2016年7月21日木曜日

価値形態論と例外の論理

権力のフェティシズム(ジジェクによる柄谷行人吟味)」補遺。

…………

【商品の価値形態の自己言及的な体系】

それは、ちょうど、群をなして動物界のいろいろな類、種、亜種、科、等々を形成している獅子や虎や兎やその他すべての現実の動物たちと相並んで、かつそれらのほかに、まだなお動物というもの、すなわち動物界全体の個体的化身が存在しているようなものである。(マルクス『資本論』)

…………

普遍性と構成的例外の論理は、三つの段階において展開されるべきである。

(1)まず、普遍性への例外がある。どの普遍性も特殊な要素を含んでいる。その要素は、形式的には普遍的次元に属しているにもかかわらず、突出しており、普遍的次元にフィットしない。

(2) 次に、普遍性のどの特殊な例あるいは要素も、例外であるという洞察が来る。「標準的な」特殊性はない。どの特殊性も突出している。それは、普遍性の観点からは、過剰/欠如している(ヘーゲルが示したように、存在するどの国家も「国家」の概念にフィットしない)。

(3) 次に弁証法プロパーのひねりが来る。例外への例外である。それはいまだ例外であるが、唯一の普遍性としての例外・要素である。その要素の例外は、普遍性自体に直接な繋がりがある。それは普遍性を直接的に表す(ここで注意しておこう、この三つの段階はマルクスにおける価値形態論と共通していることを)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)


◆THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE Slavoj Zizek、2002

セミネールXXにて、ラカンは「非全体 pas-tout の論理」と普遍性を構成する「例外の論理」を展開した。

(普遍性に属する要素の)シリーズ series とその例外のあいだの関係性のパラドックスとは、たんに「例外が普遍的規則を基礎づける」という事実にあるのではない。すなわち、どの普遍的シリーズもある例外の除外を含んでいる--例えば、すべての男は譲渡することのできない権力を持っている。狂人、犯罪者、未開人、無教養者、子供等の例外を除いて--という事実にあるのではない。

正当的弁証法の核心は、むしろある意味で、シリーズと諸例外は直接的に一致するいうことだ。シリーズは常に「諸例外」のシリーズである。すなわち、ある例外的な質を示す実体のシリーズであり、それがシリーズに所属するための資格を付与する(英雄の、我々のコミュニティのメンバーの、真の市民の、等々のシリーズ)。

思い起こそう、標準的なスケコマシ male seducer の女性征服リストを。どれも「例外」である。どの女も、特殊な「言葉で言い表しえないもの je ne sais quoi」のために誘惑される。そしてこの女性のシリーズは、まさに例外的な人物像のシリーズである。(私訳)


注)《私はこの点をアレンカ・ジュパンチッチとの会話に負っている。もう一つ例を挙げよう。ここにはまた、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ボーヴォワールとのあいだの「開かれた結婚」関係の袋小路がある。

彼らの書簡を読むことから明瞭になるのは、二人の「パック」は、事実上、非対称的であり機能していないということだ。それはボーヴォワールに数々のトラウマを引き起こした。彼女は期待した、サルトルは他の愛人の「シリーズ」を持つにもかかわらず、彼女は「例外」、唯一の本当の愛の関係だと。

他方、サルトルにとっては、ボーヴォワールは「シリーズ」のなかの唯一の女ではなかった。彼女は、まさに諸例外の一人だった。サルトルのシリーズは、女たちのシリーズであり、どの女も彼にとっては「例外的な何か」だった。》

…………

◆柄谷行人によるマルクス価値形態論の説明(『トランスクリティーク』2001)。

価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態、商品Bは等価形態におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。

(相対的価値形態)    (等価形態)
二〇エレのリンネル =   一着の上衣


この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等値されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。

貨幣の謎はこうした等価形態にひそんでいる。マルクスはそれを商品のフェティシズムと呼んだ。むろん、この単純な等式においては、一着の上衣がつねに等価形態にあるわけではない。二〇エレのリンネルもまた等価形態に立ちうるからである。

《もちろん、リンネル20エレ=上衣1着 あるいは、二〇エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着 =リンネル20エレ あるいは一着の上衣は二〇エレのリンネルに値するという逆の関係も、含んではいる。だが、そうではあるけれど、上衣の価値を相対的に表現するには、この等式を逆にしなければならず、そしてそうすると、たちまち上衣にかわってリンネルが、等価になるのである。したがって同じ商品が、同じ価値表現で、同時に両方の形態え登場することはできないのである。両形態は、むしろ対極的に排除しあうのだ。

いまや、ある商品が、相対的価値形態にあるか、それとも対置された等価形態にあるかは、もっぱらそれが価値表現において、そのつど占める位置に、つまりその商品が自分の価値が表現される商品であるか、それとも自分に価値が表現される商品であるかに、かかっている。》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)

大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。

つぎに、形態Ⅱ「拡大された価値形態」は次のようなものである。



ここでは、リンネルは上着以外の多くの物と交換される。しかし、この場合でも、リンネルが相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのかはまだ決定できない。それが決定されるのは、形態Ⅲ、「一般的な価値形態」が形成されるときである。



このとき、リンネルは一般的等価物となる。いいかえれば、それのみが購買力(直接的交換可能性)をもつ。それとともに、他のものが等価形態に立つことができなくなる。平たくいえば、貨幣でないすべての商品は、買われることはあっても買うことができなくなるのである。この第三の形態の形成は、ホッブスが『レヴァイアサン』で述べた社会契約と似ている。マルクス自身、それを「商品間の共同事業」と呼んでいる。
第四の形態、「貨幣形態」は「一般価値形態」の発展としてある。しかし、貨幣形態の核心はすでに一般形態において示されているので、ここでは述べない。大事なのは、このような発展を歴史的な発展と混同してはならないことである。マルクスは、その逆に、より発展した形態がおおいかくすものを超越論的=系譜学的な遡行によって見いだしているのである。貨幣形態においては、金や銀のみが一般的な等価形態の位置を占め、他のすべての物は相対的価値形態におかれる。その結果、次のように考えられてしまう。


一商品は、他の諸商品が自分らの価値を全面的にこの一商品で表わすがゆえに、はじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品が自分らの価値を一般的にこの一商品で表わす、というように見えるのだ。

過程を媒介する運動は、運動そのものの結果のなかに消えさっていて、何らの痕跡もとどめていないのだ。諸商品は、自分では何もしていないのに、自分自身の価値の姿が、自分の外に、自分と並んで存在する商品体として、感性されているのを見いだすわけである。この物は、金や銀は、地球の奥底から出てきたままで、同人あらゆる人間労働の直接の化身なのである。だからこそ、貨幣の魔術が生ずるのだ。》(『資本論』第一巻第一篇第二章)


貨幣形態が消してしまうのは価値形態そのものである、といってもいい。つまり、或る物を貨幣あるいは商品たらしめる、その「形式」が見失われる。その結果、重商主義者や重金主義者がそうであったように、金そのものに特別な価値があるかのように考えられてしまう。一方、古典派経済学者(スミス、リカード)はそれを否定し、それぞれの商品に内在的な価値があり、貨幣はたんにそれを表示しているだけであると主張した。この考えに基づいて、リカード左派やプルードンらは、貨幣を廃棄して、労働証票や交換銀行を作ることを構想した。マルクスがいう貨幣形態において、金がレヴァイアサンであるとするならば、古典派はそのような絶対王権体制を倒して、それをいわば立憲君主制にした、といってよい。さらに、その意味では、社会主義者たちは、商品の民主主義体制を作ろうとしたといってよい。つまり、彼らは貨幣=王なしにすまそうとしたのである。
しかし、それは本当に貨幣=王を揚棄することではない。たとえば、絶対主権者(絶対王政)を倒して出現した国民国家において、人民主権が唱えられるが、そのような人民がすでに絶対王政によって輪郭づけられたものだということが忘れられている。人民はすでに国家の人民なのである。同様に、商品を残しておいて貨幣を否定するのはおかしい。商品も貨幣と同様に価値形態いおいてはじめて存在するのである。したがって、古典派経済学において貨幣が無視されているということは、貨幣形態、すなわち、価値形態が無視されているということにほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


◆ホップス「レヴァイアサン」をめぐる箇所

……マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。

絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、それが露呈するのだ。

たとえば、シュミットが評価するホップスについて考えてみよう。ホップスは主権者を説明するために、万人が一人の者(レヴァイアサン)に自然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じである。ホップスはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形態 Ⅲにいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与えられるが、これは、商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことごとく一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである》(『資本論』第一巻第一篇第三節C)。すなわち、ホップスは国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初に見いだした。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

…………

※付記:蓮實重彦のポジション批判の叙述

王殺しなどかつては起こりはしなかったかのごとくに振る舞いながら、記憶喪失に徹すること。また一方で、忘れられた王殺しにもかかわらず、空位になった王座に誰もが自分を位置づける権威だけはあると確信すること。その二つの契機が、あらゆる人に、自分が始めたわけでもない遊戯の終わりを予言する資格を賦与することになるのだが、そのとき未来形に置かれている動詞はすぐさま過去形に混同され、何れにしても終わりを潜在的な主題とするいくつもの短い物語を生産する。その主題を潜在的な領域におしとどめておくことも二重の倒錯を健康ととり違えることに有効かもしれない。(蓮實重彦『物語批判序説』)
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。

近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。(蓮實重彦『物語批判序説』)
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなければならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

※参照:蓮實重彦による il n'y a pas d'Autre de l'Autre