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2016年1月13日水曜日

現実界とはゼロのことである

“Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu”(Lacan, Seminar XXIII)

《現実界は全きゼロの側に探し求められるべきだ。》

ゼロ度とは、厳密に言えば、何もないことではない。ないことが意味をもっていることである。(ロラン・バルト『零度のエクリチュール』1964)
ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換え(柄谷行人『トランスクリティーク』)
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesaーー超越論的享楽(Lorenzo Chiesa))

…………

◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、2007より私訳。

我々はラカンの断言「象徴的大他者の大他者はない」を思い起こす必要がある。この意味は何よりも先ず、象徴的大他者はどんな〈他〉の外部の支え(〈父の名〉の普遍的法)によっても正当化されないということであり、象徴界が非全体 pas-tout である限り、象徴界に関するリアルな〈他者性〉はもはやあり得ないことだ。

言い換えれば、倫理のセミネールVII に反して、最後のラカンにとっては、「根源的な〈一者〉は存在しない」ーー、それは象徴界によって原初に「殺された」のである。すなわち、「純粋な」根源的〈リアル〉はない(真の現実界はない)。象徴界の〈リアル〉Real-of-the-Symbolic の側面を超えた現実界はない。すなわち、象徴界に(想像界に接合しつつ)「穴を開ける」現実界の残余の側面を超えた現実界はない。

さらに私は強調しなければならない。ラカンにとって、「「根源的な〈一者〉」ーー真の現実界ーーは「非一」not-one である。まさにそれが《「一」として数えられる》ことが出来ない限りで。すなわち、現実界はゼロに相当する。セミネールXXIIIの鍵となる一節にて、ラカンは指摘している、《現実界は全きゼロの側に探し求められなければならない》と。というのは、《燃えている火(「渦巻く」享楽の幻影)はたんに現実界の仮面》なのだから、と。(Le séminaire livre XXIII. Le sinthome, 1975–1976 (Paris: Seuil, 2005), p. 121)

我々はこのゼロを遡及的にのみ考えうる。「まやかしの fake」象徴的/想像的〈一者〉(ラカンが見せかけ semblant と呼んだものだ)の立場からのみ。(…)ゼロは全く何物でもない。しかし「まやかしの」〈一者〉の限定された観点からのみの何かである。物自体は無-物であるとラカンは言う。それは l'achoseだと。(ラカンは、l'achose を l'insub-stanceと同じものとしている。Le séminaire livre XVII, p. 187)

《「一」として数える》については、「現前と再現前(表象)by Alenka Zupancic」を見よ。ここではジュパンチッチではなく、そこで導入として引用されている上のロレンツォ・キエーザの別の論文をさわりとして掲げておく。

バディウの概念である “count-as-one” ( 「一」として数えること)と“forming-into-one [mise-en-un]”( 「一」への形成化)は、ラカンの“unary trait” ( 「一」の徴)と S1(主人のシニフィアン)のよりよい理解のために有効に働きうる。この両方において問題になっているものは、構造とメタ構造、現前と再現前(表象)presentation and representation とのあいだの関係性である。

…ラカンはセミネールⅨ(同一化)にて、統一性と全体性とのあいだの結束 solidarity を打ち破った。これは、ラカンに部分とともに作業することを可能にした。すなわち、「ある一」 a oneとしての全体性の不在 inexistence は「部分的システム partial system」としての部分を考えることを可能にした。ラカンはこのシステムを無意識と同じものとする。(……)部分的システムとしての無意識の存在 existenceは、究極的には、空虚の内-在 in-existence に依拠する。あるいはもっと厳密にいえば、要素として内-在する in-exists 部分としての空虚の存在に依拠する。(Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 Lorenzo Chiesa


遡及性については、ラカンの「アンコール」から粗訳を掲げておく。

「発達段階 」の考え方、①快原理 →②現実原理…l'idée d'un « développement » [(I) principe de plaisir →(II) principe de réalité ] があるだろう?

フロイトは云ってるが、Real-Ich(現実自我)以前に Lust-Ich(快自我)があると。これは通念のなかに滑り込むに等しいね、「発達段階」という通念 l'ornière だ。単なる統御 maîtrise の仮説にすぎないよ。

そもそも赤子、あわれな幼児は、Real-Ich とは何の関係もない。わずかでもリアルle réel なんて概念を持つわけがない!

(……)さあ、「発展段階」の意味をすこしマトモに考えてみようじゃないか。

我々が、事の進行 processus に対して、「原初の primaire」 や「二次の secondaire」と言うとき、それは錯覚 illusion を誘い育む話し方だ。言わせてもらえば、どんな場合でも、それは、ある過程 processus が「原初の primaire」と言われるいるわけではなく、…結局、それは最初 premier に現れたもの qu'il apparaît le premier のことを言っている。

個人的には、私は赤ん坊を観察して、彼に外部の世界があるなどと感じたことはない。明らかなのは、赤ん坊は彼を興奮させるもの以外は何も見ていないということだ。

そしてそれはまさに妥当することだ、赤ん坊がいまだ話さない範囲で、だが。話し始めた瞬間から、まさにその瞬間以降からのみ、…抑制 refoulement の類があるようになると理解できる。

Lust-Ich(快自我) の事の起りprocessus は、原初 primaire かもしれない。どうしてそうでない訳があるだろう? それが「原初」なのは明瞭だ、いったん我々が考え始めた時には。しかし、それはたしかに「最初 premier」ではない。
《Il est évidemment primaire dès que nous commencerons à penser, mais il est certainement pas le premier. 》

これが少し前に、私が言ったことだ…世界はレトリックの華 une fleur de rhétorique だ、と。文字通りの谺が自我 moi にも及ぶだろう、自我もまたレトリックの華でありうる、と。それは、快原理の壺 pot du principe du plaisir で育った、フロイト云くの "Lustprinzip" ――私は次のように定義しておくよ、《何んたらかんたら blablabla で満足しているもの》、と。(ラカン、セミネールⅩⅩ(アンコール)より粗訳ーー「ラカンによる「遡及性」とナンタラカンタラ blablabla」より)

…………

※附記

◆ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012より

ミレールのシニカル快楽主義者の考え方、主体は象徴的見せかけsemblances(理想、主人のシニフィアン、ーーそれなしでは、どんな社会もばらばらになってしまう)の必要性を認めつつ、それから距離を取り、それらは単に見せかけに過ぎないこと、そして唯一の現実界は身体の享楽であるに気づくという考え方に対抗して、我々は強調すべきだ、「自ら享楽し、他者が享楽するに任せる」という姿勢は、正当的な個人の特異性の領野を開く新しいコミュニスト秩序のみにおいて可能だと。不適任者、変わり者のユートピア、そこでは、均一化の体制への順応の束縛が取り除かれ、人間は自然な状態の植物のように野生的に成長する…もはや新しい抑圧の社会によって足枷を嵌められることなく、彼らは、神経症に、強迫症に、妄想症に、パラノイアや分裂病に咲き乱れる。我々の社会は彼らを病気と見なすかも知れないが、真の自由の世界として、「人間性」自体の動植物の繁茂を取り戻す。

我々は見てきたように、ミレールはもちろん商品市場に要求される享楽の標準化に批判的ではある。とはいえ彼の異議表明は、標準的な文化批評の域を出ない。さらに、ミレールが無視しているのは、あのような特異性が繁茂する特殊な社会-象徴的状況だ。(……)

より理論的レベルで、我々は、ミレールの(そして、もし人が後期ラカンのミレール読解を受け入れるならば、ラカンの)、やや粗野な名目論者的対比を問題視すべきだ。その対比というのは、享楽の現実界の個別性と象徴的見せかけの包被のあいだのものである。ここで喪われているのは、ラカンのセミネールXX(アンコール)の偉大な洞察である。すなわち、享楽自体の地位は、ある意味で、二重化された見せかけsemblanceの地位である。享楽はそれ自体としては存在しない。享楽は象徴的過程、その内在する非一貫性と反作用の過程の残余あるいは生産物として、ただ己れを主張するだけである。言い換えれば、象徴的見せかけsemblancesは、ある揺るぎない実体的な現実界自体に関する見せかけではない。この現実界は(ラカン自身が定式化しているように)、ただ象徴化の袋小路を通してのみ識別できる。

この観点からは、ラカンの「騙されない者は間違えるles non‐dupes errent 」のまったく異なった読み方を提示し得る。もし我々が、象徴的見せかけと享楽の現実界のあいだの対比を元にしたミレールの読解に従うなら、「騙されない者は間違える」は、シニカルで古臭い諺のようなものだ、すなわち我々の価値観、理想、規則等々は、ただ見せかけに過ぎないが、それらを侮ることなく、社会組織がばらばらにならないよう、現実のものとして振舞うべきだ、というものだ。

しかし正当ラカン派の立場からは、「騙されない者は間違える」の意味するところは全く反対である。真の錯誤illusionとは、見せかけを現実として取ることではなく、現実界自体を実体化することにある。現実界を実体的なそれ自体と取り、象徴界を単に見せかけの織物に降格してしまうことが真の錯誤である。言い換えれば、 間違える者たちは、象徴的織物を単に見せかけとしてさっさと片付け、その効力に盲目な、まさにシニカルな連中である。効力、すなわち、象徴界が現実界に影響を及ぼす仕方、我々が象徴界を通して現実界に介入できるあり方に盲目な輩が、間違える者たちである。イデオロギーは、享楽の核心を取り囲む象徴的見せかけのネットワークを、深刻に取り扱うことに元々あるのではない。より根本的レベルでは、イデオロギーとは、享楽の現実界に関して、これらの見せかけを「単なる見せかけ」としてシニカルな棄却をすることである。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012 私訳)


◆冒頭近くに一部引用したが柄谷行人によるゼロ記号

……「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。たとえば、ヤーコプソンは音韻の体系を完成させるためにゼロの音素を導入した。《ゼロの音素は、……それが何らかの示差的性格をも、恒常的音韻価値をも内包しないという点において、フランス語の他のすべての音素に対立する。そのかわり、ゼロの音素は、音素の不在を妨げることを固有の機能とするのである》(R.Jakobson、……1971)。このようなゼロ記号はむろん数学から来ている。ブルバキによって定式化された数学的「構造」とは、変換の規則である。それは形のように見えるものではなく、見えていない働きである。変換の規則においては、変換しないという働きが含まれなければならない。ヤーコブソンによって設定されたゼロの音素は数学的な可変群における単位元に対応するものだといってよい。それによって、音素の対立関係の束は構造となりうる。レヴィ=ストロースがヤーコブソンの音韻論に震撼されたのは、それによって多様で混沌としたものが秩序的であることを示すことが可能だと考えたからである。《音韻論は種々の社会科学に対して、たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと同じ革新的な役割を演ぜずにはいない》(『構造人類学』)。レヴィ=ストロースは、クライン群(代数的構造)を未開社会の多様な親族構造の分析に適用した。ここに、狭義の構造主義が成立したのである。

だが、ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって、それを取り除くことではない。ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえばニ○五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。ドゥルーズは、「構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい」(「構造主義はなぜそうよばれるか」)といったが、place-value-system(位取り記数法)において、すでにそのような「哲学」が文字通り先取られているといってもよい。この意味で構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。》(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.119-121)

…………

さてこれらと前回(幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ))にて引用した例えば次の文とどう折合いをつけるべきだろうか。

(トラウマとは、「書かれぬことをやめぬもの“C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire”」(ラカン)という意味において、現実界の審級に属する)。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年 『徴候・記憶・外傷』所収)
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

ここに鉤括弧つきで「異物」と出てくるのは、おそらくフロイトの“Fremdkörper”と捉えてよいだろう。『ヒステリー研究』1895に頻出し、この語は、トラウマに関連して使用されている。

心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物〈それは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ〉のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、(1893年)

ここでは《幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説》にだけ注目しておこう。

(たぶん? そのうち? 続く)