2016年7月28日木曜日

快の獲得 Lustgewinn、剰余価値 Mehrwert、剰余享楽 plus-de-jouir

私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)

…………

《あなたは私自身の内部よりもなお内部だった。[tu autem eras interior intimo meo]》(アウグスティヌス『告白』3.6.11)

私は長い沈黙のうちに瞑想にふけりました。人間は愚かにも、みずからのもっとも高貴な部分をなおざりにして、さまざまなことに気を散らし、むなしい眺めにわれを忘れては、内部にこそ見いだせるはずのものを外にもとめているのだと(ペトラルカ「『自然と人間との再発見』)

《神は自己の外部に求められるべきではない。なぜなら、神はすでに「内部」のそこにいるから。神は、私が私自身である以上に私にとって永遠に親密なものである。私自身の「外部」にあるのは「私」なのである。内部の神が、探求を開始し・動機づけ・道案内をする。したがって、その場のなかに神は見出される。》(Denys Turner,The Darkness of God: Negativity in Christian Mysticism)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、 サントーム)

これらはーーわたくしの知る限りでのラカン派解釈においてはーー、すべて対象aにかかわる。

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「 extime (外密).」である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 e xに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー防衛と異物 Fremdkörper

…………

対象a という語は、ーーその内実が理解されないままーー用語そのものとしては、いささか流通しすぎて、陳腐化したり手垢がつきすぎている。(主に)「剰余享楽」としたらよいのではないだろうか(そうすれば、マルクスの剰余価値への依拠がおそらく少しは高まるだろう)。


◆ポール・ヴェルハーゲ.Enjoyment and Impossibility,2006より

享楽はシニフィアン組織への入口である。というのは、一つの徴 unary trait が刻印されて享楽の徴として反復されるからだ。反復の目標は、それ自体享楽であり(享楽の侵入としての刻印の反復)、かつまたこの享楽に反対するものである(一つの徴 unary trait とシニフィアンはつねに喪失を意味する)。それゆえ、どの反復も反復しよとする未満のものである。

この考え方は、セミネールXVIIを通して、異なった名のもとに現れる、「対象a(objet a)」 、「喪失(déperdition)」、「エントロピー(entropy)」、 「剰余享楽(plus-de-jouir)」 。しかしながら、シニフィアンもまた喪失の原因である。すなわち、主体と有機体としての身体のあいだの分割の原因である。それゆえ、享楽を獲得する手段としてのシニフィアンは、必然的に失敗しなければならない。そしてこの失敗において、原初の喪失がなおいっそう確認される。ここで、我々は二番目の曖昧な関係に遭遇する。知、それがいったんシニフィアンに導入されたものとしての知は、享楽への手段でもあり、かつ享楽の喪失の原因なのだ。ヴェルハーゲ、2006,ーー「二重に重なる享楽の喪失(Paul Verhaeghe)



◆ジジェク、2016(Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge)より

ヒッチコックは、トリュフォーとの会話で、『北北西に進路を取れ』に挿入したかった濃縮された場面を想い起こしている。この場面はけっして撮影されなかった。というのは疑いもなく、彼の作品の基本母胎をあまりにも直に示してしまうからだ。そんなことをしたら、実際の映像は下品な効果を生んでしまう。

《私は、ケリー・グラントと工場の労働者の一人とのあいだの長い対話をいれたかった。そう、フォード自動車工場でね。二人は組み立てラインを歩いているんだ。彼らの向こうには一台の車が少しづつ組み立てられていく。最後に、二人が見ている車は、シンプルにボルトをナットにねじ込んで完成する。さて、ガスとオイルを入れて、ラインから脱け出すすべての準備は完了だ。二人の男はたがいに見つめあい言うんだ、「すばらしいじゃないか!」と。そうして彼らは車のドアを開ける。すると死体が転げ落ちる。》

我々がこのロング・ショットのなかで見るものは、生産過程の基本的ユニットだ。そのとき、どこからともなく nowhere 生み出されて謎のように転げ落ちる死体は、剰余価値ーー生産過程を通して「無から our of nowhere」生み出される剰余価値ーーの完璧な代理物ではないだろうか? この死体は、最も純粋に剰余対象、主体に対する対象的 objectal 相対物、主体の活動の剰余産物である。この剰余には三つの形式がある。剰余価値、剰余享楽、そして(しばしば無視されている)剰余知識だ。これらは、ラカンが対象a と呼んだもの、欲望の対象-原因の外観のすべての形式である。

 以下に、フロイトの Lustgewinn という用語が出現するが、ラカン自身、Lustgewinnとは、plus-de-jouirのことだと言っている(セミネール21、後引用)。

対象a は、ラカンの教えにおいて、長い歴史がある。マルクスの『資本論』における商品分析への体系的依拠よりも10年以上先行している。しかし疑いもなく、このマルクスへの言及、とくに剰余価値 Mehrwert 概念への参照は、剰余享楽(plus-de-jouir, Mehrlust)としての対象a 概念を「成熟」させた。

ラカンによるマルクスの商品分析へのすべての参照に浸みわたる支配的モティーフは、マルクスの剰余価値とラカンが名付けた剰余享楽とのあいだの構造的相同性である。剰余享楽は、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだ現象であり、それは、快に単純に駆け上ることを意味しない。そうではなく、快を得ようとする主体の努力のなかで、まさに形式的迂回路によって提供される付加的な快である。

(……)リビドー経済において、反復強迫の倒錯行為に煩わされない「純粋な」快原理はない。倒錯行為とは、快原理の観点からは説明されえない。同様に、商品の交換の領野において、別の商品を買うために商品を貨幣に交換するという直接的な閉じられた循環はない。もっと多くの貨幣を得るために商品を売買する倒錯的論理によって蝕まれていないような循環はないのだ。この論理においては、貨幣はもはや単なる商品交換のための媒体ではなく、それ自体が目的となる。

唯一の現実は、もっと貨幣を得るために貨幣を使うという現実である。マルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの、すなわち別の商品を買うために或る商品(労働力商品も含む)を貨幣に換えるという閉じられた交換ーーその機能は、交換過程の「自然な」基礎を提供するーーは究極的に虚構である。(……)

ここにある基本のリビドー的メカニズムは、フロイトが 「快の獲得 Lustgewinn」と呼んだものである。この概念を巧みに説明している Samo Tomšič の『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』から引用しよう。

《Lustgewinn(快の獲得)は、快原理のホメオスタシス(恒常性)が単なる虚構であることの最初のしるしである。とはいえ、Lustgewinn は、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みえないことを示している。それはちょうど、どんな剰余価値も、C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に発生しないように。剰余享楽、利益追求と快との繋がりは、単純には快原理を掘り崩さない。それが示しているのは、ホメオスタシスは必要不可欠な虚構であることだ。ホメオスタシスは、無意識の生産物を構造化し支える。それはちょうど、世界観メカニズムの獲得が、全体の構築における罅のない閉じられた全体を提供することから構成されているように。Lustgewinn(快の獲得)は、フロイトの最初の概念的遭遇、--後に快原理の彼方、反復強迫に位置されるものとの遭遇である。そして、精神分析に M–C–Mʹ(貨幣– 商品–貨幣'[貨幣+剰余価値])と同等のものを導入した。》(Samo Tomšič,The Capitalist Unconscious,2014)

「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作用する。人は目的地を見失い、人は動作を繰り返す。何度も何度も試みる。本当の目標は、もはや目指された目的地ではなく、そこに到ろうとする試みの反復動作自体である。形式と内容の用語でもまた言いうる。「形式」は、欲望された内容に接近する様式を表す。すなわち、欲望された内容(対象)は、快を提供することを約束する一方で、剰余享楽は、目的地を追求することのまさに形式(手順)である。

口唇欲動がいかに機能するかの古典的事例がある。乳房を吸うという目的は、母乳によって満たされることである。リビドー的獲得は、吸啜の反復性動作によってもたらされ、したがってそれ自体が目的となる。

(……)Lustgewinn(快の獲得)の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快の断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は、抑圧の欲望へと反転、等々。すべての事例において、獲得は「パフォーマティヴな」レベルで発生する。すなわち、目的地に到達することではなく、目的地に向かっての動作の、まさにパフォーマンスによって生み出される。(ジジェク、 Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016)


フロイトの著作においては、おそらく1908年にはじめて Lustgewinn という語が現われるが、以下は最晩年の著作においての簡潔な叙述。

まずはじめに口 der Mund が,性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける.精神の活動はさしあたり,その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される.これは当然,第1に栄養による自己保存にやくだつ.しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない.早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている.これは――栄養摂取に由来し,それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである.ゆえにそれは‘性的 sexuell’と名づけることができるし,またそうすべきものである.(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」


◆ラカンによるフロイトのLustgewinnへの言及(セミネール21)

…un but utile, c'est : - ou ça qu'elles anstreben, qu'elles attirent - ou bien …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir,

à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».

Car qu'est-ce que ça veut dire un Lustgewinn ? Un gain de Lust. Si là l'ambiguïté de ce terme Lust en allemand, n'est-ce pas, ne permet pas d'introduire dans le Lustprinzip… traduit principe du plaisir …justement cette formidable divergence qu'il y a entre la notion du plaisir telle qu'elle est commentée par FREUD lui-même selon la traduction antique, seule issue de la sagesse épicurienne, ce qui voulait dire « jouir le moins possible ».