ところで諸君、きみらが聞きたいと思うにしろ、思わないにしろ、僕がいま話したいと思うのは、なぜぼくが虫けらにさえなれなかったか、という点である。まじめな話、ぼくはこれまで何度虫けらになりたいと思ったか知れない。しかし、ぼくはそれにすら値しない人間だった。誓っていうが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。(ドストエフスキー『地下室の手記』)
四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)
【血まみれの頭が飛び出す闇夜】
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(……)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)
…………
◆ニーチェ『道徳の系譜』より(いくらか区分けして小題をつけているが、一連の文章である)。
【地上という地下室】
地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その勇気をもっている者が誰かあるか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険家君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるのか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえーー今度は私が聴き役だ。――
――「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞えてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱さを嘘でごまかして手柄に変えようというのですーー確かにそうに違いありませんーー全くあなたのおっしゃるとおりです。」
【美しい魂の猫撫声】
――それから!
――「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病そのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐をすることができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕さえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなりーーかれらの為すところを知るはただわれらのみ!』)。その上、『敵への愛』を説きーーそしてそれを説きながら汗だくになっています。」
【贋金造りども】
――それから!
――「すべてこららの陰謀家や隠れ場の贋金造りどもは惨めです。それは疑いありません。奴らは一緒に蹲まって温まり合ってはいるのですけれどーーしかし奴らの言うところによりますと、奴らの惨めさは神意によって選ばれた特別の扱いであって、一番可愛がられる犬が打ちゃく(手偏+鄭)されるのと変わりがない。恐らくこの惨めさもまた一つの準備、一つの試練、一つの訓練なのだろう。のみならず恐らくーーやがては償われ、莫大な利子を附けて、黄金で、いや幸福で払い渡される代物なのだろう、というのです。それを奴らは『至福』と呼んでいます。」
【わるい空気です! わるい空気です!】
――それから!
――「今度は、私にこんなことを仄めかします。奴らはその唾を舐めていなければならない(恐怖からではない、断じて恐怖からではない! むしろ、神がおよそお上〔かみ〕を敬えと命じたまうたからだ)あの地上の有力者、支配者たちより、単により善いばかりではない。――単に『より善い』ばかりでなく、更に『より幸福』でもある。少なくともいつかはより幸福になるだろう、と。だが、もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」
【最も欺瞞に充ちている窖の獣ども】
――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《反感〔ルサンチマン〕》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……
――「わかりました。もう一度耳を欹てましょう(ああ! これは! どうだ! 鼻をつまもう)。奴らがすでに幾たびとなく繰り返したあの言葉が今やっと聞えます。『われわれ善き者――そのわれわれこそ正しき者だ』と。奴らの欲するもの、それを奴らは報復と呼ばず、却って『正義の祝勝』と呼びます。奴らの憎むもの、それは奴らの敵ではないのです。そうです! 奴らは『不正』を憎み、『背神』を憎むのです。奴らが信じかつ望むもの、それは復讐への希望、甘美な復讐(――『蜜より甘き』とすでにホメロスが呼んだ)の陶酔ではなくして、むしろ『神を無みする者に対する、神の、義しき神の勝利』なのです。奴らにとって愛すべきものとして地上に残されているもの、それは憎悪における同胞ではなくして、むしろ『愛における同胞』であり、奴らの言うところによれば、地上におけるすべての善くかつ正しい者なのです。」
【 もう沢山だ! もう沢山だ!】
――では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の至福――、それを奴らは何と呼んでいるか。
――「どうでしょうか。私の耳に間違いないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。――しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。」
――もう沢山だ! もう沢山だ! (ニーチェ『道徳の系譜』第一論文「善と悪」・「よいとわるい」)
…………
【フロイトによる精神分析とニーチェの洞察の近似性の指摘】
私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。(フロイト『自己を語る』1925)
【精神分析など知りたくないという防衛】
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)
ーーその能力の差はあるのかもしれない、そしてそのスタイルへの違和がある人もあるだろう、また一時期似非精神分析的言説が溢れ返ったための嫌悪もあるのかもしれない。だが、現在、ドストエフスキー、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン系譜の仕事をまともにやっている稀な人物のひとりはジジェクだろう。多くの「思想家」は、相変らず「知りたくない」の態度を保ったままだ。
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。
彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。
それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理上現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。
【ペドフィリア生産装置としての教会】
人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、猥褻な否認された裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。
言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻なな秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この秘かな面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。
【敢えて地下室を動かせ!】
したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。
慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ!
途中、軍隊における「冥界」について触れている箇所があるが、より詳しくは「拷問とイニシエーション儀式」を見よ。
…………
ところで、なぜ組織自体の「無意識」、その慣習の猥褻な冥界が生まれるのだろう。その直接的な説明ではないが、ヒントのひとつは下記のいくつかの文章にある。
【原始的集団的情緒の昂揚と思考の制止】
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
【死の欲動のゼロ度】
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING』、2012、最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」より、私訳)
【集団形成の善悪両面】
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
【人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物】
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)
Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »(Lacan, Seminar XX)
…………
以下は別の記事にしようと思ったもので、上での話題とはそれほど関係がない(曖昧なままなので、敢えて別に投稿せず、ここに掲げる)。
※参考(「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」))より
しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。
ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。
これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。
我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)
あくまで参考であり、今掲げたヴェルハーゲとジジェクとのあいだにはたとえば欲動についての考え方は(少なくとも一読は)異なる、→「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」
二人はある時期まで(すくなくとも2002年頃くらいまでは)互いに褒め合っていた。
たとえば、前世紀末にヴェルハーゲの書のひとつが英訳にて上梓されたが、それに対するジジェクの書評はかくの如し。
◆Does the Woman Exist? From Freud's Hysteric to Lacan's Feminine By Paul Verhaeghe
“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” – Slavoj Žižek
二人の「蜜月」が終った契機のひとつは、欲動、あるいは享楽の解釈の相違が決定的だろうとわたくしは見る。それはラカンのセミネールⅩⅩからⅩⅩⅢにかけての移行をどう読むかにもかかわる。
最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)。
one has to underline how the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being "beyond" the phallus.(Lacan Le-sinthome(Re-inventing the Symptom - Essays on the Final Lacan, edited by Luke Thurston, New York: Other Press, 2002) by Lorenzo Chiesa、PDF)
この書評にはヴェルハーゲ批判もある。主にラカンの「サントームとの同一化」の捉え方である(ただしわたくしには、その批判はやや酷だと思えるが、その内容には今は触れない)。もっと決定的なのは享楽が“beyond the phallus” なのかそうでないのかの点だろう。このあたりはわたくしには曖昧なままである。そのときの核心のひとつは内容と形式の相違である。形式としてファルスの彼岸に残っているものを、「ファルスの彼岸」と言ってはまずいのだろうか?
幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説(中井久夫ーー「現実界とはゼロのことである」)
この文は、「享楽は内容としては消去されたが、享楽のシステム自体は残存し、象徴界の非一貫性との直かの遭遇の際に顕在化して働く」と変奏できる。
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
享楽、あるいは現実界は「先史時代」であり「考古学」の対象、象徴界は「歴史時代」、つまり「歴史学」の対象であるとすれば、「先史時代」がないと言ってよいものだろうか・・・
ーーこれらの享楽は現実界とも言い換えられる。そしていまはこの二つの概念の相違は曖昧なままにしておく。ジジェクの簡潔な言い方なら次の通り。
なおかつ中井久夫の文の変奏も、「原トラウマ」ーー、ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」(システム的トラウマ)ーーをそのまま享楽と同じものとはできないことは十分承知の上での変奏である)。
ーーこれらの享楽は現実界とも言い換えられる。そしていまはこの二つの概念の相違は曖昧なままにしておく。ジジェクの簡潔な言い方なら次の通り。
現実界としての享楽は失われている。というのは、象徴秩序に住む人びとは決して直接には与えられない等々だから。しかしながら、享楽のまさに喪失がそれ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生む。だから享楽は同時に、常に既に失われている何かであり、かつまたそれから決して免れえない何かである。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この根源的に曖昧な現実界の地位に基づいている。それ自体を反復する何かが、現実界自体である。そしてそれはまさに最初から失われており、何度も何度も回帰して、しつこく己れを主張し続ける。(ジジェク、2012、私訳)
なおかつ中井久夫の文の変奏も、「原トラウマ」ーー、ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」(システム的トラウマ)ーーをそのまま享楽と同じものとはできないことは十分承知の上での変奏である)。
トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)
ーーJENSEITS DES PHALLUS?
Jenseits des Lustprinzips(快原理の彼岸)?
Jenseits von Gut und Böse(善悪の彼岸)?
「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--(ニーチェ『道徳の系譜』)
(ロレンツォよ! 名前が致命的だよ、きみは。教会 chiesa のロレンツォだって?)
ヴェルハーゲの「先史時代」をめぐる考え方は次ぎの通り。
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」より)