交換価値とは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは物という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。(マルクス『経済学批判』)
――コミュニケーションとは、人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、それは言語という外被におおわれた関係、ということをつけくわえる必要がある。
・貨幣とは、言語や法と同様に、純粋に「共同体」的な存在である。
・貨幣共同体とは、伝統的な慣習や情念的な一体感にもとづいているのでもなければ、目的合理的にむすばれた契約にもとづいているのでもない。貨幣共同体を貨幣共同体として成立させているのは、ただたんにひとびとが貨幣を貨幣として使っているという事実のみなのである。
・貨幣で商品を買うということは、じぶんの欲しいモノをいま手にもっている人間が貨幣共同体にとっての「異邦人」ではなかったということを、そのたびごとに実証する行為にほかならない。いささか大げさにいえば、それは貨幣を貨幣としてあらしめ、貨幣共同体を貨幣共同体として成立させた歴史の始原のあの「奇跡」を、日常的な時間軸のうえでくりかえすことなのである。(岩井克人『貨幣論』)
もちろん、岩井克人が「貨幣」が「共同体」的なものとしているとしても、次のマルクスの言葉と矛盾しているわけではない。
商品交換は、共同体の終わるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まるのだ。しかし物は、ひとたび共同体の対外生活において商品となれば、たちまち反作用的に共同体の対内生活でも商品となる。(マルクス『資本論』)
以下、「主体の生活の真のパートナーは、人間ではなく言語自体である」の岩井克人版。
ーー表題を、「人間の真のパートナーは、言語、法、貨幣」としたが、法も貨幣も、結局「言語」だろう。
とはいえ、こうは引用しておこう。
ラカンにとっての疎外とは、同一化のことである。この「疎外」は言語との同一化によって起こる。《ここには、パロールを妨害する言語の壁がある[Ici c'est un mur de langage qui s'oppose à la parole]》 (Ecrits, 282)
…………
とはいえ、こうは引用しておこう。
貨幣を言語と比較することも、これ(貨幣を血液と比較すること)におとらずまちがっている。(……)類推は言語のうちにあるのではなく、言語の異国性 Fremdheit のうちにある。(マルクス『グルントリセ』)
…主体の最も深刻な疎外は、主体が我々に彼自身について話し始めたときに、起こる。
Car c'est là l'aliénation la plus profonde du sujet de la civilisation scientifique ele sujet commence à nous parler de lui (Lacan,Ecrits, 281)
ラカンにとっての疎外とは、同一化のことである。この「疎外」は言語との同一化によって起こる。《ここには、パロールを妨害する言語の壁がある[Ici c'est un mur de langage qui s'oppose à la parole]》 (Ecrits, 282)
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言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。
言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。
また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。
そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。
人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。
そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』、2006)
資本主義は、人間の本性に根ざしています。
つまり、自己とは一個の他者ということであるなら、人間は自分の身体をあたかも他者の身体のように所有する存在ということになります。
このこと(所有の概念)が、(資本主義)社会の起源になっているということです。
われわれを人間にしている言語、法、貨幣というのは、人間の遺伝子の中には書き込まれたものではありません。
言語、法、貨幣を扱う能力は遺伝子に入っているはずですが、言語そのもの、法そのもの、貨幣そのものは遺伝子には入っていません。
つまり、言語、法、貨幣は、人間にとって外部の存在であり、他者ということになります。
個々の人間にとっては、遠い過去から連綿とつづいている外部(他者)ということです。
フロイトにいわせれば文化ということになります。
個々の人間にとっては外部(他者)になるのですが、われわれの一番の根底にあるものといえます。
人間を人間とする言語、法、貨幣が個々の人間にとっては外部の存在(他者)であるということが、つまり根源的な発想になるということです。
しかも人間を人間とするこれらの言語、法、貨幣は、人間社会がなくなれば消えてしまうという自己循環論法というか、相互連関にあります。
相互依存はするけれども、お互いにとってはそれぞれが外部(外部)ということです。
どちらにも完全に還元は出来ません。(同上)
後期のヴィトゲンシュタインが強調したように、記号(言語)の意味とはその「使用」である。実際、ソシュールとパースの対立は、記号の使用を記号モデルの 外に置くか内に据えるかの違いに解消される。それは、前者においては記号同士の全体論的な関係を呼び起こし、後者では一つの記号を他の記号で置き換えてい く解釈項を作動させることになる。いずれの場合も、モノの標識という意味づけを失った記号は、他の記号との関係の中に投機的に導入され、その使用を通して 自らの意味を事後的に確定していくより他はない。それゆえ、記号の意味とは本質的に「投機的」であり、必然的に「再帰」(自己実現)の問題を抱え込むこと になる。記号についての考察とは、窮極的に、記号の再帰の困難さについての考察に他ならないのである。
田中氏は本書の結語で、人間は記号の再帰を自然に処理しているのに対し、コンピュータは「再帰が苦手」であり、その発展は再帰をどう扱うかにかかっている と述べている。だが、ここで評者の考えを差し挟むならば、実は、人間も記号の再帰が苦手である。人間とは言語や法や貨幣といった記号を媒介として初めて実世界に関わり、社会関係を築ける存在である。ファシズムやポピュリズム、官僚主義や全体主義、恐慌やハイパーインフレといった人間世界の危機状況は、すべ て記号の再帰の困難さの現れである。人間の運命も記号の再帰をどう扱うかにかかっているのである。(岩井克人書評2010:『記号と再帰』―― 記号論の形式・プログラムの必然)
21世紀──言語と法と貨幣が生み出す社会の「危機」はさらに激しさを増すはずです。……おそらく人間は、言語や法や貨幣といった異物の介入を嫌悪し、知り合ったもの同士が身を寄せ合っていた、小さく安定していた共同体的な集団に回帰したい願望を、本能的に持っているはずです。だが、……もはや閉じた小さな社会への後戻りは不可能です。すでに人間は「自由」なるものを知ってしまったからです。
自由への欲望は無限です。人間が自由を求める限り、言語と法と貨幣の媒介が必要になります。自由を知った社会的生物としての人間は、いくら母胎回帰の願望が強くても、見知らぬもの同士が同じ人間として関係し合える「人間社会」の中で生きていかざるをえません。そして、それが、必然的に生み出していく人間社会の「危機」を、その場その場で一つ一つ解決していくよりほかにないのです。(岩井克人『経済学の宇宙』2015)
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もっともこれらはラカン派が「言語」というときと、視点が(やや)異なる(参照:人間に「死の欲動」があるのは、言語を使うせいじゃないか?)
我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。
言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。
いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”2002)
本源的なアタッチメントは、身体の上に言語の痕跡を刻印することである。根本的出来事・情動の痕跡化の原理は、誘惑ではない。去勢の脅かしでもなく、愛の喪失でもない。両親の性交の目撃でもなく、エディプスでもない。そうではなく、言語との関係である。(……)
情動の痕跡を生みだす出来事の総合的定義は、フロイトがトラウマと呼んだものである。トラウマ化とは、それが快原理の失敗した効果によって生みだされる限りで、快原理の規範に従って消し去りえない要素である。すなわち、トラウマは、快原理の統制の失敗を引き起こす。情動の痕跡の根本的出来事は、次のようなものだ…それは、身体のなか、精神のなかに、興奮の過剰を持続させるもの・再吸収されえないもの。我々は、ここで、トラウマ的出来事の総合的定義を得る。それは、言存在 parlêtre のその後の人生において痕跡を残すものである。 (Miller, J.-A. (2001). The symptom and the body event (Trans. B. Fulks).)
※さらに、ここでは触れえなかった側面については、「われわれを途方にくれさせる「構造主義者」マルクスとラカン」を見よ