2017年1月4日水曜日

19世紀と20世紀の大カトー

前回、次のように大カトーの演説を引用した。

諸君、我々一人一人が各家庭で夫の権威と権利を守り抜いていたら、こんなことにはならなかったはずですぞ。今や事態はここまで来た。女がのさばり、家庭でのわれわれの行動の自由を粉砕しただけではあきたらず、広場におけるわれわれの自由をさえ粉砕にかかっているのではないか。法が男性の権利を保証している間でさえ、女たちをおとなしくさせ、勝手なことをさせないために、どんなに苦労してきたか、よくお分りと思う。もし女どもが法的にも男と同等の立場に立つならいったいどうなることか、よくよくお考えあれ。女というものをよく御存知の諸君、かりに連中がわれわれと同等の地位に立つとすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ。どこの世界でも男たちが女を支配しておる。ところが世界の男たちを支配する男たち、つまりわれわれローマ人がだ、女たちに支配されることになるのですぞ」(大カトーの演説――ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」より)

折角の機会なので、ここで20世紀の大カトーの演説を並べて、しばし熟考してみることにする。

【母の役割】
私は、エディプスは役立たずだ l'Œdipe ça ne sert à rien とは全く言っていない。我々がやっていることとは無関係だとも言っていない。だが精神分析家にとっては役に立たない。それは真実である!Ça ne sert à rien aux psychanalystes, ça c'est vrai ! …

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である

やあ、私は人を安堵させる rassurant 何ものかを説明しようと試みている。…単純な事を言っているんだ(笑 Rires)。私は即席にすこし間に合わせを言わなくちゃならない(笑Rires)。

シリンダー rouleau がある。もちろん石製で力能がある。それは母の顎の罠にある。そのシリンダーは、拘束具 retient・楔 coinceとして機能する。これがファルス phallus と呼ばれるものだ。シリンダーの支えは、あなたがパックリ咥え込まれる tout d'un coup ça se refermeのから防御してくれるのだ。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)


【母なる超自我】

そもそも20世紀の大カトーは、その最初期から次のようにイッテオラレル・・・

1938年、つまりまだフロイトの生存中、《太古的超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque》(Lacan, LES COMPLEXES FAMILIAUX ,1938)としている。

ここでほぼ同時期のフロイトを引用してみよう。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)

この1933年の記述は読んでいたかもしれないが、次の叙述はまだ読んでいなかったことになる。

子どもの最初のエロス対象は、彼(女)を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子どもは乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、子どもの母という人影のなかへ統合される。その母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1940、死後出版)

そして1958年にも次のような演説をナサッテオラレル・・・

母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

le Surmoi maternel… est-ce qu'il n'y a pas derrière le Surmoi paternel, ce Surmoi maternel, encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant dans la névrose que le Surmoi paternel ? (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)

娘婿のジャック=アラン・ミレールによる母なる超自我の注釈は次の通り。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ無分別な法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、この「一」のシニフィアンから生まれる徴候でありパラドックスである。というのはそれは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)

母なる超自我 surmoi mère…この思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似している。それは、父の名によって隠喩化され支配される前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996よりの孫引き,PDF)

ラカンのマテームS(Ⱥ)とは、La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme を徴示するシニフィアンである。ミレールの記述から窺うに、超自我とは父的な自我理想に反し、母的なものであるとさえ読める。

もっともラカンは超自我を語るなか後年にもフロイト由来の原父 Père originel という表現を使ってはいる。

Quelle est l'ordonnance du surmoi ?

Précisément, elle s'origine de ce Père originel, plus que mythique, de cet appel comme tel à la jouissance pure, c'est-à-dire aussi à la non-castration. (S.18, 16 Juin 1971)

だがフロイトのエディプス理論を1970年に否定したラカンにとって、原父とは鰐の口の母と相同的である。核心は純粋享楽 jouissance pure、非去勢 non-castration の大他者なのだから、これはファリックマザーのことではなくてなんだというのだろう?

そして20世紀の大カトーの演説を聞いてしまえば、小カトーたちは次のような繰り言を漏らすようになるに決まっている。

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998、Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)
父親は不在で、父性的機能(平和をもたらす法の機能、父-の-名)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我は恣意的で、邪悪で、「正常な」性的関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想が不十分なために法が獰猛な母なる超自我へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』1991)
倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安と して解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配して いるのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。

これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由であ る。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不 安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)


【母の法】

ラカンは「母なる超自我」を別に「母の法」とも呼んでいる。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5)

そして Geneviève Morel は、この「母の法」を後期ラカンの核心概念サントーム(原症状)と結び付けている。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。

事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。

そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF

…………

ここに19世紀後半の大カトーの演説も「あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えている」から再掲しておこう。もちろんさらなる熟考のためにである。

……全世界の者 ―― 通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭は全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ …… およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 …… あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 …… あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……

これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである …… われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。結局、このことをいっとうよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単に公平であるような男などは、相手にしない ……

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してよいだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ―― 幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! …… ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである …… すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ―― 女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。

―― わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。

―― いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ―― 「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……

最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている …… そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ―― 生の聖霊に対する真の罪悪である。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そして今ではよく知られるようになったのだろうーーわたくしは数年前にやっと知ったのだがーー死後出版の『この人を見よ』の「序言」につづく「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第三節が妹によって原稿が差し替えがなされているのだが、その差し替え前の文を掲げておこう。

「わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と 妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつって いる。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken  くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来 の深遠な思想である 「永劫回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。―」 (KSA(Friedrich Nietzsche Sämtliche Werke Kritische Studienausgabe, dtv/de Gruyter), 1980, Bd. 6, S.268)

最後に勇ましい演説はなされなかったが、19世紀と20世紀の大カトーの臍に位置づけられる遠慮がちなフロイトのボソボソとしたつぶやきをも掲げておこう・・・

一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ』。(フロイト 『素人分析の問題Die Frage der Laienanalyse』1927年) 
知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』1927年)

…………

ところでミナさん、「物置の中へ押し込まれる」というのを御存知だろうか?

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。
ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)

御存知でなかったらお幸せである・・・

あるいは母なるブラックホールでもよろしいが、これまたゴゾンジだろうか?

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)
何かが原初に起こったのである、それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、「A」の形態 la forme Aを 取るような何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)

ところで蚊居肢散人の本名はカトーであるのをいまだゴゾンジでなかったであろうか? そのあと佳シ! 克ツ!と続くのであるが、いまだ母なるブラックホールにカテタためしがない・・・