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2015年9月7日月曜日

風をみながら絶えず舵を切るほかはない民

@kawakami_yasu: イスタンブールでシリアやイラクからきた難民に取材した時「日本は受け入れないのか」と聞かれて、「日本は受け入れない」と答えるしかなく、「なぜだ」と突っ込まれても、全く答えることができません。結局、日本は何もしれくれない、と思われるわけです。本当に、これでいいのか考えるべきでしょう。(川上泰徳 元朝日新聞編集委員)
@shichirom: 日本の10人以下というのは実際は3人だそうです。カナダの2300人、アメリカ1046人とは3桁違います。これが先進国として恥でなくてなんでしょう?安部政権の積極的平和主義も五輪のおもてなしも、うわべだけの建前だと世界にはバレてます。 https://t.co/lLB7fTaYsx



「私たちは、国連が創設されて以来、最も人道支援を必要とする歴史的瞬間に生きています。」(ステファン・デュジャリック国連報道官 2015.08.19)
シリア難民は過去 30 年で世界最悪の難民危機に発展した。…紛争などで家を追われた人の数が第二次世界大戦以降初めて 5,000 万人を超えた。その 5 人に 1 人がシリア人だ。 (アムネステ ィ ・ インターナシ ョ ナル報告書2014.12)
グテレス難民高等弁務官は「これほど恐ろしいペースで難民が出るのは(100万人近くが犠牲になった1994年の)ルワンダ大虐殺以来」と指摘した。(The Huffington Post  2013年07月18日

シリア難民400万人の受け入れ先

@Mydxb: なんかシリア難民について物凄い誤解があるらしいのだけれど。例えば欧州陸地深いハンガリーまで行き着ける様な人々は比較的経済的にも教育、技術レベルでも余裕のある人達なんですよね。なぜかと言うとそこまで行き着けるだけの高額の代金を払う事ができた人々なんですから。

…………

オメデトウ、日本! 世界に冠たるおもてなしの国、ホスピタリティ(歓待)の国の民よ!

世界市民の法=権利は普遍的な歓待(Hospitalität)の諸条件に制限されなければならない。 (……)だが、外国人が要求できるのは、客人の権利 (この権利を要求するには、かれを一定の期間家族の一員として扱うという、行為ある特別な契約が必要となろう)ではなくて、訪問の権利であるが、この権利は、地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利である。 (カント『永遠平和のために』)
彼〔異邦人/訪問者〕は滞在権を認められるのではなく、訪問権だけを認められるのです。カントはこの点で数々の截然たる区別を行っています。私はこれを 「条件つきの歓待」 と呼んで、 「無条件の」 歓待あるいは 「純粋な」歓待と呼ぶものに対置したいのです。これは条件なしの歓待であり、たとえ新来者が市民でなくとも、それが誰であるかを同定しようとは求めないものです。 (デリダ、 「ジャック・デリダとの対話―歓待、正義、責任」 『批評空間』第Ⅱ期 23 号)

オメデトウ、日本! 世界に冠たる訪問者だけへの「おもてなし」、条件つきの歓待の国の民よ!

真の歓待とは、ちょっとした長所を讃美することでも、欠陥をうやむやに見逃すことでもないだろう。まぎれもない差異としての他者の不気味さに、存在のあらゆる側面で馴れ親しむことこそが、歓待の掟であるはずだ。(蓮實重彦『反=日本語論』)

オメデトウ、日本! ちょっとした長所を讃美し、欠陥をうやむやに見逃す技に巧み世界一の歓待の民よ!

この自堕落な寛大さこそが、真の言葉の障害と呼ばれるものにほかならないからだ。そのため、コミュニケーションの道はいたるところで絶たれ新たな鎖国が始まっている。そして、二十一世紀を間近に準備しつつある時期のこの鎖国状態は、その鎖が人目に触れないだけにいっそう開国を困難なものにしてゆく。すべては、起源に身を潜める滑稽さを明確に標定し、しかる後に共有しつつある何ものかをたがいに辛抱強くさぐりあてながら、滑稽それ自体にゆっくり時間をかけて馴れてゆくという作業があらかじめ放棄されてしまっていう点から来ているのだ。……(同上)

ーーというわけで、デリダの『歓待について』から引用しようと思ったが過激すぎる、蓮實重彦程度にしておこう。

オメデトウ! 世界の孤児、島国根性、自堕落な寛大さ、曖昧模糊とした春風駘蕩の国、自己欺瞞・自己充足、夜郎自大の民よ!

「大正的なもの」が検討に値するのは、( ……)それが1970 年以降の日本の言説空間と類似するからだ。つまり、ありとあらゆるものを外から導入しながら「外部」をもたない自己充足性、あるいは逆に、きわめてローカルであるのに世界的であると思いこむ誇大妄想的な島国性、さらに事実国際的に容赦なく進出していながらいささかの「侵略」の自意識もない自己欺瞞性、こういったものが典型的に示されるのは大正期だからである。(柄谷行人「一九七〇年=昭和四十五年」『終焉をめぐって』所収 p.26)

とはいえ「世界共和国における世界の警察官と世界の孤児」でも記したが、やむえないのさ。いくら騒ぎ立てても、一年先ぐらいにせいぜい数百人程度「世界への顔向けのために」受け入れるのが関の山だろう。

複数の海外メディアが、日本の難民受け入れ数が“世界最低”だと報じている。(「島国は言い訳にならない」海外から批判

美人で釣ってもだめかい?




ただし旦那つきだからな




日本とは島国根性だけでなく次ぎのような国さ、言い訳の仕方ををきみたちのためにもうひとつ示しておいてやるぜ

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出『精神科医がものを書くとき Ⅰ』所収 広英社)




メルケル首相は今年、80万人と予測される難民のうち半分は定住するとの見通しを述べた。ドイツが債務危機を乗り越え、脱原発を実現した実績をあげ、難民の受け入れを「成し遂げる」と決意を語った。(毎日新聞 2015年09月01日

ここで2010年の彼女の発言もあわせて貼りつけておこう(「ドイツはイスラム国家になるだろう」)。

「我々の国は変わり続けるでしょう。また、移民の問題解決を取り上げるにあたっては同化が課題です。」

「長い間我々は、それについて自国を欺いてきました。例えばモスクです。それは今までよりずっと、我々の都市において重要な存在となるでしょう。」

「フランスでは20歳以下の子供の30%がムスリムです。パリやマルセイユでは45%の割合まで急上昇しています。南フランスでは、教会よりモスクが多いのです。

イギリスの場合もそれほど事態は変わりません。現在、1000を超えるモスクがイギリスには存在します。──ほとんどが教会を改築したものです。

ベルギーでは新生児の50%がムスリムであり、イスラム人口は25%近くに上るといいます。同じような調査結果はオランダにも当てはまります。

それは住民の5人1人がムスリムのロシアにも言えることです。」




確かに、ヨーロッパは死んだ。しかし、どのヨー ロッパが死んだのか、と。これへの回答は、以下である。ポスト政治的なヨーロッパの世界市場への組み込み、国民投票で繰り返し拒絶されたヨーロッパ、ブリュッセルのテクノクラ ットの専門家が描くヨーロッパ──死んだのはそうしたヨーロッパなのだ。ギリシアの情熱と 腐敗に対して冷徹なヨーロッパ的理性を代表してみせるヨーロッパ、そうした哀れなギリシ アに「統計」数字を対置するヨーロッパが、死んだのだ。しかし、たとえユートピアに見えよ うとも、この空間は依然としてもう1つのヨーロッパに開かれている。もう1つのヨーロッパ、 それは、再政治化されたヨーロッパ、共有された解放プロジェクトにその根拠を据えるヨー ロッパ、古代ギリシアの民主制、フランス革命や10月革命を惹き起こしたヨーロッパである。(ジジェク、2010