2016年7月21日木曜日

権力のフェティシズム(ジジェクによる柄谷行人吟味)

民主主義についてのカントの限界は、貨幣のアンチノミー(我々は、《「貨幣があってはならない」」と「貨幣がなければならない」というアンチノミー》(柄谷行人、p455)という X が必要だ)についての柄谷行人の「超越論的」解決法の限界と相同的である。柄谷が権力にこの解決法を再適用するとき(我々はある中心化された権力が必要である。しかし、「権力」自体であるところの実体にフェティシズム化されない権力が必要である)、ーーそして彼がマルセル・デュシャンとの構造的相同性をあからさまに持ち出すとき(対象が芸術作品になるのは、その固有の属性ではなく、シンプルに構造のなかのある場を占めることによってだ)ーー、クロード・ルフォールの民主主義理論化と完全に合致しないだろうか? すなわち、権力の場はもともと空虚であり、選挙で選ばれた代表によって一時的に占められるのみであるという政治的秩序としての民主主義の理論化と。

この線に沿えば、柄谷の、選挙と「くじ引き」よる選択を組み合わせるという一見エキセントリックな提案は、その印象よりは伝統的なものだ(柄谷自身、古代のギリシアに言及している)。逆説的にそれは、ヘーゲルの君主制理論と同じ機能を実現する。

ここで柄谷は英雄的なリスクを取っている。それは、ブルジョア独裁とプロレタリア独裁とのあいだの相違の気違いじみた crazy‐sounding 定義を提案することによってである。《もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁に形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである》。このようにして、《中心は在ると同時に無いといってよい》。すなわち、空虚な場、「超越論的統覚 X」として存在し、確たる能動的な実体としては存在しない。

しかし、「権力のフェティシズム」を掘り崩すためには、これで本当にじゅうぶんなのだろうか? ふつうの個人が権力の場を占めることを一時的に許されたとき、権力のカリスマが彼に授けられる。フェティシュの否認の標準的な論理に従いつつ、である。「私はよく知っている。これは私と同じようなふつうの人物だと。でもそれにもかかわらず…(権力のなかにあるとき、彼は超越的な力の道具となり、権力が彼を通して話し行動する)!」

これやカントの解決法ーー形而上学的命題(神、不死、等々)は、「抹消の下に」仮説として強く主張されるーーの一般的な母体に合致しないだろうか? したがって、真の課題は、権力の場の神秘性そのものを取り除くことではないだろうか。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

ラカンの弟子オクターヴ・マノーニの古典的論文『よく知っているが、それでも……』のフェティシズムの論理は、「よくわかっている、しかし、それでも……」という形式において、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドーの備給を示すフェティシズムの定式である(「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも……[母さんにはペニスがあると信じている]」)、--というもの。

これを権力のフェティシズムに結び付けて語れば、次の通り。

物事は私の目の前に映った通りだということはよくしっている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジ(ファルス:引用者)をつけているので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

…………

◆柄谷行人による「くじ引き」叙述の箇所

……われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。

一方、アテネ民主主義システムから多くを学んだにもかかわらず、プルードンはブルジョア的普通選挙を批判したとき、それをくじ引き同然だといって非難している。しかし、くじ引きは選挙を否定するものではなく、むしろ選挙を真に活かすために不可欠である。代表者選挙においては、代表するものと代表されるものが固定的に分離されてしまうが、コンミューンにおける選挙も結局はそうならざるをえないだろう。決まっておなじ人が選ばれることになり、また内部的な派閥が生み出されることになる。とはいえ、全部をくじ引きで決めることは無意味であり、結局、それ自体が否定されてしまう結果になるだろう。たとえば、アテネでも、軍人はくじ引き制にもとづいていない。ただ、将軍を毎日交替させることで、権力の固定化を阻止したのである。今日、くじ引きが採用されるのは、陪審員や、誰がやってもよく、そして誰もがやりたがらないようなポストに関してのみである。つまり、くじ引きは、能力が等しいか、あるいは能力が問われない時にのみ採用される。しかし、くじ引きを採用すべき理由はその逆である。それはむしろ選挙を腐敗させないため、また、相対的に優れた代表者を選ぶためである。

それゆえ、われわれにとって望ましいのは、たとえば、無記名(連記)投票で三名を選び、その中から代表者をくじで選ぶというようなやり方である。そこでは、最後の段階が偶然性に左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。その結果、最善でないにせよ、相対的に優れた代表者が選出されることになる。くじに通った者は自らの能力を誇示することができず、くじに落ちた者も代表者への協力を拒む理由がない。このような政治的技術は、「すべての権力は堕落する」などという陳腐な省察とはちがって、実際に効力がある。このように用いられるとき、くじ引きは、長期的に見て、権力を固定させることなく、優秀な経営者・指導者を選ぶ方法である。くりかえすが、われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。労働者の自主管理や生産協同組合においても、この問題は消滅しない。特に資本制企業と競争しなければならないとき、それらは大なり小なり資本制企業の組織原理を採用するか、さもなければ消滅するかを迫られる。であれば、最初から、ハイアラーキー(位階)が存在することを前提しておくべきである。ただ、それが各人の合意によって成立し権力の固定化が生じないように、選挙とくじ引きを導入すればよい。

ところで、国家と資本に対抗する運動は、それ自身において、権力の集中する場に偶然性を導入するというシステムを導入していなければならない。そうでなければ、こうした運動は、それが対抗するものと似たようなものになるほかはない。他方、集権主義的なピラミッド型組織を否定するところから始まった、様々な市民運動は、逆に、離散的で断片的なままの離合集団に留まっている。そして、結局、議会政党の票田となるだけである。そうであるかぎり、それらが資本と国家に対して、有効な対抗をなしうるとは思えない。しかるに、もしこのような政治的技術を導入すれば、中心化をすこしも恐れる必要はないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

※補遺:価値形態論と例外の論理