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……西欧の諸民族においてあれほど激しくあらわれ、まるで非合理的であるかのごとき様相を呈するユダヤ人憎悪の根源がみいだせると考えることは避けがたいことであるように思われる。割礼は、ヨーロッパの人びとのあいだで は無意識下で去勢と同じものだとみなされてきた。原始時代にまで想像を広げても さしつかえないのであれば、割礼は、もともと性器の皮を剥ぎ取ることによる緩和された去勢の代替行為であったはずだという気がする。(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910)
割礼は、去勢の象徴的代替である。その去勢とはすなわち、原父が己れの絶対的権力の十全さの下に、かつて彼の息子たちに科した行為だった。(フロイト『モーセと一神教』1939)
フロイトは、このようにして、1920~1930年代の反ユダヤ主義の猖獗を説明しようとする。それは必ずしも、「去勢された」--コモン・センスの意味でのーーユダヤ人を侮蔑するという心理機制だけではないが(詳細はここでは省く)、すくなくとも割礼は「不気味な印象」をキリスト教徒に与えるとしている。
今、コモン・センスの意味、と書いたが、それは次ぎのような文脈である。
ラカンの「男根中心主義phallocentrism」へのたいていの批判の難点は、一般的に、彼らは「ファルス」と/あるいは「去勢」に言及するときに、先入観念的な、コモンセンスとしての隠喩の形で、そうすることだ。たとえば、標準的なフェミニスト映画研究では、男が女に攻撃的に振舞ったり、女への男の権威が現われるたびに、彼(女)たちは、男の行動が「ファリック」だと、確信をもって明示する。女が、はめられたり、無力感に陥りさせられたり、詰め寄られたり等々の状況になるたびに、彼女の経験はたいていの場合、「去勢される」と指弾される。ここで失われているものは、まさに去勢のシニフィアンとしてのファルスのパラドックスだ。もしわれわれが、象徴的「ファリックな」権威を行使すれば、そこで支払わなければならない代償は、われわれは、主体者としての立場を放棄して、〈大他者〉として行動し話すことを通して、その〈大他者〉の媒体として機能することを承諾しなければならないということである。(ジジェク LESS THAN NOTHING)
だが、--話をもとに戻せばーー、フロイトの見解とは異なる次のような見方もある。
……ユダヤ人との比較は〈軽蔑〉の念を惹起させるどころか、賛嘆と尊敬、なかんずく嫉妬の念を起 こさせる。というのも、 〈剪除〉は衰弱ではなくむしろ強化と認められるからである。 〈反セミティズム〉は割礼を施されないものの優越感というよりは、 むしろ劣等感に基礎をおいている。 割礼をしていないものは無防備なまま去勢の恐怖にさらされるのにたいし、割礼を済ませたも のは、 割礼以降は去勢の恐怖から象徴的に護られているのである。(ゾンバルトNicolaus Sombart, Die deutschen)
ところで、ジジェクの見解では、「ユダヤ人」は、主人のシニフィアンとして機能した面と、対象aとして機能した面のふたつの局面がある。
〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫い合わせ点quilting point」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。大学のディスクールは、この判読可能性を、定義によって支える知のネットワークを詳述するわけだが、その言説は、当初の〈主人〉の仕草を前提条件とし、それに頼っている。〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク『パララックス・ヴュー』)
ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだ。
どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。
”なにがマスターシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。
この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)
ドイツにおける1920年代の反ユダヤ主義について考えてみよう。人びとは、混乱した状況を経験した。不相応な軍事的敗北、経済危機が、彼らの生活、貯蓄、政治的不効率、道徳的頽廃を侵食し尽した……。ナチは、そのすべてを説明するひとつの因子を提供した。ユダヤ人、ユダヤの陰謀である。そこには〈主人〉の魔術がある。ポジティヴな内容のレベルではなんの新しいものもないにもかかわらず、彼がこの〈言葉〉を発した後には、「なにもかもがまったく同じでない」……。たとえば、クッションの綴目le point de capitonを説明するために、ラカンは、ラシーヌの名高い一節を引用している、“Je crains Dieu, cher Abner, et je n'ai point d'autre crainte./私は神を恐れる、愛しのAbner よ、そして私は他のどんな恐怖もない。“すべての恐怖は一つの恐怖と交換される。すなわち神への恐怖は、世界のすべての出来事において、私を恐れを知らなくさせるのだ。新しい〈主人のシニフィアン〉が生じることで、同じような反転がイデオロギーの領野でも働く。反ユダヤ主義において、すべての恐怖(経済危機、道徳的頽廃……)は、ユダヤ人の恐怖と交換されたのだ。je crains le Juif, cher citoyen, et je n'ai point d'autre crainte. . ./私はユダヤ人を恐れる、愛する市民たちよ。そして私は他のどんな恐怖もない……。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)
この説明にあるように、「ユダヤ人」が、主人のシニフィアンとして機能したことは明らかだろう。だが、それだけではない、とジジェクはいう。そこでは「概念上のユダヤ人conceptual Jew」という用語が使われ、--もともとはアドルノやアーレントの用語らしいが (参照:The Conceptual Jew: Reflections on Arendt and Adorno's Post-Holocaust Theories of Anti-Semitism)、--この「ユダヤ人」は対象aとして機能した、とされる。
要するに、父の名と“概念上のユダヤ人”の相違とは、象徴的フィクションと幻想的幽霊fantasmatic specterとの相違である。ラカンのアルジェブラではS1、すなわち主人のシニフィアン(象徴的権威の空のシニフィアン)と対象aの相違である。主体が象徴的権威を授けられるとき、彼はその象徴的肩書きの付属物として振舞う。すなわち〈大他者〉が彼を通して行動するのだ。幽霊的な現前の場合は、反対に、私が行使する力は“私自身のなかにあって私以上のもの”である。
しかしながら、去勢のシニフィアンとしてのファルスによって保証された象徴的権威と"概念的なユダヤ人"の幽霊的な現前とのあいだには決定的な相違がある。どちらの場合も、知と信念のあいだの分断を扱うにもかかわらず、このふたつの分断は根本的に異なった特質がある。最初の場合、信念は"目に見える"公的な象徴的権威にかかわる(私は父が不完全で弱々しいことを知っているにもかかわらず、私は父を権威の形象として受け入れる)。他方、二番目の場合、私が信じているのものは、目に見えない幽霊的な顕現である。幻想的な"概念上のユダヤ人"は象徴的権威の父権的形象、公的権威の"去勢された"担い手あるいは媒体ではない。そうではなく、何か決定的に異なったもの、正当なロジックを倒錯させる公的権威の不気味な分身である。彼は影として振舞う、公衆の眼には見えない、幻影のような、幽霊的全能性を照射するのだ。この測り知れなく捉えがたい彼のアイデンティティの核心にある地位によって、ユダヤ人はーー"去勢された"父とは対照的にーー去勢されていないものとして感知される。彼の実際の、社会的、公的な存在existenceが中断されればされるほど、その捉えがたい、幻想的な外ー存在ex‐sistenceは人びとを脅かすようになる。(同 LESS THAN NOTHING)
以下、もう少しつけ加えるが、この見解であるならば、ユダヤ人は、〈女〉のように、あるいは去勢されていない〈享楽の父〉のように捉えられたということになる。
他の相同関係――同じ理由で拒絶されるべきであるーーは父の名と幻影的な「女」の間の関係である。ラカンの「女は存在しない」(la Femme n'existe pas)は、経験上の、肉体をもった女は決して「彼女She」ではない、ということを意味しない。すなわち彼女は到達できない「女」の理想に従って生きることができないということを意味しない(経験上の、「真の」父は、彼の象徴的機能、彼の「名」に生きることができないという様ではない)。どんな経験上の女も〈女〉から永遠に分離されているというギャップは、空の象徴的機能とその経験上の担い手とのあいだのギャップと同じではないのだ。
女の問題とは、逆に、女の空の理想――象徴的機能――を形作ることができないことにあるので、これがラカンが「女は存在しない」と主張したときの意図である。この不可能の「女」は、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊fantasmatic specterであり、それは S1ではなく対象 aである。「女は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の「享楽の父」である(神話的な前エディプスの。集団内のすべての女を独占した父)。だから彼の地位は〈女〉のそれと相関的なのである。(同 LESS THAN NOTHING)
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「去勢と割礼」という表題にしておきながら、話が別のところに行ってしまったので、ここで「割礼」に焦点を絞って、いくつかの資料・画像を掲げる。
Afterall, Lacan claims that we can not doubt the elegant result of circumcision. Aesthetically speaking, for Lacan, it is not even a question: the circumcised penis is more enjoyable to look at.(NOTES – LACAN’S SEMINAR ON ANXIETY (X): 19 DECEMBER 1962)
ラカンが言うように、割礼は見た目はよくなるかもしれないが、またしばしば指摘されるように、少年期にやっておけば清潔になるということもあるにはあるだろうが、亀頭の感度は低下するのではないか、ーーと思いすこし探ってみたら、「Circumcision DOES reduce sexual pleasure by making manhood less sensitive」という記事がある。とはいえ逆に早漏症状は減るということだろう。さらに割礼するとペニスのサイズが小さくなるなどという記事もある(Harm and physical effects of circumcision)。
他方、日本の若い女性の方の書かれた《包皮の中におさまって保護されている状態ですと、亀頭がのびのびと成長しにくい?!》などという文章にも当ったが、リンクはやめておこう。
いずれにせよ、一般に、男たちはペニスのサイズ、亀頭の形などをひどく気にするということはいえるのではないか。そして「割礼」とは、どうもわたくしの浅墓な印象では、おちんちんがちょん切られるというよりも、ペニス能力の強化という「錯覚」をもたらす。
あるいは、割礼は、ユダヤ人共同体における、「たったひとつの特徴」"unary trait" (einziger Zug)(フロイト)として機能しているのではないか、などと思いを馳せもするのだが、その議論はここではしないでおく(参照:享楽とシニフィアン(ジュパンチッチ=ラカン))。
他方、日本の若い女性の方の書かれた《包皮の中におさまって保護されている状態ですと、亀頭がのびのびと成長しにくい?!》などという文章にも当ったが、リンクはやめておこう。
いずれにせよ、一般に、男たちはペニスのサイズ、亀頭の形などをひどく気にするということはいえるのではないか。そして「割礼」とは、どうもわたくしの浅墓な印象では、おちんちんがちょん切られるというよりも、ペニス能力の強化という「錯覚」をもたらす。
あるいは、割礼は、ユダヤ人共同体における、「たったひとつの特徴」"unary trait" (einziger Zug)(フロイト)として機能しているのではないか、などと思いを馳せもするのだが、その議論はここではしないでおく(参照:享楽とシニフィアン(ジュパンチッチ=ラカン))。
構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL 私訳)
《人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの別離を意味し、母の去勢(子供すなわち陰茎の等式により)に比較できるかもしれない。〉(フロイト『制止、症状、不安』)であるなら、次のようなペニスを持ち合わせていても、赤子の大きさには及びもつかない。
自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。……
(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア『性のペルソナ』)
(草間彌生) |
女性による支配が続いた時代には、女性は、自分たちが特有の魔法の力を持っていることに満足し、必要なときにはいつでも借りられる男性の小さな道具を羨んだりしなかった。実際、太母神は男根に不自由することなく……男根はいつでも手許にあった。それは女神の聖所の目立つところに置かれ、特別の神あるいは人間の男根ではなく、単に男根そのもの、都合のよいときにいつでも使える没個性化された道具であった。一度使うと、それは役立たなくなった。太母神にとっては、今日の彼女の末裔の、ある者たちにとっても同様だが、ペニスは消耗品であって、いつでも次のものが手に入り、おそらく新しいものは前のより、よりよいように思われる。新しいものは、もちろん若い。そしてみずからが消費され、若い男に(女神に対する性的奉仕と全般的奉仕の両方において)代えられる運命にあるという恐れが、中年の男性にとって、ときには深刻な不安感の原因となりうるのである。(Wolfgang Wolfgang,The Fear of Women 1968)
(同 草間) |
ーーでなんの話であったか、「割礼」だな。
In the Xhosa Language, aba means a group, while kwetha meats to learn, hence the word “Abakwetha”, meaning a group learning. What are they learning? To become men through circumcision. Five youths at a time are circumcised, ages 17 to 20 years The group of five live together in a specially constructed hut (sutu), which becomes their home for three months while they undergo the transformation from youth to manhood.
他方、『新イスラム事典』(2002・平凡社)によれば、ユダヤ教では生後8日目、イスラム教では生後7日目から12歳までの男児がそれぞれ割礼を受けるそうだ。
Gourd(calabashカラバッシュ)を装着するとあるが、これは熱帯アフリカの瓢箪の樹の実だとのこと。
一般に、コテカ(ペニスケース)も《瓢箪の果実(細長い形に育つ品種のもの)を原料とし、中身をくり抜き乾燥させて作られた筒状の容器であり、じかに陰茎に被せ、付属する紐で陰嚢および腰に固定させて装着する》(ウィキペディア)とある。