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2016年1月14日木曜日

レイプされそうな危険に陥った者は誰でも強姦者に話をさせるようにしなければならない

「・・・・・《欲動》は、わたしたちにとって、心的なものと身体的なものとの境界概念 ein Grenz-begriff として、つまり肉体内部から生じて心に到達する心的代表 psychischer Repräsentanz として、肉体的なものとの関連の結果として心的なものに課された作業要求の尺度として立ち現われる。」(フロイト『欲動および欲動の運命』1915ーー「欲動の最も美しい定義」)

…………

欲動は言葉なしで始まる。あるいはたいてい、叫びと意味不明の金切り声にて。境界に至るのは、叫喚が暴力的罵声に変貌したときだ。須臾の後、境界線が横切られて会話がもたらされる。主体性、反省、距離を取ることに変形される。レイプされそうな危険に陥った者は誰でも強姦者に話をさせるようにしなければならない

逆に別の側から境界を横切ることもありうる。言葉は滞りはじめる。主体は消滅し、統御できないエネルギーの流れが通路をつくり出す。そのエネルギーは、どんな距離や反省をも一掃する(……)。叫喚する群衆においての自己消滅のエクスタシー。「我々自身」を見失う圧倒的なパニックアタック。……(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 1998)


強姦者に話をさせても無理なときはあるだろうがね
サイコパスとかサドのような冷徹なやつとかさ

まあためしてみるにこしたことはないね
黙っているよりはずっといいはずだよ
「解離」して声をだすどころじゃなくなるっていう場合もあるんだろうがね

痴漢というのも似たようなもんじゃないか
痴漢者と強姦者の心理機制はまったく違うけど
まずは痴漢者に話をさせることさ
こうなる前にね




オレは痴漢を一度だけやったことがあるんだけど
高校一年のときさ

海に向かって南西に延びる半島の付け根にある地方都市。その町の私鉄郊外電車に乗って、少年は高校に通う。四両編成の自転車と競争できる速度の電車だ。事実、寝坊して乗り遅れ学校に十キロ弱の道を自転車でいけば乗客よりも先に到いた。おおくの高校生たちは、決った車輌の決ったドアから乗り込む、たとえば後ろから二つ目の車輌の後ろの扉から、というように。もちろん東京の通勤電車ほどには混みあっていないが、この路線のいくつかの駅の傍にはいくつもの高等学校があり、毎朝、鼻面に同じ年輩の少年少女の体臭が掠めるほどには混んでいる、そこでは躰が圧迫されるほどではないが、ときに肩や腕、あるいは手の甲は触れ合い、車輌が傾けば膝や太腿などが絡み合う。授業中の教室の鎮まり返ったにおいが滲み込んでいる制服の布地に鼻腔を押し拡げたり、眼前にある脂が浮かんだにきび面の模様をつくづくと凝視したり、なめらかな肌理のこまかい頬に震える生毛にふと見惚れたり、少年たちの黒く硬い頭髪の汗臭い臭いに顔を顰めたり、少女たちの長く柔らかい髪の毛から醸しだされる芳香に甘美なむずかゆさの溜息が洩れるほどの混み具合。座席に坐れることはめったになく吊り皮につかまって二十分ほど佇むことになるのだが、途中、市街地を下る長い坂の手前の駅で乗客の半分ほどは下車し、それを越えると畑がひろがり、季節のよいおりには、開け放たれた窓からガソリン臭やら生活臭の饐えたにおいとは違ったさわやかさに包まれる。風が薫り、海のにおいがかすかにして、肥料の人糞や牛糞やらのにおい、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いもする。

途中駅にある名門校の制服の、いささかもの思いに沈んだ、そして濃密な密林の液体のようなゆるやかな体温の微熱のもやに包まれた、色白でほどよい肉づきの少女も、同じ車輌の同じ扉から入り、さらに後方の連結部に近い片隅にわけ入り、吊り皮をもって車輌の揺れに身をまかせる。傍らに立った少年の鼻先に、少女の頭髪用の石鹸のにおいとともにほのかな腋臭、そのさわやかな酸味をまじえたかおりがかすめる。電車がブレーキをかけてやや強く揺れ、少年の曲げた右肘が少女の左胸にのめりこみ、その熱の籠もった柔らかな弾力感が少年をクラクラさせる。次の機会からは、わずかな揺れをも利用した。それを毎朝繰り返す。少女は避ける様子がない。車窓のむこうをぼんやりと眺めているだけだ。《さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変わらず女は軀を避けようとしない。乳房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に滲み込んできた。》(吉行)……さらなる作戦の妄想に耽った日曜日をはさんだ翌月曜日の朝、少女の姿はなくなった。


ーーなにも言わないんだな、美少年のオレによっぽどまいってたんだろうか

一度だけってのは嘘っぽいな
大学時代の山手線や千代田線や東西線地下鉄で
自ずと盛りあがってしまった股間を
目の前の女性の腰やお尻にグリグリするのが痴漢なら
もちろん何度かあるさ
《腰を引く配慮をするどころか、
むしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった》(大江)

だからこのとき、(……)猛り狂った小さな牡鶏もかくやとばかり、すっくと立ったぼくのかわいいシンボルを見るやいなや、ぼくは、 彼女の眼差 しが彼女にとってはいとも玄妙不可思議なこの場所に注がれ、 深い驚きの色を隠すことができずにいることに気がついた。 ところが彼女は視線をそらさなかった。それどころかあべこべだったのである。(アポリネール『若きドン・ジュアンの冒険』須賀慣訳)

さて強姦の話に戻らねばならぬ
彼らに話をさせるようにしなければならない

とはいえレイピストとはそもそも特殊な男たちなんだろうか

強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては、交感神経優位系が副交感神経優越系に急速に交代しなかればならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収pp.314-315)


ところでヴェルハーゲの文にある「叫喚する群衆においての自己消滅のエクスタシー」
これもある意味で「レイピスト」と同じ症状だからな
ワカルカ? そこの熱狂癖のある「あなた」よ

…………

ここでまだ初期のジジェクの文を貼り付けておこう(一部行分けしている)。

ーーただしジジェクのここでのサントームの説明は、二種類あるサントームの一側面だけである(参照:ラカン派の二種類のサントーム・症状)。

……幻想は、全体主義的な秩序の支えとして機能していながら、同時に、〈現実界〉の残余であり、それによってわれわれは「手を引く」ことができ、社会的・象徴的ネットワークからの一種の距離を維持することができるのである。われわれが白痴的な享楽に強迫的に固執し、それに夢中になってしまうと、全体主義的な操作の手もされわれには届かない。

ファスビンダーの『リリー・マルレーン』の中にも、( ……)〈幻の声〉の現象が見られる。映画全体を通じて、ドイツ兵士たちの歌う例のラヴソングがそれこそ擦り切れるまで繰り返され、この無限の反復によって、美しいメロディが、一瞬たりともわれわれを解放しない、吐き気を催させるような寄生虫に変ってしまう。ここでもやはり、その歌の地位は明らかではない。

(ケッペルスに体現された)全体主義の権力はそれを大衆操作に用いて、疲れた兵士たちの想像力を虜にしようとする。ところが、歌は、聖霊が瓶から抜け出してしまうように、権力の手から擦り抜けてしまい、自分自身の人生を生きはじめる。誰も、その歌がもたらす効果を操作することはできない。ファスビンダーの映画の決定的特徴は、この「リリー・マルレーン」という歌のもつ徹底した両義性の強調である。

この歌はたしかに、ありとあらゆるプロパガンダの手段によって広められたナチのラヴソングであるが、同時に、それを支えているイデオロギー機械から飛び出しそうな、したがってつねに禁止される危険にさらされている、価値転倒的な要素へと今にも変容しようとしている。このような、白痴的な享楽の染み込んだシニフィアンの断片を、ラカンはその教えの最後の段階で、サントームと呼んだ。サントーム Le sinthomeは症候 symptomではない。症候は、解釈によって解読されるべき、暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に意味 -の -享楽 jouis-sense, "enjoyment-in-meaning," "enjoy-meantを獲得する。

イデオロギー的組織の構成におけるサントームの役割を考えると、「イデオロギー批判」というものを考え直さなければならない。ふつうイデオロギーは一つの言説と見なされている。つまり、イデオロギーはさまざまな要素の連鎖であって、その意味はそれらの要素に特有の分節によって、つまりなんらかの「結節点」(ラカンのいう〈主人のシニフィアン〉) "nodal point" (the Lacanian master-signifier)がそれらを均質な領域へと全体化するその方法によって、重層決定されている、と。ここでわれわれは、すでに古典ともいえるラクラウの分析を引くことができよう。ラクラウによれば、特定のイデオロギー的要素は「浮遊するシニフィアン」として機能し、その意味は支配権力の操作によって遡及的に固定される(たとえば「共産主義」は他のすべてのイデオロギー的要素の意味を特定する「結節点」として機能する。「自由」は「形式的なブルジョワ的自由」と対立する「実際的自由」となり、「国家」は「階級弾圧の手段」となる、等々)。

だが、サントームという次元を考慮に入れたとたん、イデオロギー的経験の「人為的」性格を告発し、イデオロギーによって「自然なもの」「与えられたもの」として経験された対象がじつは言説による構築物であり、象徴的重層決定のネットワークの結果であることを暴露するだけでは十分ではなくなる。もはや、イデオロギー的テクストをコンテクストの中に置き、その必然的に見落とされていた余白を眼に見えるようにする、というだけでは十分ではない。

われわれのなすべきこと(ギランやファスビンダーのやっていること)は、サントームをコンテクスト(そのコンテクストのおかげで、サントームは魅力を発揮している)から分離し、その徹底した馬鹿らしさを明るみに引きずり出すことである。いいかえれば、われわれがやらなくてはならないのは、(ラカンが『セミネール ⅩⅠ』で用いている表現を借りれば)高価な贈り物を糞便の贈り物に変えること、われわれを金縛りにする魅惑的な声を、〈現実界〉の猥褻で無意味な断片として経験することである。この種の「異化」はおそらくブレヒト的な「異化 Verfremdung」よりもさらに根底的である。この種の異化は、現象をその歴史的全体性の中に置くことによってではなく、その直接的現実、つまり「歴史的媒介」を摺り抜けるその馬鹿げた物質的現前がまったくつまらないものだということをわれわれに経験させることによって、ある距離を生み出すのである。

われわれは、弁証法的媒介、つまり現象に意味を付与するコンテクストを加えるのではなく、それを除去するのである。したがって、『未来都市ブラジル』や『リリー・マルレーン』が描いているのは、「全体主義の抑圧された真実」などというものではない。これらの作品は全体主義の論理にたいしてその「真実」を対置しているのではなく、その白痴的享楽の凶悪な核を分離することによって、実際的社会的束縛としての全体主義を解体しているのである。(ジジェク『斜めから見る』1991 鈴木晶訳 p239-242)




手短に言うなら、人はここで、意味と声のアンチノミーを見ることができる。すなわちシニフィアンと対象(欲動の対象としての対象)とのあいだのアンチノミーとしての声である。

ひとつのメカニズムがある。それは意味と理解に向かってやっきになるメカニズムだ。その途上、声はうやむやになる。そしてまさに同じ位置に、別のメカニズムがある。それは意味とは何のかかわりもなく、むしろ享楽にかかわる。

その享楽はふつうは、意味に覆われている。意味に舵取りされている。意味に枠取られている。そして意味から離脱したときにのみ、欲動のかなめの対象として顕われる。人は言うことができる、声は意味の糞便だ、と。

図式的に言えば、どの発声も意味作用の側面がある。それは究極的には「欲望」の側面だ。…他方、対象の廻りを旋回する「欲動」の側面がある。対象、すなわち声対象、全く掴まえどころのない朧ろげな何か。

したがって、どの発声にもミニチュアドラマ、 ミニチュアコンテストがある。縮減されたモデル、精神分析が欲望と欲動のライヴァル的側面として捉えようとするモデルが。

欲望において、我々は花火を見る、ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と呼んだものの花火を。しかし欲動は、フロイトが言うように、沈黙している。声対象の廻りを旋回しているかぎり、欲動は沈黙した声だ。何も話さない声、まったく言語のように構造化されていない声。

声は言語と身体を結ぶ。だがどちらにも属していない。声は、言語学の部分でもなく、身体の部分でもない。声は自身を身体から分離する。身体にフィットしない。声は浮遊する。…… (Mladen Dolar,His Master's Voice--なんて素敵な声なんだ![Che bella voce! ])




高橋悠治:それはね、だけど、ある種の音楽を権力が利用するってことは言えるんですが、じゃあその音楽自体は何なのか。ミラン・クンデラが書いていたのを思い 出したんだけど、チェコのフサークが大統領がポップ歌手を記念式典に呼ぶ話、やっぱり、ポピュラリティーを持つということは、そういう人に呼ばれなくって も、そこにもう権力構造が在る、そういう自覚が無いのは、ミュージシャンですね(笑)。(「音楽の時間」―高橋悠治・今福龍太 音楽を句読点とした対話―

音楽によって
慈悲や平和と非暴力のメッセージを伝えるのはひとつのやりかただ
と法王は言われた
他方では
音楽はひとを戦いに 駆り立て
民族主義に引き込むこともある
音楽は人びとの感じ方に影響をあたえることができる
だから
あなたには責任があります
と法王は言われた
とりわけ若い人たちに対しては

ーー高橋悠治 音の静寂静寂の音(2000)