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2016年12月22日木曜日

あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えている

……全世界の者 ―― 通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭は全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ …… およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 …… あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 …… あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……

これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである …… われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。結局、このことをいっとうよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単に公平であるような男などは、相手にしない ……

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してよいだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ―― 幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! …… ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである …… すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ―― 女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。

―― わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。

―― いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ―― 「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……

最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている …… そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ―― 生の聖霊に対する真の罪悪である。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

いやあ、実にすばらしい。補足としてラカン派の文をいくつか掲げようかと思ったがやめておく。

もちろんニーチェの文を「額面通り」読む必要はない。そして1948年の世界人権宣言の「成果」を否定するものでも全くない。問題はその後だ。

問いはこうだ。現在の流行でありポリティカル・コレクトネスである「男女同権」とはいったい何なのか。

今年のブラジルオリンピックの直前に男女の閾を徐々に取っ払おうじゃないかとの「提案」があったが(International Olympic Committee Considers ‘Gender Neutral’ 2016 Games)、論理的にはそうしないとおかしい。平等の権利と能力は異なるというなら、たとえば同性の競技者たちのあいだでも体格の違い(身長や足の長さの違いとか)で区分けしなくちゃならなくなる。

それはさておき、「男女同権」、--この美しい魂たちの「高等いかさま」標語のせいで人は不幸になってはいはしまいか。

「女性解放運動は、結婚、道徳、国家の終焉を生むだろう」と1970年に宣言したのはフェミニストGermaine Greer ジャーメイン・グリアだが、1996年のインタヴューで、予言が的中しつつあることにアンビヴァレントな表明をしている。

あるいは二人の名高いフェミニストはなんといっているか。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート バダンテール Élisabeth Badinter、PDF
男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。.(ドリス・レッシング、Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists、2001)

というわけで、日本でも次のような結果が生まれている。

昨今は独身男性の3割弱が「婚約者、恋人、異性の友人のいずれもほしくない」という。20代前半の男性の4人に1人は「セックスに関心がない/嫌悪している」との調査結果(特集ワイド:カノジョは面倒?「草食男子」ここまで)

もちろん女性側も「教養ある」孤独な女たちが輩出している。

ポリティカル・コレクトネスに囚われて思考停止になってしまわず、かつまたヘッポコ社会学者や心理学者たちの寝言に惑わされず、人は反時代的に考えねばならない。

・反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。

・世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)
現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)

で、きみたち、つまり若いもんが考えろ。わたくしはなんとか現在のような不幸の時代がはじまる前に、幸運にもあの「永遠の戦い」をやりすごした世代だから。


※脊髄反応的な文句を言ってくるまえに「女性嫌悪 misogyny をめぐって」を見よ。