ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF)
実際、Patrick Valasーーラカンのセミネールの音声掘り起し者として知られるーーの「超自我」シソーラスを眺めても、ラカンはそれほどたいしたことを言っているわけではない(Le Surmoi dans les séminaires de Lacan)。エクリについても最初期の論文に超自我は頻出するがそれ以降は少ない。
Rodriguez によれば、ミレールは次のようにも言っている(引用元不明)。
ミレール曰く、超自我は《ラカンが保持した最初のフロイト概念、フロイト理論においてラカンの関心を引いた最初の概念である》と。…Aimée の症例分析は、ラカンの1932年の博士論文を含め、新しい臨床カテゴリーの提案に至る。「自己懲罰パラノイア」、すなわち妄想の構造化が超自我の要求に支配されている精神病の形態である。これは、ラカンが呼ぶところの「自己懲罰欲動 pulsion d'autopunition」を満足させる「懲罰への要求」であり、このようにして超自我と欲動固有の様相とのあいだの相同性が打ち立てられる。(Leonardo S. Rodriguez, 1996)
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・超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、セミネール7)
・享楽を強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「享楽せよ!」 Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »,(ラカン、セミネール20)
もちろん超自我の命令とは、不可能な命令である。
※参照:「基本版:現実界と享楽の定義」
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【自我理想と超自我の相違】
フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。
〈理想自我〉は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。
〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう〈小文字の他者〉であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、〈大他者〉の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。(ジジェク『ラカンはこう読め』既存訳からだが一部変更→原文)
ラカンの見解では、超自我 surmoi は自我理想 idéal du moi とはっきりと差別化される必要があるとはいえ、超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。両方とも、主体が徴づけられた欠如への関わりとして機能する。その欠如とは、自我と理想自我 moi idéal とのあいだの相互作用にすべて関係がある。
自我理想はこの欠如との関係において「橋を架ける」機能を持つとラカンは言明している。…
超自我は、逆転した効果・分割効果を持つ。ラカン(E.684)は、超自我を次のように特徴づけている。すなわち、「如何に人があるか」(自我)と「如何に人がありうるか」(理想自我)とのあいだの差異を指摘する「内なる声」として。
事実上、超自我の指摘は、「如何に人がありうるか」の考えを「如何に人はあるべきか」の命令へと変換する。そのようにして、主体の欠陥を強調することになる。いくらか《得意にさせる exaltant》形で機能する自我理想とは対照的に、超自我は《強制する contraignant》効果を持つ(S.1)。超自我から湧き起こる無慈悲な非難は、自我理想によって励まされた完全性の期待を与える錯覚を粉々にする。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005,PDF)
超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。すなわち、「眼差しー恥ー自我理想」/「声ー罪ー超自我」。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012、私訳)
……超自我の最も純粋な働き。それは自己破壊の渦巻く循環へと我々を操る猥褻な作用である。
超自我の機能は、まさにわれわれ人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な中核ーードイツの観念論者が「否定性」と呼んだもの・フロイトが「死の欲動」と呼んだものーーを曖昧化することにある。超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING)
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※付記:
【自我理想/理想自我】
一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)
注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ((ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)
想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
※追記
上に引用したポール・バーハウの文の超自我と自我理想をめぐる文、
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
この文は次のジャック=アラン・ミレールの文とともに読むと、超自我・自我理想・父の名のあいだの関係をラカン派内でどう捉えているのかが、いくらか鮮明になるだろう。
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School)
・超自我/自我理想がコインの裏表
・超自我/父の名がコインの裏表
ーーであるなら、父の名とは基本的には自我理想である。ただしその裏面にある現実界的な超自我を忘れてはならない、ということになる。ジジェクの言っているのはそのことである。
〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。(……)
自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、〈大他者〉の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。(ジジェク『ラカンはこう読め』)