フロイトを読むときは、エディプス・コンプレクス、(想像的)去勢やらペニス羨望概念を抜き取って読まなければならない。ラカンを読むときも同様。
ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。
この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… → 続き.(ポール・バーハウ、PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009ーー「ラカン」を読むときには、手袋をはめたらよい)
あるいは前回、ニーチェの『この人を見よ』をから「女性嫌悪的」とも受け取られかねない文を引用したが、これも同じくである。
そうでないと、ある概念や考え方への脊髄反射的な嫌悪のみによって、すくなくともこの何世紀のあいだの「最も偉大な思想家」たちを読まずにすますなどという「破廉恥な」振舞いをすることになってしまう。
【抜き取り】
……ここで、 ドゥルーズ自身が他の哲学者や芸術家たち――映画監督をも含め――を取り上げる時の姿勢を思い起こしておきたい。 それは、 イタリアの演出家C・ベーネが用いた独特の方法を真似て言えば、 「抜き取り」の方法とでも言うべきものである。
ベーネの方法というのは、 例えば、 シェイクスピアの 『ロメオとジュリエット』 からロメオ――家族の権力を代表する人物であり、 作品に首尾一貫性を与える役割を果たす人物――を抜き取り、 ロメオの存在によって隅に押し込まれていた他の登場人物たちを自由に発展させてゆくことで、 このシェイクスピアの作品をまったく新しい形で再創造する、 というものであった。
後でも触れるように、 ドゥルーズが 『シネマ』 の中でベルクソンやパースを取り上げるときの方法も、 まさにこれであり、 彼らの哲学から主要な概念の一部を抜き取り、 他の概念を自由に発展させることで、 彼は、 ベルクソンやパースの哲学を一新しようとする (この手続きは、 『シネマ』でドゥルーズが映画監督たちの作品を論じる時にも見られるほか、彼のほとんど全著作に見出されると思われる)。
註)ドゥルーズによれば、ベーネの作品で「抜き取り」の対象となるのは、作品の中で何らかの意味で権力と結びついた要素であり、固定化した不変の要素、何か澱んだ、生成変化(devenir)から切り離された要素である(Deleuze et Bene 1979: 93, 94, 103)。このことは、ドゥルーズ自身が実践した「抜き取り」の方法にも正確に当てはまるだろう。 「抜き取り」の方法の出発点は、そう した澱んだ要素の同定である。
【オカマを掘ること】
◆ジジェク、2003、2007
ヘーゲルは自分が何をやってるのか分かっていなかったのさ。(……)だから彼を解釈しなくちゃいけない。知っての通り、ドゥルーズが哲学者を読むために使った言葉は、アナル解釈だ。オカマを掘らないとな。ドゥルーズが言うように、哲学者を尻から貫通するんだ、汚れのない受胎のためにね。すると怪物が産まれるのわけだ。 (ジジェク An Interview with Slavoj ZizekEric Dean Rasmussen、2003、意訳)
ショート(short circuit 短絡)が起こるのはネットワーク回路に誤った連結があるときだ。「誤った」とはもちろんネットワークの円滑な機能という立場からの意味である。とすればショートによる火花はクリティカルな読解にとって最もすぐれた隠喩のひとつではないだろうか。最も効果的な批評critical行為の一つはふだんは触れ合うことのない電線を交差させることではないか?
名高い古典(テキスト、作家、概念)を取り出しそれをショート回路的方法で読むこと、それは「マイナー」な作家あるいは概念的装置のレンズを通してだ(「マイナー」とはここではドゥルーズがいう意味で理解しなければならない。すなわち「劣った質」ではなく、支配的イデオロギーから外れたり否認された、あるいは「より低く」、威厳に劣った話題を扱うということに)。もしこのマイナーな参照がよく選ばれていれば、このようなやり方はわれわれの通念を完璧にかき乱し掘り崩す洞察へと導きうる。
これはマルクスが哲学と宗教にかんしてやったことだ(政治的経済のレンズを通して哲学的考察のショート回路、すなわち経済的考察)。そしてフロイトとニーチェが道徳についてやったことだ(無意識のリビドー経済のレンズを通して最高級の倫理的概念をショートさせること)。
このような読み方が獲得するものはたんに「脱崇高化」だけではない。より高い知的内容をより低い経済的あるいはリビドー的原因に引き下げるだけではない。このような接近法は、むしろ解釈されるテキストへの独自の脱中心化であり、「思考されていないもの」、否認された仮定と結果に光を照射するのだ。(ジジェク「Short Circuits 2007」序文)