人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番 秋山英夫訳)
ーー『漂泊者とその影』は1880年出版(『人間的な、余りにも人間的な』第二巻)であり、バーゼル大学教授辞職(1879年)の一年後に上梓されていることになる。
目だけが醒めているとあるが、逆に耳だけが醒めている場合、嗅覚だけが醒めている場合だってあるだろう。わたくしには、視覚よりも聴覚・嗅覚において、よりいっそう「ニーチェ現象」が起こる(真にそう思うのは、年に一度か二度程度だが)。
あまり起こり過ぎても怖いがーーというのは究極的にはブラックホールS(Ⱥ) に遭遇する感覚だからーーもうすこし頻繁にあってくれたらいいとは思う。おそらく分裂親和気質の方なら頻繁に起こっているのではないか。
あまり起こり過ぎても怖いがーーというのは究極的にはブラックホールS(Ⱥ) に遭遇する感覚だからーーもうすこし頻繁にあってくれたらいいとは思う。おそらく分裂親和気質の方なら頻繁に起こっているのではないか。
…この過程の出発点において、フロイトが「能動的」対「受動的」と呼んだ二つの傾向のあいだの対立がある。我々の観点では、これはS1(主人のシニフィアン)とS(Ⱥ) とのあいだの対立となる。S(Ⱥ) 、すなわち女にとって男のシニフィアンの等価物の不在ということである。この点において、正規の抑圧に関してフロイトによってなされた区別を次のように認知できる。
引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。
斥力:すべての非共存的内容を拒絶するファルス Φ のシニフィアン S1 から生じる斥力。
この関係は容易に反転しうる。すなわちすべての共存的素材を引き込むファルスのシニフィアンと、他方でその種の素材をまさに排斥するS(Ⱥ)。
(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF)
…彼女を女 La femme と呼ぶのは適切でない。…女は非全体 pas tout なのだから、我々は 女 La femme とは書き得ない。唯一、斜線を引かれた « La » 、すなわち Lⱥ があるだけだ。
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。…(ラカン、S20, 13 Mars 1973ーー神と女をめぐる「思索」)
ブラックホール=ヴァギナデンタータ現象とは場合によっては次のようにひどく戦慄的なものである。
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
ヴァギナデンタータ現象がまったくなくて残念だと思うひとは、人工的にヒロポン中毒現象に近似したものをもたらす何ものかを試してみたらいい・・・
十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。
「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」
そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(坂口三千代「クラクラ日記」)
…………
オイディプス的なしかめ面 la grimace œdipienne の背後でプルーストとカフカをゆさぶる分裂的笑い le rire schizoーー蜘蛛になること、あるいは虫になること。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス L'ANTI-ŒDIPE』、1972年)
分裂親和型気質でなくても、ひとは冒頭のニーチェのような現象がときに起こるのではなかろうか。蜘蛛になることがあるのではないか。
たとえばジャン・ジュネの『泥棒日記』のなかには次のような文があるが、これはニーチェ文と類似した感覚を語っているのではないだろうか。
わたしには、もろもろの物象が輝くばかりの明澄さで知覚されると思われるようになった。あらゆる物が、最もありふれたものまでも、その日常的な意義を失っていたので、わたしは終いには、いったい、コップは水を飲むものである、とか、靴は穿くものであるというのはほんとうだろうかと考えるまでになった。(ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)
あるかい? 一度でもこの感覚を経験したことが。
《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」)という感覚。
中井久夫の《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》や、《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》感覚(参照)。
〈女〉にならなくちゃな
〈男〉のままだったらだめさ
私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)
少女や子供が生成変化をとげるのではない。生成変化そのものが少女や子供なのである。子供が大人になるのではないし、少女が女性になるのでもない。少女とは男女両性に当てはまる女性への生成変化であり、同様にして子供とは、あらゆる年齢に当てはまる未成熟への生成変化である。「うまく年をとる」ということは若いままでいることではなく、各個人の年齢から、その年齢に固有の若さを構成する微粒子、速さと遅さ、そして流れを抽出することだ。「うまく愛する」ということは男性か女性のいずれかであり続けることではなく、各個人の性から、その性に固有の少女を構成する微粒子、速さと遅さ、流れ、そしてn個の性を抽出することだ。<年齢>そのものが子供への生成変化なのだし、性一般も、さらには個々の性も、すべて女性への生成変化、つまり少女たりうるのである。――これは、プルーストはなぜアルベールをアルベルチーヌに変えたのだろうかという愚劣な問いへの答えである。ところで、女性への生成変化も含めて、あらゆる生成変化がすでに分子状であるとしても、あらゆる生成変化は女性への生成変化に始まり、女性への生成変化を経由するということも、はっきりさせておかなければならない。女性への生成変化は他のすべての生成変化を解く鍵なのである。戦士が女性に変装し、少女になりすまして逃走する、そして少女の姿を借りて身を隠すということは、彼の経歴において恥ずべき仮そめの偶発事などではない。身を隠し、偽装するということは、戦士の機能そのものなのだ。……(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
微粒子の詩といえば、日本語で書かれたもののなかでは、わたくしには「一つのメルヘン」にまさるものはない。
一つのメルヘン 中原中也
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……
たとえばこの感覚を中原中也からではなく宮澤賢治からより多く受ける方もいるのだろう、「風景やみんなといつしよに/せはしなくせはしなく明滅」(宮澤賢治)すること、その変化流転の止まないさまに魅了されて。
彼は幸福に書き付けました。とにかく印象の生滅するままに自分の命が経験したことのその何の部分だつてこぼしてはならないとばかり。それには概念を出来るだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮な現識を、それが頭に浮ぶままを、--つまり書いている時その時の命の流れをも、むげに退けてはならないのでした。(……)彼にとつて印象といふものは、或ひは現識といふものは、勘考さるべきものでも翫味さるべきものでもない、そんなことをしてはゐられない程、現識は現識のままで、惚れ惚れとさせるものであつたのです。それで彼は、その現識を、出来るだけ直接に表白さへすればよかつたのです。(中原中也「宮沢賢治の死」)
…………
※付記
ここでの文脈とはあまり関係がないが、冒頭に掲げたニーチェの文が書かれた1888年の前々年には次のような事件があった。
私はときどき考えているのだが、ニーチェの長患い(頭痛やら眼のトラブル)は、若く才能のあるインテリたちの間で観察してきた病気と同じケースじゃないか、と。私はこれらの若者たちが朽ち果てていくのを見てきた。そしてただひたすら痛々しく悟ったのは、この症状はマスターベーションの結果だということだ。(ワーグナー書簡、 Wagner on April 4, 1878)
まったく自明の理だが、ニーチェの世界は、完全にばらばらに崩れ堕ちた……1878年の春の出来事によって。その時、ワーグナーは、ニーチェのオナニズムへの過度の没頭を非難し、かつまたニーチェの医師、Otto Eiser博士によって知らされたわけだ。Otto Eiserは、フランクフルトのワーグナーサークルの会長として、ニーチェのオナニズムに対するワーグナーの告発を、バイエルン祝祭劇場の参加者にまで流通させた。ニーチェは恥辱まみれになった。そして、おそらくは、ニーチェは、教養あり洗練された名士たちの唯一の集団から、余儀なく退却せざるをえなくなった。ニーチェはこの集団との公的な接触、かつまた評価を享受することもできただろうに。(David Allison “ The New Nietzsche”1977)
ーーニーチェのバーゼル大学教授辞職は1879年である。
18世紀から19世紀にかけて、異様な反オナニズム運動が起こった、当時は、マスターベーション(自慰)行為は、蛇蝎のごとく扱われ、《このときオナニスムはまるで今日のエイズを思わせるような扱いを受け》た。
私は、二つの点において居心地の悪さを感じています。(……)なぜ、性的活動一般ではなく、自慰が問題となったのでしょうか。(…)次に、自慰撲滅運動の特権的な標的となるのが、労働する人々ではなく、子供ないし青少年である、という点も、やはり奇妙に思われます。しかも、この運動は、基本的に、ブルジョワ階級に属する子供や青少年を標的としています。(……)
自慰は不道徳の領域にではなく、病の領域へと組み入れられる、ということです。自慰は、いわば普遍的な実践とされ、すべての病がそこから発生する危険で非人間的かつ怪物的な「X」とされます。(フーコー『異常者たち』)
やあほんとに関係がないのかね、ここでの文脈と。
私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス(無意識的記憶)と呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。
…私は、現実界は法のないものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
無意志的記憶の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。
…les révélations de la mémoire involontaire sont extraordinairement brèves, et ne pourraient se prolonger sans dommage pour nous…(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
「メタコスモス」が比例世界に展開しえて白日のもとにさらされるようなことがあれば、私はとうてい生きておれないだろう。(中井久夫「世界における徴候と索引」)
プルーストかい? でもわかり切ってるだろ? 《神秘なあかりに照らされる内臓の、半透明となった組織の深部に、残存者と虚無との痛ましい再統合 douloureuse synthèse de la survivance et du néant のすがたを反映し、屈折させた》なんて引用しなくても。
無意識、それはリアル(現実界)である(……)。それが穴が開けられている troué 限りにおいて。
l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI,1975)
後期ラカンが穴といえば、それはブラックホールであり、穴馬のことである。
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。
nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )
…………
もちろん穴ウマとは原トラウマのことである。
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
そして、
経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ……現在の状況が過去に経験した外傷経験を思いださせる……(フロイト『制止、症状、不安』)
人間にとって最も最初の無力な状況とは何だろう?
すなわち人間は誰もがトラウマ化されている、«tout le monde est traumatisé»(Miller,Tout le monde est fou Année 2013-2014)
厳密さを期さずに言えば、ほとんどの場合、しっかりした穴埋めをしている人のみが、ニーチェ現象がない。
最もしっかりした穴埋めツールとは、ファルスである。フェティシュぐらいの穴埋めだとすぐポロっととれちまう。
おめでとう、ファルス主義者たちよ!
……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)
すなわち人間は誰もがトラウマ化されている、«tout le monde est traumatisé»(Miller,Tout le monde est fou Année 2013-2014)
厳密さを期さずに言えば、ほとんどの場合、しっかりした穴埋めをしている人のみが、ニーチェ現象がない。
最もしっかりした穴埋めツールとは、ファルスである。フェティシュぐらいの穴埋めだとすぐポロっととれちまう。
おめでとう、ファルス主義者たちよ!