2016年5月28日土曜日

「ラカン」を読むときには、手袋をはめたらよい

ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。

この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… → 続き.(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、)

――このことから結果として生ずるのは何か? 「ラカン」を読むときには、手袋をはめたらよいということである。かくもはなはだしい不潔さの近くではほとんどそうせざるをえない。(ニーチェ『反キリスト者』ーーおわかりのように一語のみ変更)

いくらラカン派がデリダを馬鹿にしてもお里は知れている。

ラカンによる不安の定義は厳密な意味で、「欠如の欠如」 manque du manque (後引用)である。それは、情け容赦なくデリダの主張を論破する。デリダによれば、ラカンの「男根至上主義的」主体理論において、《何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない》(J. Derrida, Le facteur de la vérité)と。

デリダの問題は、ラカンの現実界の次元を全く分かっていないことだ。デリダは、欠如を、大他者の大他者を支える内-象徴的要素 intrasymbolic element として、常に考えているように見える。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)


いくらラカンが勘弁してくれ、と語っても詮無き事。

無意識の形成物についてフロイトが言うことを再現するために、私が文字を使って書き記したことからは、無意識の形成物とは結局シニフィアンの効果であるので、 文字をシニフィアンにすることも、 さらにはシニフィアンにたいして 文字に原初性を与えることも許されない。(訳注:デリダへの批判

このように混乱したディスクールは、私を導入する[importer]ディスクールからしか生まれなかった。だが、それ が私を導入するのは、 後になって私が大学のディスクールとして、 つまり、 見せかけから出発して使用される知として取 りだしたもう一つのディスクールのなかにである。 私が扱う経験はそれとは違うディスクールによってしか位置づけされないという感覚が少しでもあれば、このよう な混乱したディスクールを、 言いだすことは避けられたであろう。 それが私のものだとは認めていないが、 それは勘弁していただきたいものだ。今言った意味で私を導入することは、私を煩わす[importuner]ことには変わりない。 (ラカン、リチュラテール lituraterre、1971、向井雅明訳)

勘弁していただきたいものだ[Qu'on me l'épargne Dieu merci !]だと?
--なんだ!こんなところまで「神」がいるじゃないか
やはり手袋どころか鼻をつまんで読まなくてはならぬ!

誤魔化してもだめだ、父の名やらファルスやらに、デリダの鼻はかぎわけたのだーー彼がたぶんたいして鋭敏な鼻ではなかったにしろーー、ラカンから漂う耐えがたい悪臭を!

最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)


コルクだと? せっかくのワインが台無しである・・・

ラカンの格言、《象徴的大他者の大他者はない》が最初に意味することは、象徴的大他者は、どんな大他者の外的支え(父の名の普遍的法)によっても正当化されないということである。象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな他者性はもはやあり得ない。

言い換えれば、セミネールⅦ に反して、ラカンにとって、象徴界によって殺害された「原初の一者」などない。「純粋な」原初の現実界 réel primordial (本当の現実界 real Real)などない。象徴界の現実界 the Real-of-the-Symbolic の局面の彼方、すなわち(想像界と連結した)象徴界に「穴を開ける」現実界の残余の局面の彼方に、原初の現実界 réel primordial などない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって「原初の一者」--あるいは「本当の現実界 real Real」は、「非一者 not-one」であると。それは「一者として数える」ーーバディウ用語: compte-pour-un:参照ーーことが出来ない限り。すなわち、それは、実際にはゼロである。セミネール XXIII の鍵となる文節で、ラカンはこう指摘している。《現実界は全きゼロの側に探し求められなくてはならない》(参照)、というのは、《燃えている火[享楽の塊の蜃気楼]はたんに現実界の仮面》だから。

我々はこのゼロを、ただ遡及的にのみ考えうる。「偽の」象徴的/想像的「一者」(ラカンが「見せかけ semblant」と呼んだもの)の立場から遡及的にのみ捉えうる。…ゼロとは何ものでもない。しかし、限定された「偽の一者」の視野からのみの何かである。物自体はそれ自体、無-物である。ラカンは言っている、それは l'achose だと。(l'achose= 「剰余享楽は昇華」(ミレール、2013)

言い換えれば、ゼロは、「本当の現実界」のいつも-常に喪われた神秘的享楽と等価である。「偽の一者」は、「一者を作る」ために、対象a の「偽の」享楽が必要である。「一者を作る」とは象徴秩序のなかの穴に、コルク栓 bouchon をすることだ。こうして、元来から喪われている絶対的享楽のイリュージョンを遡及的に作り出す。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007)
欠如の欠如が現実界を作る。それはただそこに、コルク栓としてのみ顕われる。このコルク栓は、不可能という語によって支えられる。我々が現実界について知る僅かなことが示すのは、全ての本当らしさへのそのアンチノミーである。(私訳)

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible, dont le peu que nous savons en matière de réel, montre l'antinomie à toute vraisemblance.( Lacan17 mai 1976 AE.573)

※参照:≪物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。≫(柄谷行人ーー「“A is A” と “A = A”」)


ああ、なんたる哀れな男!

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

………………


JACQUES-ALAIN MILLER: THE OTHER WITHOUT OTHER,2013 

なぜラカンは、その教えの出発点で、法へ情熱をもったのか。そして「大他者の大他者はない」と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、言説等の)を我々に教え、この表明に到った。…

第一に、言語学の法がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィアンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法もまたある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズムとして語った。

第二に、弁証法的法がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法は告げる、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ、彼の存在を想定しうる、と。ラカンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法を見出す(これはある時期とても人気があったが、もはや我々のものではない)。例えば、ラカンが、最初の図式とともに、「盗まれた手紙」についてのセミネールにて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識の記憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用した同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法、エディプスがある。それは、初期ラカンが法へと作り上げたものだ。すなわち「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる、と。

さて、私は面倒を厭わず、法の5つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社会学的・フロイト的である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐって教え始めたとき、この法の5つの領域は、彼にとって、象徴界と呼ばれるものを構成した。(……)
なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとって法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも「法がある場にのみ科学はある」という箴言に駆り立てられていたかのようだ。

(……)しかしながら、はっきりさせておかねばならない。ラカンの教えにおいて、最初に駆り立てられていた後、この法の概念は消滅したことを。ラカンはそれを発明し導入した。それは彼の概念化にとっての基礎として現れた。象徴界・想像界・現実界のあいだの三幅対的分割の基本としてだ。だが彼はそれを持ち続けなかった。

注意しておかねばならない。この秩序の概念、法の5つの領域は混淆されていることを。言い換えれば、秩序という視点からは、それらは、事実上、同じものとして現れる。数学的法、弁証法的法等であれなんであれ。(……)

法がある場に、秩序がある。初期ラカンのシステムにおいて、唯一の秩序とは象徴界である。象徴界的秩序はーーもし人がこのように言うのを好むならーー想像界的無秩序と対立しうる。

象徴界において、各々のもの、各々の要素はその場のなかにある。正確に言えば、象徴界のなかにおいてのみ、場がある。想像界においては、対照的に、要素は場を入れ替える。したがって、事実上、場は区別できない。いや、要素自体が区別されうるかさえ確かでない。

想像界においては、別々の、分離した要素はない。象徴界において分離した要素があるようにはない。これらの用語にて、ラカンは、エゴと他者ーー外部にある自身のイメージであるのみの他者ーーとのあいだの関係を叙述した。そこには、自我と他者の相互侵入がある。想像界は、本質的非一貫性によって徴づけられて現れる。ラカンはかつて「影と反映」のみの存在とさえ言った。現実界とは、この秩序と不秩序とのあいだの分割の外部にあるものだ。それは純粋で単純である。(ミレール、2013、私訳)

※参照:"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」