人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)
アブグレイブ(刑務所)は、単に第三世界に対するアメリカ人の傲慢さの事例ではない。恥辱をあたえる拷問に服従させることによって、イラク囚人は事実上、アメリカ文化へとイニシエーションを果たすのだ。彼らは、個人の尊厳、民主主義と自由の公的な価値への欠かせない補足を形作る猥雑な裏面を味わうのだ。(ジジェク、2004)
ーーという文を拾ったので、いくらかのメモ(MOVE THE UNDERGROUND! .........What's Wrong with Fundamentalism? - Part II .........Slavoj Zizekより)。
以前次ぎのような文章を拾ったことがある(参照:世界資本主義のガン/イスラム対抗ガン)。
この「排斥主義」は元を正せば欧米のイスラム教徒排斥の裏返しです。国家であれば「自衛のための攻撃」と呼ばれ、国家でなければ「テロ」と呼び捨てるのはアルカイダやタリバンを相手にしたときだけではなく、イスラエルとパレスチナの関係でもそうでした。
そうした卑劣な「近代国家」像に「神の国家」の力を対峙させる──それは斬首された米国人ジャーナリストたちがその公開動画でオレンジ色の服を着せられていたことでも明らかです。あれは米国の、アブグレイブ刑務所の囚人服の再現なのです。私たちは私たちの拠って立つ世界の基盤への本質的な問いかけに直面しているのです。(「イスラム国」とは何か?(北丸雄二))
…………
以下の貼付された画像はAbu Ghraibで検索したものだが、その真贋は読み手がじかに確認していただくことを願う。
まずは「MOVE THE UNDERGROUND! .........What's Wrong with Fundamentalism? - Part II .........Slavoj Zizek」からではなく、この論が書かれた後に(おおよそ2年後に)上梓されたジジェクの超自我をめぐる叙述をかかげる(邦訳が手許にあるのと類似した叙述があるからだ)。
二〇〇五年十一月、ブッシュ大統領は「われわれは拷問していない」と声高に主張しつつ、同時に、ジョン・マケインが提出した法案、すなわちアメリカの不利益になるとして囚人の拷問を禁止する(ということは、拷問があるという事実をあっさり認めた)法案を拒否した。われわれはこの無定見を、公的言説、つまり 社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合いと解釈すべきであろう。もしまだ証拠が必要ならば、これもまたフロイトのいう超自我という 概念が今なお現実性を保っていることの証拠である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)
公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない。ロブ・ライナー監督の『ア・フュー・グッド・メン』を思い出してみよう。ふたりの米海軍兵士が、同僚を殺した罪で軍法会議にかけられる。軍検察官は計画的殺人だと主張するが、弁護側(トム・クルーズとデミ・ムーアという最強コンビだから裁判に負けるはずはない)は被告人たちがいわゆる「コード・レッド」に従っただけなのだということを立証してみせる。この掟は、海兵隊の倫理基準を破った同僚を夜ひそかに殴打してもよいという、軍内部の不文律だった。このような掟は違法行為を宥恕するものであり、非合法であるが、同時に集団の団結を強化するという役目をもっている。夜の闇に紛れ、誰にも知られず、完璧におこなわれなければならない。公の場では、誰もがそれについて何も知らないことになっている。いや積極的にそのような掟の存在を否定する(したがって映画のクライマックスは、予想通り、殴打を命じた将校ジャック・ニコルソンの怒りの爆発である。彼が公の場で怒りを爆発させたということは、彼の失脚を意味する)。
このような掟は、共同体の明文化された法に背いている一方で、共同体の精神を純粋な形で表象し、個々人に対して強い圧力をかけ、集団の同一化を迫る。明文化された<法>とは対照的に、このような超自我的で猥雑な掟は本質的に、人から見えない所で密かに口にされる。そこに、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』の教訓がある。カーツ大佐という人物は野蛮な過去からの生き残りなどではなく、現代の権力そのもの、<西洋>の権力の必然的結果である。カーツは完璧な兵士だった。そしてそれゆえに、軍の権力システムへの過剰な同一化を通じて、そのシステムが排除すべき過剰へと変身してしまったのである。『地獄の黙示録』の究極の洞察はこうだーー権力はそれ自体の過剰を生み出し、それを抹殺しなければならなくなるが、その操作は権力が戦っているものを映し出す(カーツを殺すというウィラードの任務は公式の記録には残らない。ウィラードに命令を下す将軍が指摘するように、「それは起きなかった」ことなのである。)(ジジェク『ラカンはこう読め!』P152-153)
…………
さてここからが2004年の論(私訳)である。
…バグダッドのアブグレイブ刑務所で起こっている異様な出来事についてのスキャンダラスなニュース、それが突然暴露されたとき、我々は、米国人が彼ら自身をコントロールしていないというまさにこの側面を瞥見することになる。
2004年4月の終りに公けになった米兵によって拷問され凌辱されたイラク囚人を示す画像、これに対するブッシュ大統領の反応は、予想通りに、次のことを強調している。すなわち、兵士たちの振舞いは、民主主義、自由、個人の尊厳の価値のために、米国人が表したり闘ったりするものを反映することのない孤立した犯罪であると。そして実際に、米国行政を守勢のポジションに置いたこのケースが公的スキャンダルになった事実自体が、ポジティブな兆候だ、ーーほんとうの「全体主義的」体制では、このケースは単純にもみ消されるだろうと。(……)
しかしながら、数多くの心をかき乱す特徴が単純な画像を複雑化する。この数ヶ月のあいだ「国際赤十字」は、イラクにおける米軍当局を定期的に責め立てていた。それは、イラクにおける軍監獄での虐待についての報告書をもって、である。そして報告書は意図的に無視された。というわけで、米国当局は何が起り続けていたかについての信号を得ていなかったのではない。彼らが飾り気なく犯罪を認めたのは、メディアによる情報の暴露に直面したとき(そしてそのため)のみである。
何も不思議ではない、再発防止方策が、米軍看守に対して、デジタルカメラとヴィデオディスプレイ付きの携帯電話の所有禁止だったことは。ーー(虐待)行為ではなく、その公けの流通の禁止というわけだ…。二番目に、米軍司令官の即座の反応が、控え目にいっても、驚くべきものだった。すなわち、兵士たちはジュネーブ条約の規則を正しく教えられていない、という説明だ。ーーあたかも囚人を虐待や拷問しないように教育しなければならない、とでも言うがごとく!
しかし主要な特徴は、以前のサダム体制における囚人拷問の「標準的」方法と米軍の拷問とのあいだにあるコントラストである。以前の体制では、直接的かつ野蛮に苦痛を与えることにアクセントが置かれていた。他方、米兵たちのやり方は心理的屈辱を与えることに焦点がある。さらに、彼らはカメラで虐待を記録するのだが、その画像のなかに拷問実施者が含まれており、彼らの顔は囚人の捻じ曲げられた裸体と一緒に愚かにも微笑している。これが拷問過程のなくてはならない一部なのであり、サダム体制の拷問の秘密主義とはまったく対照的だ。
私はあのよく知られた画像を見たときーー頭を黒い頭巾でおおった裸の囚人の画像で、彼の肢には電気ケーブルが付着され、椅子の上に滑稽な演劇的ポーズで立っているヤツだーー、最初の反応は、これはマンハッタンの下町での最新のパフォーマンスアートショウのショットだというものだ。まさに囚人の姿勢や衣装が劇場風の構成、活人画 tableau vivant の一種のようであり、思い起さずにはいられないのは、アメリカパフォーマンスアートの全領野、あるいは「残酷劇」、メイプルソープの写真、デヴィット・リンチの映画の風変わりな場面…だった。
そしてこの特徴なのだ、事態の臍を我々に示してくれるのは。あの画像は、アメリカの生活様式の現実に慣れ親んでいる者にとっては誰にでもすぐさま、アメリカのポピュラーカルチャーの猥褻な裏面を思い起こさせる。そう、拷問と屈辱の入会儀式だ、閉じられたコミュニティへと受け入れられるための、人が耐え忍ばなければならないイニシエーション儀式である。
我々は、米国の出版物にて定期的な間隔で、似たような写真を見ないだろうか? それはたとえば、軍隊や高校のキャンパスでスキャンダルが暴発したときだ。そこでは、入会儀式がいき過ぎて、兵士や学生が許容されるレヴェルを超えて犠牲になる。屈辱的なポーズや下劣な仕草(たとえば仲間の前でビール瓶を肛門に突っ込まれるような仕草)を余儀なくさせられたり、針で突き刺されたり等々。(ついでながら、ブッシュ自身が、イエール大学の最も特権的な秘密結社、「髑髏と骨 Skull and Bones」の会員であり、彼はどんな儀式を忍んだのかを知るのは興味深いことだ…)。
次ぎの画像はブッシュ元大統領、そして現在ならケリー国務長官出身の「髑髏と骨」パーティのものらしい(女性会員は、1991年から許されることになったそうだ、参照→Yale's Skull and Bones Admits Women)。
(WEB EXCLUSIVE: Every Yale Secret Society, 2009-2010 (or, A Tribute to Rumpus)) |
ジジェクは上の論では米国悪罵に終始しているが、入会儀式の一種の「拷問」はどこでもみられるだろう(おそらく少なくとも先進諸国では)。その過剰さの相違はあるだろうが(日本での新入生あるいは新入社員歓迎儀式を思い起こせばよい)。
ここでは英国名門のケンブリッジ大学の入学儀式の画像を貼り付けておこう。“Cambridge don warns bullying students to stop 'sadistic' Freshers initiations(17 Oct 2015)”からである。
まさにアブグレイブ風であるといってよいだろう。
ここでなぜかクンデラを引用しておくが、小説のなかの文であり、なにも信用する必要は毛ほどもない。
「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)
「私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。」(フロイト)
とはいえ、ここでフロイトの使っている「超自我」は、冒頭近くに掲げたジジェクのいう超自我とは違う(ジジェクの文には、《社会的自我理想と、猥雑で超自我的な共犯者との間の引っ張り合い》とあった)。
フロイトの言っているのは、ラカン派文脈では「自我理想」あるいは「父の名」のことであり、ジジェクの言っているのは、「母なる超自我」あるいは「享楽の父」である。
後者は、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者、あるいは原初の全能の母であり、それは、猥雑で獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我である。これはラカンが超自我を「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan ,1955)と形容したことに基づく。
日本でも中井久夫が「母性のオルギア(距離のない狂宴)と父性のレリギオ(つつしみ)」のあいだのコントラストを語っている。
フロイトがほぼ自我理想=超自我としているのに対しーーフロイト自身の微妙な表現はあるにしろ、すくなくとも主著『自我とエス』からの標準的解釈では今でもほぼ自我理想=超自我であるーー、標準的なラカン派の捉え方(おそらく?)をいささかくどくなるが、ここに貼り付けておこう。
<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。
<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級……((『ラカンはこう読め』2006)
…………
最後に注記しておくが、フロイトやラカンが男や女というとき、解剖学的な性別のことではない。
父の権威の斜陽の時代、それはことさら1990年代以降顕著になっているが、その時代には、人は女性化の方向に不可避的に追いやられるというのがラカンの考え方である(ラカン曰く、「女性への推進力」)。すなわち、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(エクリ、566)ことに気づくためである。
この観点からは、21世紀は、猥雑で獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我の時代である。すなわち「母性のオルギア(距離のない狂宴)」の時代ということになる。
精神分析的な用語ではなく、ごく日常的な言い方をすれば、「理念」というオブラートなしの「えげつない」時代であるといってもよい。
※参照:フロイトとラカンの「父の機能」(PAUL VERHAEGHE)
最後に注記しておくが、フロイトやラカンが男や女というとき、解剖学的な性別のことではない。
父の権威の斜陽の時代、それはことさら1990年代以降顕著になっているが、その時代には、人は女性化の方向に不可避的に追いやられるというのがラカンの考え方である(ラカン曰く、「女性への推進力」)。すなわち、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(エクリ、566)ことに気づくためである。
この観点からは、21世紀は、猥雑で獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我の時代である。すなわち「母性のオルギア(距離のない狂宴)」の時代ということになる。
・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……
・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)
※参照:フロイトとラカンの「父の機能」(PAUL VERHAEGHE)