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2015年5月6日水曜日

簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」(ラカン)

◆前期ラカン

私が父の名と呼ぶもの、すなわち象徴的な父とはまさにこれです。それはシニフィアンの水準にある一つの項であり、法の座としての大文字の他者において、大文字の他者を代表象している項です。 それは法を支え、 法を公布するシニフィアンです。それは大文字の他者における大文字の他者なのです。(セミネールⅤ)

《セミネール6までは、ラカンはシニフィアンに秩序に焦点を絞っていて、殆ど欲動、享楽は無視。この時期のラカンは楽観的に症状は解釈を通して消滅すると考えていた。…この時期は大他者は存在すると信じていた(おバカな)ラカンである。》意訳 (Sexuation 2– The Logic of Jouissance

ーー「意訳」としたように、「おバカな」などとはLevi R. Bryantは決して書いていない。殆どそう言いかかっていると、わたくしが邪推しただけである。原文は次ぎの通り。

Up through Seminar 6, Lacan focused primarily on the order of the signifier, ignoring almost entirely the order of drive or jouissance. During this period, Lacan optimistically argued that the symptom could be entirely resolved through analytic interpretation……This is the period where Lacan believes that the big Other exists.

《初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち〈他者〉の〈他者〉は存在しない、と。》((Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq) 後ほどもう少し長く引用する)

とはいえ、フロイトの洞察に反して、初期の《ラカンは楽観的に症状は解釈を通して消滅すると考えていた》ということになる。

フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』:人文書院旧訳より抜き出している:引用者)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq

たとえば、フロイトは『終りある分析と終りなき分析』1937にてーーラカンが後年フロイトの遺書と呼んだのだがーーこの症状の地階(享楽の現実界)は治癒不可能としている。


◆中期ラカン

もし大文字の他者において真理と呼ばれるものの一貫性が、いかなる方法でも保証されえずにどこにもないなら、それはどこにあるのでしょうか。あるとすれば、小文字の他者[対象a]のこの機能がそれを請け合うのです。(セミネールⅩⅥ)

ここで、〈他者〉の〈他者〉は存在しないについての標準的解釈を示す(すなわち異なった見解もあることに注意)。

〈他者〉の〈他者〉は存在しないとは、
=大他者[A]の大他者[Φ=象徴的ファルス]は存在しない。
≒大他者〔S2〕の大他者〔S1〕は存在しない。
=シニフィアンの連鎖〔S2〕の支えである〈父の名〉〔S1〕は存在しない。

――では、なにが存在するのか、〈父の名〉には見せかけとしての〈対象a〉が入る。

分析の終わりとは、知を想定された主体が失墜することと、この主体がこの対象aの出現へと還元されることにあるのです。・・・知を想定された主体、すなわち分析家の見地からすれば、精神分析主体とともに幻想的にその部分を演じている者とは、分析家であり、彼は分析の終わりで、もはやこの残余[対象a]以外の何ものでもないものであることを耐えるに至るのです。(セミネールⅩⅤ)

対象aの最も簡潔な定義は、対象に〈わたし〉が書き込まれているということである。一般に、対象aは、欲望の対象-原因とされるが、対象aは、けっして欲望の対象ではない。むしろ原因である。欲望かつ欲望の対象は、その原因の「効果」である。

中期ラカンの態度を取るなら、大事なのは、分析家は、最後に屑としての対象aとなることである。あなたが魅惑されていたのは、ただあなたが書き込まれていただけだよ、と。

ラカン派ではないが中井久夫の次の言明は、精神科医として、最後に屑になることを語っているとしてよいのではないか。

精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』P198)

ーーたとえば芸術作品への過度の愛着も、いつか屑になるときがある。わたしが書き込まれていただけなのだ、と気づくときがある。ここで、いささか「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」の話から逸脱するが、ジジェクによる対象aの最も分かりやすい説明のひとつを掲げておこう。わたくしのある芸術作品へのひどい愛着は、わたくしの青春が書き込まれているだけだったということに数年前気づくようになった文である。

舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせて郷愁に浸っている。町に伝わる伝説―――たいていは彼らの若い頃の冒険談―――はどういわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係がある。その不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいていけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて浸入する者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼らが初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。

物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探索してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、一つ一つの部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっているだけで、他には何もなかった。彼はすぐ居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの一人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。

どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのであろうか。現実と幻想空間という「もうひとつの光景」との差異に注目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。闖入者たちは、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。

(ラカン):幻想とは不可能な視線のことである。幻想の「対象」は、幻想の光景そのもの、つまりその内容ではなく、それを目撃している不可能な視線である。(ジジェク『斜めから見る』

※ここでもまた、話が前後するが、途中、「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」の説明をしたときに、”=”ではなく”≒”とした。

=大他者[A]の大他者[Φ=象徴的ファルス]は存在しない
大他者〔S2〕の大他者〔S1〕は存在しない

なぜそうしたかは「「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」」に記した。

…………

ジジェクの「ひねた=斜めから見る」見解はたまには慎もうと思ったが、やはりさわりだけでも引用しておこう(LESS THAN NOTHING 2012より)。わずか一言がときに新しい地平を開くのだから。

・〈他者〉の〈他者〉はいない、すなわち言語の循環的な(自己言及的な)戯れを除いて、真実の究極的な支柱はない、と主張したとき、ラカン自身、事実上はソフィストだったという意味だろうか?

・〈大他者〉の最初の形象は母なのだから、「〈他者〉はいない」ということの最初の意味は母は去勢されているということである。

たとえば、モニカ・ルインスキー(Monica Lewinsky)にとっても〈他者〉Φはいないことーークリントンが去勢されていないーーが分かってしまった、ということになる。




クリントンは政治権力上ではファルスを持っていた。だが…モニカは彼が去勢された主体であることが分かってしまった…私の友曰く、フロイトの「葉巻はただの葉巻だ」よ、と。…モニカが見出しのは、クリントンはファルスを持っているが、所有していないことだ。(Levi R. Bryant, Sexuation 1– The Logic of the Signifier


◆後期ラカン

さて後期ラカンは、どうなるのか。

ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)

《父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ》(Thomas Svolos“ Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant”)という見解が中期から後期ラカンへの決定的な見解(ミレール派における)なのだろう。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

※参照:
1、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない
2、「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって
3、《症状のない主体はない》(ラカン)


…………

※附記

初期のラカンにおいて、すべての強調は、父の名の隠喩に置かれた。その機能は、主体を母の欲望から解放すること等々だった。現代ラカン派に於けるこの理論的モティーフの継続的な流行は、ラカンの決断と鋭く相反する。その決断とは、ラカンはその理論的モティーフを捨て去っただけではなく、反対の考え方に置き換えさえしたのだ。すなわち〈他者〉の〈他者〉は存在しない、と。

父を信じることは、典型的な神経症の症状である。それはボロメオ構造の四番目の輪である。ラカンはそこから離れた。そして三つの輪を一緒にするために機能する新しいシニフィアンを探し求め始めた。この文脈において、重要なのは父とその機能を区別することである。すなわち、母と子の分離にかかわる機能、子どもが〈他者〉の享楽から解放されることを伴う機能である。もしこの分離が、二番目の〈他者〉である父への疎外に終わってしまったなら、それは構造的には、以前の疎外(母との同一化)と何の変わりもない。

ラカンの意図は、その点を超えて行くことだった。故に彼は分離の機能とその象徴的特徴ーー作用する要素はシニフィアンだという意味であるーーに焦点を絞った。フロイトの時代においては、このシニフィアンは実際の父と繋がっていた。しかしそれは歴史的な偶然contingencyである。まさに同じ機能が、氏族構造内でトーテムの名付けを通して設置され得た。そこでは、分離は名付けを通して獲得され、加えて最初の外部から決定付られたアイデンティティーー母の集団の一員ーーはまた二番目の、外部から決定付られたアイデンティティーー兄弟と叔父の集団の一員ーーによって代替される。どちらの場合も、名付けの過程が中心的なものであり、まさにこの過程をラカンはその後期理論で特権化した。とはいえ、どちらの場合も主体はこの名付けとそれが表すものーー〈他者〉によって決定付られたものーーを信じなければならないという事実は残る。

言い換えれば、ラカンはフロイトが扱ったまさに同じ問題から逃れていない。それは同じ文脈とさえ言いうる。すなわち、シニフィアンの分離機能は、人がそれを信じる条件においてのみ作動する。こういうわけですべての物事は想像界の領域に残ったままだ。そして人は陥らなくてはならない、“Credo quia absurdum” 「不合理なるがゆえに信ず」に。フロイトがこのテルトゥリアヌスの表現を引用したのは、まさに父の権威はなぜそしてどこにあるのかと問うたときだった。すなわちその恣意の特徴を。この袋小路はかぎりなく重要である。というのはラカンの分析は、分析家に父のポジションから離れることを要求したのだから。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 2002)

くり返して念をおしておくが、ラカン派内には、異なった見解ーー或いはより穿った観点ーーもある。それが表題の「簡略版」の意味である。ジジェクなどは、ヘーゲルの否定の否定を持ち出して、〈他者〉の〈他者〉は存在しないを説明しているが、それはここでは触れ得ていない。

いずれにせよ、〈大他者〉S1を信じることは、神経症の症状であり、そこから分離しなければならないが、他方、S1を信じなければ(同一化しなければ)学べない。《主体は充分な量の支えを与えてくれるシニフィアンとそれに伴なった疎外と知が必要である。その後ようやく、主体は支えの欠如のポイントを受け容れる(参照:レイシズムと享楽(Levi R. Bryant+ZIZEK))。

たとえば偉大な思想家を学ぶときも、いつかは、モニカのように、主体は支えの欠如のポイント(クリントンの去勢)を受け容れなければ、悪性のナショナリズムと同じ状態のままでいてしまうことになる。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)