エティエンヌ・バリバールについて少し調べているなかでーー彼は、「メタレイシズム」概念や、「エスの悪 id Evil」概念など、マルクス主義者として注目すべき概念の創出した政治哲学者だ(後述)ーー太田悠介という方の「「大衆の恐怖」の擁護のために一一エティエンヌ・バリバールの政治哲学におけるスピノザの契機」という論文を読んだ(ネット上pdf)ので、そこからのメモ。
いやその前に、ウィキぺディアからまず基本的な紹介文を掲げよう。
いやその前に、ウィキぺディアからまず基本的な紹介文を掲げよう。
ルイ・アルチュセールの教え子。女優ジャンヌ・バリバールは娘で、彼女の元夫は俳優のマチュー・アマルリック。
太田悠介氏の論文に記載されているバリバール紹介の文には、《バリバールは、1981年にフランス共産党の反植民地主義の形骸化を告発した論文を直接のきっかけとして、党を除名処分となった》とある。
あるいは、
ともある。だがここではスピノザに触れず、この好論文の冒頭近くにある次の文を抜き出しておくだけにする。
《民主制が原理的には「永続革命的」であるほかない》、あるいは《すぐ背後から迫ってくる制度化の危険を回避すべく、絶えず前方に逃避してゆくとという実際の運動のうちに、民主制に残された突破口をみてとる》とある。これはどこかで聴いた言葉の変奏であるような気がしないだろうか。
バリバールは(……)民主制概念の思想的な源泉のひとつを、ユダヤ人共同体を異端の廉で、追われたのち、レンズ磨き職人として生計を立てた17世紀オランダの市井の哲学者、バルフ・スピノザのうちに見出す。スピノザもまたパリバールと同様に、民衆の声の根本的な不確実性を知りながらも、倦むことなくその声に耳を傾け続けた思想家であった。(……)この努力こそがスピノザの強みであり、またスピノザを非常に困難な状況に追い込む原因となるだろう。
ともある。だがここではスピノザに触れず、この好論文の冒頭近くにある次の文を抜き出しておくだけにする。
民主制に関する一切の先入観を抜きにして、次のような素朴な疑問から民主制を考えてみると、一体どうなるのだろうか。すなわち、民主制の原則にまったく忠実であるような、民衆〔デモス〕の声と完全に一致する民主制〔デモクラシー〕を構想するのは可能だろうか、という問いである。
この観点がそのまったくの素朴さにもかかわらず、依然として有効なのは、それが民衆の意志から乖離したあらゆる既存の制度の批判に際して、最も基本的な根拠を与えてくれるからである。たとえば、「構成的権力」の概念が、その理論的妥当性をめぐる専門的な議論とは別の次元で、それなりの説得力を持つ理由のひとつは、この概念が上記の素朴な疑問に一定程度の答えを提供しているからであろう。つまり、民衆の手によってひとたび具体的な形をえた権力は、まさしくその構成されたという完了時において、その瞬間に民衆の手にはもはやないのだからそれはただちに民衆の構成する力によって再度問い直されるべきだ、という原則的な答えを、である。
しかし、制度化されたあらゆる民主制を批判し、より根源的な民主制を擁護しようとする立場を極限までおしすすめると、民主制の定義自体が非常に困難となるのは間違いない。というのもその際には、たとえば選挙システムによって断続的に届けられる民衆の声だけでは、正統性の確保のためには不十分とされるからである。合法性の枠内に収まらない法を侵犯する手段によって示される民衆の声が、そこでは当然ながら射程に入ってこざるをえない。こうした仕方で民衆の意志をもらさず汲み取ろうとするならば、民主制は民衆の声が制度やシステムに結実するや否やそれが問い直されるとされるという、絶えざる更新作業のうちにしか存在しないことになる。言い換えれば、民主制は制度化に失敗し続けることで初めて成功するという、制度ならざる制度なのである。これこそが、民主制が原理的には「永続革命的」であるほかない所以である(…Bensaid[2009])。
エティエンヌ・バリバール(EtienneBalibar)もまた、諸制度の恒常的な聞い直しを求める動きのうちに、民主制の本来の姿を見出す思想家の一人である。パリバールによれば、国家であれ、ヨーロッパのような地域共同体であれ、あらゆる政治体は構成されるやいなや、直ちにそこに所属を許されなかった者による市民権の要求にさらされるのでありその政治の境界線の再定義が必要となる。それゆえに、パリバールにとっての民主制とは、諸制度を作り上げながら、同時にその諸制度の正統性が民衆による絶えざる問い直しを経ることによってしか調達できないという、原理的な困難を抱えた特殊な政治形態として定義されよう。パリバールはこの原理的な困難に対する根本的な解決策は存在しないと考えており、したがってこの困難を恒常的な諸制度の問い直しによって暫定的に解決しながら、すぐ背後から迫ってくる制度化の危険を回避すべく、絶えず前方に逃避してゆくとという実際の運動のうちに、民主制に残された突破口をみてとるのである(Balibar[1997])。
《民主制が原理的には「永続革命的」であるほかない》、あるいは《すぐ背後から迫ってくる制度化の危険を回避すべく、絶えず前方に逃避してゆくとという実際の運動のうちに、民主制に残された突破口をみてとる》とある。これはどこかで聴いた言葉の変奏であるような気がしないだろうか。
共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれに向けて形成されるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を揚棄する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生じる。(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)
現代的理論の仕事は二重化される。一方で、マルクス主義者の「 政治経済学批判」を反復すること、但しその固有の標準としての「コミュニズム」というユートピア主義者のイデオロギー的概念なしで、である。他方で、資本主義者の地平から真に脱出することを想像すること、但し均衡のとれた(自己)拘束された社会ーー大抵の現代環境保護論がその誘惑に負けている前-デカルト的傾向ーーの前近代的概念に回帰する罠に陥らないで、である。(ジジェク、LESS THAN NOTHINGーー「ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち」)
…………
さて、ここからは、Étienne Balibarのことをすこし調べてみようという気になった二つの文章を掲げる。
◆「エスの悪Id-Evil」
エティエンヌ・バリバールは、現在の生の特徴として、過剰で非-機能的な残酷さの概念を提案する。残酷さ、その範囲は、「原理主義者」のレイシストと/或いは宗教的殺戮者から、我々の大都会にて青少年やホームレスによる暴力の「無感覚の」暴発までに及ぶが、そこでの暴力は、「エスの悪Id-Evil」と呼ばれる(フロイトのId (das Es, le Ça)に言及しつつ)。すなわち何の功利的あるいはイデオロギー的な理由もなしで行なわれる暴力である。
外国人についての、我々から仕事を盗むやら我々の西洋的価値観への脅威やらの全ての話に騙されるべきではない。より綿密に吟味してみれば、すぐに明らかになるのは、この話は、むしろ上っ面の二次的な合理化に過ぎないということだ。
スキンヘッドから究極的に得られる答えとは、外国人を殴ることは、彼らを気持ちよくさせるということであり、外国人の現前はスキンヘッドを苛々させるということだ。我々がここで遭遇するのは、実に「エスの悪Id-Evil」である。自我と享楽のあいだにある関係性における最も基本的な不均衡によって構造化され動機付けられた悪である。
「エスの悪」とは、このように、原初的に喪われた欲望の対象-原因への主体の関係性において、最も基本的な「短絡」を上演するのだ。「他者」(ユダヤ人、日本人、アフリカ人、トルコ人)の中にあって我々を「悩ます」ことは、この「他者」が対象への特権的な関係性を享楽しているように見えることだ。その「他者」は、対象-宝物を所有していたり、我々から掠め取ったり(それが、我々が所有していない理由である)、或いは、対象の我々の所有を脅かそうとするように見えてしまうのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING 2012 私訳)
◆「メタ・レイシズム」
ーー「スラヴォイ・ジジェクとの対話1993」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)所収より
ジジェク)……もちろん、一九九二年に旧東独のロストクで起こったネオ・ナチによる難民収容施設の焼き討ちのような事件そのものは、昔から何度も繰り返されてきた野蛮な暴力行為にすぎない。しかし、問題はそれが一般大衆にどう受けとめられるかです。カントは、フランス革命の世界史的意味は、パリの路上での血なまぐさい暴力行為にではなく、それが全ヨーロッパの啓蒙された公衆の内に引き起こした自由の熱狂にあるのだと言っている。それと同じように、今回も、それ自体としてはおぞましいネオ・ナチの暴力行為が、ドイツのサイレント・マジョリティの承認とは言わぬまでも暗黙の「理解」を得たことが問題なのです。実際、社会民主党の幹部の中でさえ、こうした事件を口実にドイツのリベラルな難民受け入れ政策の再検討を提唱する人たちが出てきている。こういう時代の空気の変化の中にこそ、「外国人」を国民的アイデンティティへの脅威とみなすイデオロギーがヘゲモニーをとる危険を見て取るべきだと思うのです。
厄介なのは、こうして広がりはじめた新しいレイシズムが、リベラルな外見、むしろレイシズムに反対するかのような外見を取り得るということです。この点で有効なのがエチエンヌ・バリバールの「メタ・レイシズム」(メタ人種差別)という概念だと思うのですが、どうでしょうか。
浅田)……伝統的なレイシズムは、自民族を上位に置き、ユダヤ人ならユダヤ人を下位の存在として排除する。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学は、どの民族の文化も固有の意味をもった構造であり、そのかぎりで等価である、という立場から、そのような自民族中心主義、とりわけヨーロッパ中心主義を批判した。
そのレヴィ=ストロースが、最近では、さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、さまざまな文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべきだと、しきりに強調する。つまるところは、フランスはフランス、日本は日本の伝統文化を大切にしよう、というわけです。
もちろん、人類学者がエキゾティックな文化の保存を訴えるのは、博物学者が珍しい種の保存を訴えるのと同じことで、それらがなくなればかれらは失業してしまいますからね(笑)。
しかも、こういう見方からすると、文化的な差異を一元化しようとする試みは「自然」な反発を引き起こし、人種的・民族的な紛争を引き起こしかねないということになる。つまり、すべての人間の同等性を強調する抽象的な反レイシズムは、実はレイシズムを煽り立てるばかりなのであり、レイシズムを避けたかったら、そういう抽象的な反レイシズムを避けなければならない、というわけです。
これが、レイシズムと抽象的な反レイシズムの対立を超えた真の反レイシズムであると称するメタ・レイシズムですね。
ジジェク)そう、このメタ・レイシズムこそ、移民が中心的問題となるポスト植民地時代固有の、いわばポストモダンなレイシズムだと言えるでしょう。
メタ・レイシストはたとえばロストク事件にどう反応するか。もちろんかれらはまずネオ・ナチの暴力への反発を表明する。しかし、それにすぐ付け加えて、このような事件は、それ自体としては嘆かわしいものであるにせよ、それを生み出した文脈において理解されるべきものだと言う。それは、個人の生活に意味を与える民族共同体への帰属感が今日の世界において失われてしまったという真の問題の、倒錯した表現にすぎない、というわけです。
つまるところ、本当に悪いのは、「多文化主義」の名のもとに民族を混ぜ合わせ、それによって民族共同体の「自然」な自己防衛機構を発動させてしまう、コスモポリタンな普遍主義者だということになるのです。こうして、アパルヘイト(人種隔離政策)が、究極の反レイシズムとして、人種間の緊張と紛争を防止する努力として、正当化されるのです。
ここに、「メタ言語は存在しない」というラカンのテーゼの応用例を見て取ることができます。メタ・レイシズムのレイシズムに対する距離は空無であり、メタ・レイシズムとは単純かつ純粋なレイシズムなのです。それは、反レイシズムを装い、レイシズム政策をレイシズムと戦う手段と称して擁護する点において、いっそう危険なものと言えるでしょう。
先に私は旧ユーゴスラヴィアの紛争に対する欧米の一見中立的な態度を批判し、性急にどちらかの側につく前にこの地域に古くから根ざした人種的・民族的・宗教的差異を深く理解しなければならないといった、傍観者のような民俗学的中立性こそが、紛争の永続化と拡大の条件になっていると指摘しましたが、その背後にも同じ論理があります。それが、旧ユーゴスラヴィアに関しては外的に、ドイツの難民問題に関しては内的に現れているのです。
浅田)一見リベラルな多元主義がその反対の結果を生み出してしまうとしたら、皮肉と言うほかありませんね。それは、言い換えれば、「歴史以後」の平衡状態に達したはずの自由主義のシステムが、その内部から新たな変動要因を生み出してしまうということでもあるでしょう。……(『SAPIO』1993.3 初出)