プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。
ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。(小林秀雄「プラトンの「国家」」ーー民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である)
政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。(同上)
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《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》(ノーム・チョムスキーNoam Chomsky, “Necessary Illusions”)
《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(バディウ)
《民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する》(柄谷行人『終焉をめぐって』)
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◆Slavoj Zizek: In the Wake of Paris Attacks the Left Must Embrace Its Radical Western Roots Zizek responds to his critics on the refugee crisis.
日本は状況が異なるという人がいるかもしれない。いや日本はかねてよりひどく「民主主義」国であり(参照:異質なものを排除するムラ社会の土人)、メルケルのように「タテマエ」を言い続ける指導者さえもいない。
もちろんジジェクにもドイツの「タテマエ」を批判する言葉がある。以下は要約だが次の通り。
だがそれにもかかわらず日本ではことさら「タテマエ」が必要だということだ(参照:資料:憲法の本音と建て前)。そしてジジェクが何度も強調しているように、全く民主主義的ではない「メルケル」が必要なのだ。そうでなければ「世界の孤児」への下り坂をまっしぐらに進むに違いない(参照:世界共和国における世界の警察官と世界の孤児)。
とはいえ、もし現在の日本の特殊事情があるなら、2011年春以降、「エリートが信用できなくなった」ーー世界的にも似たようではあるとはいえ、日本ではことさらそうであるーーということだろう。
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※参考
さて、ジジェクは、NOVEMBER 16, 2015の記事にて、比較的穏やかにーー、一般公衆にもわかりやすいようにーー「民主主義」について問うている。
…しかし私はいっそう懐疑的悲観主義者だ。最近、Süddeutsche Zeitung、ドイツの最も読者の多い日刊紙の読者からの難民危機についての問いに答えたとき、とりわけ最も注意を引きつけられた問いは、まさに民主主義にかかわるものだった。しかしそれは右翼のポピュリストのひねりがある。すなわち、アンゲラ・メルケル首相が、名高い公的なアピール、何十万もの難民をドイツに来るように公表したとき、彼女の民主主義的合法性 democratic legitimization はどうなのだろう? というものだ。
なにがメルケルにあんな権威を授けるのだろう、民主主義的協議もなく、ドイツの生活にラディカルな変化をもたらす権威を? ここでの私の焦点は、もちろん、移民排斥ポピュリストを支持することではない。そうではなく、民主主義的合法性の限界を指摘することだ。
同じことが国境のラディカルな開放を提唱する者たちについても言える。彼らは気づいているのか、我々のデモクラシーは国民国家のデモクラシーなのだから、彼らの要求は、デモクラシーの中断 suspension ではないか? 事実上、国民の民主主義的協議のないままに、国の現状 status quo に途轍もない変貌を課すのだから、と(彼らの応答はもちろんこうだろう、すなわち難民も投票権を与えられるべきだ、と。だがこれでははっきりいって十分ではない。この手段は、難民が国の政治システムに統合された後はじめて起こりうるのだから)。
同様の問題はEUの決定の透明性の要求においても生じる。私が怖れることは、多くの国の大衆のマジョリティは、ギリシャの債務削減に反対なのだから、EUの交渉を公開することは、これらの国の代表にギリシャに対していっそうタフな主張をさせることになるのではないかというものだ。
我々はここで古くからある問題に直面している。すなわち、デモクラシーに何が起こるだろう、マジョリティがレイシストとセクシストの法に賛成して投票する傾向にある時に?
私はこう結論することを怖れない。解放政策は、「ア・プリオリには」合法性の形式的-民主主義的な手順に縛りつけられるべきではない、と。そうではない、人びとはあまりにもしばしば彼らが何を欲しているのか知らない。あるいは彼らが知っていることを欲しない。あるいはシンプルに間違った事を欲する。ここにはシンプルな近道はないのだ。
日本は状況が異なるという人がいるかもしれない。いや日本はかねてよりひどく「民主主義」国であり(参照:異質なものを排除するムラ社会の土人)、メルケルのように「タテマエ」を言い続ける指導者さえもいない。
柄谷行人)人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。
浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。(「もっとも優美な露悪家」)
もちろんジジェクにもドイツの「タテマエ」を批判する言葉がある。以下は要約だが次の通り。
ドイツでは、難民の流入をプラスと考えようという論調が盛んだ。足りない労働力を補ってくれる。人口も増える。だからそれを歓迎しようという話だ。しかし、ドイツの産業界は、難民を最低賃金の規定から除外しようと画策している。新しい奴隷制度が形成されつつあるというジジェク氏の理屈は、ここにも当てはまる……(グローバリズムとは現代の「奴隷制度」である! 、川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」)
だがそれにもかかわらず日本ではことさら「タテマエ」が必要だということだ(参照:資料:憲法の本音と建て前)。そしてジジェクが何度も強調しているように、全く民主主義的ではない「メルケル」が必要なのだ。そうでなければ「世界の孤児」への下り坂をまっしぐらに進むに違いない(参照:世界共和国における世界の警察官と世界の孤児)。
メルケル首相はかつてない圧力にさらされている。だが、今回の危機に臨んで同首相は、指導者としての新たなスタイルを示すようになった。同首相はこれまで、世論をリードするのではなく世論に従っているだけだと非難されてきた。今や、彼女は良心の声を上げている。「緊急事態において(難民に)優しくしたことを謝罪し始めなければならないとしたら、そんな国は私の国ではない」と訴えた。(メルケル首相の歴史的決断に国内世論が変化、The Economist 2015年10月16日)
とはいえ、もし現在の日本の特殊事情があるなら、2011年春以降、「エリートが信用できなくなった」ーー世界的にも似たようではあるとはいえ、日本ではことさらそうであるーーということだろう。
いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
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※参考
・「見ずして信ずるものは幸いなり」。ジョージもエルナもエレーナも知らない、とってもお寒いやつら。いつかアイコク・ボウエイタイになるアホウども。大韓民国全羅南道高興郡金山面出身のキムイル(김일)氏のことも、かれのつらさも、パチキのすごさも知らない、あまったれのクソッタレ・ニッポンジンども。どこでだれにどういう教育をうけたのかね。おまえたちの、ほぼ官製・完全順法管理無害ハナクソデモ。ジンコウモタカズヘモヒラズのテレビ撮影用のパレード。中平卓馬も安田南も堀内義彦も天国であきれてるぞ。「ふざけるな、ぶんなぐってやる!」。あはは、中平さんはネコパンチだけどもね。オマワリとあらかじめウチアワセしたり、いちゃついたり。おまえら、まったく気色わるいぜ。反吐がでるぜ。まだましなのは、なにもおこなわない(しない、やらない、やらされない、やろうともしない、誘導もされない、すこしの移動もしない、そのようにそそのかされもしない、説得をうけつけない、とくだんの意思もなく、ただそこにあるだけ)で、にもかかわらず、ときに、なにかしずかにきわだっているようにもみえる、ひとつのものだ。それは、存在を、影ごとみずからの内側に、イソギンチャクのようにくぐもらせてゆく(みずからがみずからの内側に埋まってゆく)……それ以外ではまったくありえようもない、ひとつのなにかだ。じぶんをじょじょに内側にたぐりこみ、引きこんでいって、ついに消えてゆくじぶんだ。きのうはエベレストにのぼった。けふはダフネにいったけれど、エベレストにはのぼらなかった。さらばじゃ、クソッタレ!(辺見庸「日録」 2015/09/30)
猫飛ニャン助 @suga94491396
・国会前のSEALs等を「民主主義」として寿いでいた或るなんリベ小説家(島田雅彦の周辺)が、大阪W選の結果を「わからない」、大阪は事実上「愚民」と慨嘆していたが、それはちょっと前の国会前の「過激派」を(愚民として)排除していた心性と変わらず、自身が愚民とさらけだしているだけである。
・特に名は秘すが著名な保守派の方と電話で短い会話。パリのテロについて端的に「悪いのは民主主義と資本主義」と仰るのには、「全く同感です」と。この程度の当たり前のことを左右の誰も公然と言わぬことに、訝しい思いある。……(スガ秀実ツイート)