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2014年12月19日金曜日

民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

で、やはりエリートや専門家にまかせるべきなのだろうか。それとも国民投票やら「理想的な」直接選挙などでの判断を尊重すべきなのだろうか。たとえば「経済」の問題、――消費税やら所得税やらを上げなければならず、社会保障費を削減しなければならないという「専門家」の判断(彼ら曰く「理論的には」絶対的に正しい、たとえば本日(2014.12.19付で「消費税10%では財政再建の道筋はまったく見えない 本来は消費税率を30%近くにする必要がある野口悠紀雄 緊急連載・アベノミクス最後の博打」などという記事が上がっているがね)ーー、これは、国民投票で受け入れられるはずがないのではないか。ヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せておいたほうがよいのではないか。

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

たとえば「教育ある」理性的な公衆なら、明日の生活に不都合なことでも、--すなわち、消費税によって物価が上がったり、年金の手取りが下がったり等々ーー、やむ得ず「正しい」判断をするだろうか。将来世代(未来の他者)へ負担を先送りすることをやめるだろうか。

高級官僚たちにも、判断ミスや破廉恥な権力欲があるに決まっているのだからーー《どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな》(プラトン=小林秀雄)--、《「真理」は得体の知れない均衡によって実現される》という立場をとるべきなのだろうか。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

上に書いた将来世代(未来の他者)へ負担を先送りするというのは、簡単に言えば、《公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》(ジャック・アタリ)にかかわる。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

これに関しては、公衆の判断ではほとんど無理に決まってる、そしておそらく政治家の判断も同じく。

現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない。(ブキャナン&ワグナー著『赤字の民主主義 ケインズが遺したもの』)

環境問題程度なら、場合によっては「未来の他者」を慮るようなことがあるかもしれないが、肝心かなめの「金」に関わってくると、「公共的合意」などあり得るはずがないのではないか。《お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。》(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

「未来の他者」だと? すくなくともベルリンの壁崩壊をへて市場原理主義が猖獗する現在ーー資本の欲動の席巻の時代ーー、誰が「未来の他者」などを考慮するだろう? --《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス ツイッターbotより)

ノーム・チョムスキーは次ぎのように言っている、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky, Necessary Illusions”)


バディウは、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》と言っているそうだ(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

これらの言葉に触れたことがなくても、プラトン=ソクラテスが、大衆を「局所的な意見の混沌」のなかであがく一匹の巨大な獣 か迷える獣の群れとしているのは誰もが知っているだろう。

もっとも冒頭のジジェクの文は、大衆が、巨大な獣か迷える獣であって彼らの判断が信じられないにせよ、いまはエリートの判断さえ信じられなくなったことにあるという文脈のなかで書かれているものであり、それは2011年以来、この極東の島国ではことさら顕著なことだろう。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
トロツキーの議会制民主主義に対する批難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることではなく、むしろ、逆説的にいえば、大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ。(トロツキー『テロリズムと共産主義』」(同上)


ところで、きみたちには、《教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来な》いってことないのかい? たとえば選挙前に「日本人は民主主義を捨てたがっているのか? 」の類のことを叫ぶ連中だがね。こいつらの言う「民主主義」ってなんなのだろう? やっぱり「衆愚」政治のことかい? 「識者」として《大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれる》(ツキジデス『戦史』)ってヤツの実践かい?

チョムスキーを再掲しておくがね、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》と。

あるいは柄谷行人を引用してもいいけどさ、議会民主主義を疑ったことがないわけじゃないだろ? 直接投票にしなくちゃなんていうなよな、都知事や大阪府知事でどんな首長が選ばれているかシッテルだろ? まあせめて主張するなら「くじ引き」程度のことは言えよ。要するに、あいつらバカジャナイノ? との錯覚に閉じこもることが多いんだよな。


もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283ーー「バカジャナイノ?」)

実際、アテネでは「くじ引き」やってたらしいからな。

われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打破するところから生まれたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられてシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きである。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。(『トランスクリティーク』p283~)

まずは「議会民主主義=ブルジョワ独裁」を潰すことさ、そこから出発だぜ、真の「民主主義=大衆の支配」というものが仮にあるのなら、--とまでは言わないでおくけどさ。大衆の支配とは、ファシズムかもしれないからな、ワカンネエなあ、政治音痴のオレには。

《ファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》(カール・シュミット)

…議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。

この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)
一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)
浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)

さてようやくここで表題にその一部を掠め取った「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」(チャーチル)を引用することができる。じつはそれに続く《問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ》が肝腎なんだが。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62ーー民主主義の中の居心地悪さ


まあツイッターなどで《教育者面をしたり指導者面をしている》連中がバカにみえるのは、オレがバカなせいかもしれないがね。とはいえ、あの連中は、こうやって散々語られてきたことを外して、無知なのかなんだか知らないが、ナイーヴに「自分の考え」なるものを主張するんだな。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。

21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。(同 浅田)

でも國分くんはまだましなほうさ、ツイッターで「民主主義」なんたらしきりに寝言いってる「識者」のなかでは。

まあオレもえらそうなことはマッタク言えないんだ、そもそもネグリなんて一度も読んだことがないんだから。でもあれら《教育者面をしたり指導者面をしている》連中は、いくら政治音痴、経済音痴でもせめてジジェクやら柄谷行人やらは読んでいてよさそうなはずだがねえ。

というわけで、もうごたごた言わずに、小林秀雄=プラトンでも引用しておくだけにするよ。


◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より


「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。