリ』 p.579 )。

要するに象徴的権威(「父の名」)に対する母親の態度にかかわる。ところで、現在は、父の名の権威の崩壊の時代、エディプスの斜陽の時代である。それをラカンは、主人の言説の崩壊、そして資本主義の言説の時代ともいう。

主人の言説は、概ね消滅してしまった(ラカン セミネールⅩⅦ)
もう遅すぎる……、危機、主人の言説のではない、資本家の言説、それは代替だが、それは開いてしまったouverte(ラカン ミラノ 1972/5/12)
資本主義のディスクールを特徴づけるものは、排除(Verwerfung)、拒絶、象徴界の領野すべての外に拒絶することだ。何を拒絶するのか? 去勢を拒絶する。セミネールⅩⅨ 1972/1/6)

とすれば、日本だけではなく、世界的に、人びとは去勢されていない、あるいは去勢が不十分な時代ということになる(そもそも、象徴的ファルスやら父の名やらは、一神教の国の話ではないか、日本にそんなものがなかったのはーー天皇をかついだ疑似一神教のある時期を除いてーー当たり前ではないか、という議論もあるが、それはここでは割愛)。

ところで、「父の名」を文字通りとってみよう。われわれは、ほとんど誰もがーー母子家族を除いてーー「父の名」を持っている。夫婦別姓の社会でも基本的に子供は父のファミリー・ネームを名乗る。たとえば、わたくしの住んでいる国は夫婦別姓であるが、子供たちは父親が外国人であっても、その外国名の父の名を概ね与えられる習慣がある。これも「父の名」である。もちろん、上にラカンの言葉を掲げたように母親がその父の苗字にどのような地位を与えるかが肝腎であるが。

初期の理論でさえ、ラカンはエディプスの父の機能における象徴的側面を強調した。父の名の隠喩は実にその名を通して作用する。この仮説とは次のようなものである。すなわち、子どもに父の名との組み合せによる彼自身の名前を与えることは、子どもを原初の(母子の)共生関係symbiosisから解放する。後期のラカン理論では、ラカンは名づけることのこの側面をいっそうくり返し強調した。したがってラカンは複数形で使用したのだ、the NAMES of the father(Les Noms-du-Père引用者)と。疑いもなく文化人類学の影響を受けて、ラカンは次ぎの事実を分かっていたに違いない、母系制文化においてさえ、分離の機能は名づけるnamegivingことを通して作用することを。それは伝統的な欧米の核家族の外部でさえもである。主体に独自のシニフィアン、すなわち母のそれではなく異なったアイディンティティのシニフィアンを提供することは、分離を惹起し、こうして保護を与える。これはわれわれに重要な結論を齎してくれる。すなわちエディプスの法は、古典的なエディプス、たとえば家父長制の外部でとても上手く設置することができる。――これは重要である。というのはそれが意味するのは、われわれは、基本的な信頼を取り戻すために、古き良き家父長制に戻ることを承認する必要はないということだから。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

このように、資本主義の言説の時代でも「父の名」がまったく機能していないわけではない。

…………

ところで、われわれの殆どは、もちろんラカンなどを理解している暇はないので、「去勢」という用語をラカン的に厳密に使うことはない。

ラカンの「男根中心主義phallocentrism」へのたいていの批判の難点は、一般的に、彼らは「ファルス」と/あるいは「去勢」に言及するときに、先入観念的な、コモンセンスとしての隠喩の形で、そうすることだ。たとえば、標準的なフェミニスト映画研究では、男が女に攻撃的に振舞ったり、女への男の権威が現われるたびに、彼(女)たちは、男の行動が「ファリック」だと、確信をもって明示する。女が、はめられたり、無力感に陥りさせられたり、詰め寄られたり等々の状況になるたびに、彼女の経験はたいていの場合、「去勢される」と指弾される。ここで失われているものは、まさに去勢のシニフィアンとしてのファルスのパラドックスだ。もしわれわれが、象徴的「ファリックな」権威を行使すれば、そこで支払わなければならない代償は、われわれは、主体者としての立場を放棄して、〈大他者〉として行動し話すことを通して、その〈大他者〉の媒体として機能することを承諾しなければならないということである。(ジジェク LESS THAN NOTHING)

たとえば職場で、誰か権威的人物からひどい「いじめ」に遭遇してしょぼくれてしまえば、それは「アイツは去勢されちまった」という具合になるわけで、いくらフロイト・ラカン派が頑張っても、こっちの使用法のイマジネールな隠喩の秀逸さをひとは捨てさることなどありえない。

ーーというわけで、ラカン派の皆さん、「去勢」が「象徴的去勢」の意味で使われるのは諦めたほうがいいんじゃないか、無駄な抵抗だよ。


ようするに「彼奴は去勢されている」、と日常的に使うとき、この言い方は、貶めの意味で使うだろう。「お前は去勢が不十分なんだよ」、ーーこれが嘲弄だと言われてもピンとこない人が多いのではないか。


たとえば、ラカンの娘婿でもあるラカン派の権威ジャック=アラン・ミレールでさえ、日常的な意味での「去勢」として捉えてよい文章をその小論のなかで記している。それは、2008年アメリカ合衆国大統領選挙におけるサラ・ペイリンとヒラリー・クリントンをめぐっての論である(Sarah Palin: Operation “Castration”Jacques-Alain Miller)





サラ・ペイリンの選択は時代のサインである。政治において、女性の言明は支配的になりつつある。しかし注意して! もはや肱を振り回して男たちを模倣する女性についてではない。わたしたちはポストフェミニストの女性の時代に突入している。その女性たちは、容赦なく、政治的な男性たちを殺す準備をしている。この移り変わりは、ヒラリーのキャンペーンのあいだに完全に目に見えた。彼女は最高司令官の役割をもって始めた。だがそれでは機能しなかった。何をヒラリーはしたのか? 彼女は潜在意識的なメッセージを送った。それは次ぎのような何かである。“オバマ? 彼はパンツのなかに何もないわ”。そして彼女はすぐさま撤回したが、遅すぎた。サラ・ペイリンは、切り上げられた場所を拾いあげただけではない。15歳若い彼女は、その他の点では、獰猛で、女性的皮肉を、自然に投げつける。サラは明らかに彼女の男性の敵対者を去勢する(率直な大喜びで!)。そしてそれらへの反応は沈黙したままだ。彼らはどうやって攻撃したらいいのか分からないのだ、その女性性を、男たちをからかうのに使い、男たちをインポテンツに陥れる女性に対して。さしあたり、“去勢”カードで遊ぶ女性は、征服できそうもない。(ミレール 「サラ・ペイリン:「去勢」手術」)

もっともここでの使用法は、男たちの「象徴的権威」のハリボテぶりを「去勢する」ということなのだから、かならずしも、正統ラカン派的使用法から遠く離れているわけではないかもしれない。

シニフィアンとしてのファルスが、象徴的権威の代理人を示すかぎり、その決定的な特徴は、それゆえ、次の事実にある。すなわちそれは「私」ではない、生きている主体の器官ではないということであり、そうではなく、外部の力が割り込んで、私の身体にそれ自身を刻みつける「場」なのである。この「場」、そこに〈大他者〉は私を通して行動する、――要するに、ファルスがシニフィアンという事実は、とりわけ、それは構造的な身体なき器官であるということであり、私の身体から「切り離された」何かなのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)

むしろ、男たちのマッチョぶりへの女たちの対抗言説とすべきか。

マッチョのイメージは、人を惑わせる仮面として経験されるのではなく、人がなろうと努力する理想の自我として経験される。男のマッチョイメージの裏には、なにも秘密はなく、彼の理想に恥じない行動をとり難いただ弱々しいごく普通の男があるだけだ。.(Zizek Woman is One of the Names-of-the-Father 私訳)

(以下、続く)