本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。(マルクス『資本論』)
自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(……)ハイデッガーもシュミットも標的としているのは、英米の「自由主義」である。普通に「民主主義」と呼ばれているものは本来自由主義であり、ナチズム(国家社会主義)こそ真に民主主義的なのだといいたいのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収)
最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」ーー「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(ニーチェ)より)
ニーチェの「人間は幸福をもとめて努力するのではない。そうするのはイギリス人だけである」(『偶像の黄昏』)における「イギリス人」とは、これもまたアングロサクソン流の資本主義家(世界資本主義家)のことである。
自由になった人間は、自由になった精神はなおさらのことだが、小商人、キリスト者、牝牛、婦女子、イギリス人、その他の民主主義者が夢想する軽蔑すべき安穏さを踏みにじる。自由な人間は戦士である。――民族にあってと同じく個々人にあっても、何によって自由は測られるのか? 克服されなければならない抵抗によってである、上位を保つために費やされる労苦によってである。自由な人間の最高の典型は、最高の抵抗がたえず克服されているところで、すなわち、暴虐からへだたること五歩、隷属の危険と隣りあわせのところで探しもとめられるべきであろう。(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」三八番 原佑訳)
この意味で、われわれいわゆる「先進諸国」の人間は、誰もがユダヤ人=イギリス人である、ーーというのが言いすぎならば、イギリス人あるいはユダヤ人の表徴である金融資本家(高利貸し)のシステムの上で踊っている種族である。
かつまた現在猖獗する市場原理主義、新自由主義などの語彙群は、その定義によるにもかかわらず、ここでは「世界資本主義」と相同したものとして扱う(参照:「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」)。
…………
ここで、一九九一年の湾岸戦争について、まだ戦争最中に書かれた岩井克人の「歴史の終焉と歴史の現実」(初出1991.4.1『二十一世紀の資本主義論』所収)からいくらか抜き出してみよう。
戦争の発端は、サダム・フセインが石油権益をもとめてイラク軍をクウェートに侵攻させたことにある。それだからこそ国連の安全保障理事会はイラクにたいする武力行使をみとめる決議をおこなったのであり、その決議に裏付けられてアメリカを主軸とする多国籍軍は一月十六日にイラクへの攻撃を開始したのである。そこには、国家主権の不可侵性という国際社会における民主主義とそれを不法にも踏みにじった独裁国家の覇権主義という単純明快な対立の構図がある。ブッシュ大統領ならば、これはたんに「善」と「悪」との闘いにすぎないというだろう。
……いくらイラクの軍隊が世界各国の死の商人たちのよって重装備されてきたといっても、最終的には、アメリカ軍の高度な軍事技術と日本やドイツから供与される潤沢な資金をそなえた多国籍軍の力によって圧倒されてしまう運命であるにちがいない。
だが、わたしは、この戦争がこのように勧善懲悪的な結末をとげてしまうであろうことにたいしてある種の恐怖を感じてしまうのである。それはけっしてサダム・フセインを支持するからでも、戦争の続行をのぞんでいるからでもない。わたしが感じているのは、このような湾岸戦争の勧善懲悪的な結末が、「歴史」というものにかんするひとつの誤謬にみちた物語をひとびとの心に定着させてしまうことにたいする恐怖なのである。
……西欧社会においてひろく流布しているこのような勧善懲悪的な構図にたいして、アラブ諸国だけでなくアジアやアフリカの多くの発展途上国においては、この湾岸戦争を異なった宗教、異なった文明、異なった価値、異なった歴史のあいだの衝突の象徴とみなす意識が次第に強くなってきている。それは、ユダヤ・キリスト教対イスラム教、ヨーロッパ文明対アラブ文明、さらに西欧的価値観対非西欧的価値観といったさまざまな対立の形態をとることになる。もちろん、これらの地域のひとびとがフセインのクウェート侵攻を全面的に是認しているというのではない。アラブ世界の一部をのぞけば、フセインの行動をそのまま正当化する人間は少ないだろう。だが、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを軍事的にたたけばたたくほど、西欧社会にたいする反発がこれらの地域における民衆意識の底流として強まっていくのである。そして、それは究極的には、西欧諸国の帝国主義的な膨張によって多くの非西欧地域が軍事的政治的経済的に支配されていたかつての植民地時代の不幸な歴史を重ね合わせられることになっていく。「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)を完成させるはずの多国籍軍の軍事的な勝利は、皮肉なことにその「歴史の終焉」をさらに引き延ばす効果をもつことになるのである。
《ユダヤ・キリスト教対イスラム教、ヨーロッパ文明対アラブ文明、さらに西欧的価値観対非西欧的価値観といったさまざまな対立の形態》とある。かつまた《アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを軍事的にたたけばたたくほど、西欧社会にたいする反発がこれらの地域における民衆意識の底流として強まっていく》ともある。
ではムスリム(イスラム教徒)に穏健な態度をとればいいというのか。
西洋のリベラル左翼が自らを有罪証明すればするほど、彼らはいっそう、そのイスラム憎悪を隠蔽しようとする偽善ぶりをムスリム原理主義者に非難される。この布置は、超自我のパラドックスの完璧な再生産である。あなたは〈他者〉の要求に従えば従うほど、あなたは罪深くなる。まるで、イスラムに寛容であればあるほど、あなたはいっそうの圧迫を受けるだろう、というかのようだ。(Slavoj Žižek on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?)
《結局,現代の世界資本主義の矛盾は解きがたいとしか言いようがないでしょ。》(浅田彰 『ハイパーメディア社会における自己・視線・権力』(浅田彰 大澤真幸 柄谷行人 黒崎政男)より)
ーーというのが、わたくしの知る限りでの89年のベルリンの壁崩壊以降の90年代の代表的な「思考」だった。
さてもう少し岩井克人を続けよう。
ただし、わたしはここで、この湾岸戦争のなかに存在するこのような文明史的な対決という構図を必要以上に強調したくない。たしかにそれは否定すべくもない重要性をもっており、それぬきには湾岸戦争を語ることはできない。だが同時にわたしは、このような文明史的な対立を全面的に強調する議論は、結局、あの「歴史の終焉」という物語のたんなる裏返しにすぎないとおもうのである。それは、歴史を理念と理念とのあいだの対立抗争の過程としてえがくあのヘーゲル主義的な歴史観を裏返しのかたちで繰り返してしまう危険性をもつのである。
だが、いうまでもなく、「歴史」を現実に動かしてきたのは理念の力ではなく、資本主義の力である。それは、地域と地域、階級と階級、技術と技術といった世界のなかにある既存のあらゆる差異性を搾取するとともに、まさにそれによって地域と地域、階級と階級、技術と技術とのあいだの差異性をあらたに再編成しなおしていく言葉の真の意味での「歴史」的な過程なのである。(……)
人間の普遍的な原理としての自由の理念の勝利を宣言する「歴史の終焉」という物語は、まさにこの世界資本主義という「歴史の現実」を隠蔽する役割をはたしているのである。(……)わたしたちはこれから、この「歴史の終焉」という物語と世界資本主義という「歴史の現実」とのあいだの矛盾がするどく露呈していく混乱にみちた世紀末に突入していることになるだろう。その世紀末的混乱がどのような結末をむかえるかがわからなければ、二十一世紀についての展望などだれも描くことはできないのである。
…………
北丸雄二氏の「「イスラム国」とは何か?」という記事を読んだ。
氏のプロフィールを眺めると次ぎのようにある、《毎日新聞から東京新聞へ転社して社会部で警視庁公安や国会、事件遊軍などを担当。さらにニューヨーク支局長を経て96年に独立。そのままNYに住みつきただいま在米21年目。》
9.11の後で私たちはこれからの戦争が国家vs国家ではなく、国家vsテロ集団だということを知らされました。領土も持たず絶えず移動する相手にどういう戦争が可能なのか、それを考えている最中に今度は「イスラム国」が出てきました。
オバマ大統領も今年初め彼らをNBAになぞらえて「一軍に上がれない連中」「大した脅威ではない」と見ていました。ところがあれよあれよと勢力を拡大しシリアからイラクに侵攻し、この6月に指導者のアブバクル・バグダディが自らを「カリフ(ムハンマドの後継者=最高権威者)」と名乗って「イスラム国」の建国を宣言したころにはすでに国際的に無視できない存在になっていたのです。
アルカイダもタリバンも「国」を模索しませんでした。ところがこの「イスラム国」は「国」です。ただしこの「国」は私たちの言う「国」とは違うのです。
現在の世界は「それぞれが主権を有する国家」同士の共存体制を執っています。日本も米国も英国もぜんぶそんな「主権国家」です。この考え方は17世紀のウエストファリア条約で確立しました。この「主権国家」は帝国主義や植民地主義や第一次、第二次世界大戦を経て統合したり分裂したり独立したりして現在に至ります。ただし「主権国家の共存体制」といっても国境線がまっすぐだったりするアフリカや中東では無理矢理この「国家」像を押し付けられた感も残ります。
それに対して「イスラム国」の「国」は違います。これは国境や領土や国民といった世俗的な国ではなく「神の国」という意味です。イスラム教を真に信じる人がいれば国境も領土も関係なくそこが「イスラム国」だという意味なのです。
これはつまり、世俗的な「国家」を単位として構成されている現在の世界に対する、根本的な対峙なのです。そんな堕落した世俗の「国」ではなく、神の「国」なのだ、ということです。
そこに世界数十カ国から10000人以上の若者が戦闘員として集まっている。欧米からも3000人がシリアに入っていると言われます。彼らはイスラム原理主義への共鳴者だけではなく、金権主義で堕落した西欧社会に愛想を尽かした層、西欧で高まるネオナチなどによる移民排斥運動あるいは9.11以降の米国でのイスラム教嫌悪で真っ向から差別を受けた中東などからの移民2世3世です。さらには「自分探し」「英雄志向」「変身願望」の者たちも少なくありません。なにせイスラム教とは本来、困っている者たちを無償で支え合う理想の相互扶助、平等の宗教だからです。イスラム教においては利子を取ることさえ禁止されています。
ところが「イスラム国」はそこから徹底して異教徒を排斥する。異教徒なら奴隷にしても斬首してもかまわないと公言する。支持者たちはそれを「度を超した過激」とは見ずに「純粋」なイスラム主義と受け取る。
この「排斥主義」は元を正せば欧米のイスラム教徒排斥の裏返しです。国家であれば「自衛のための攻撃」と呼ばれ、国家でなければ「テロ」と呼び捨てるのはアルカイダやタリバンを相手にしたときだけではなく、イスラエルとパレスチナの関係でもそうでした。
そうした卑劣な「近代国家」像に「神の国家」の力を対峙させる──それは斬首された米国人ジャーナリストたちがその公開動画でオレンジ色の服を着せられていたことでも明らかです。あれは米国の、アブグレイブ刑務所の囚人服の再現なのです。私たちは私たちの拠って立つ世界の基盤への本質的な問いかけに直面しているのです。
冒頭に《これからの戦争が国家vs国家ではなく、国家vsテロ集団だということを知らされました》とあるが、国家側が殆んどすべて世界資本主義を信奉する諸国であるなら、世界資本主義vsテロ集団ということにもなり、世界資本主義それ自体「国家」ではない。かつまた、《世俗的な「国家」を単位として構成されている現在の世界に対する、根本的な対峙》ともあるが、これもその根は資本の欲動の席捲に直面した反資本主義の対峙とすることができるのではないか。とはいえ北丸雄二氏の文章が、《世界資本主義という「歴史の現実」を隠蔽する役割をはたしている》とまで言うつもりはない。
事態を複雑にしているのは、さまざまな抗議活動が反資本主義的な衝動をもっているという点だ。抗議に加わるひとたちは直感的に、自由市場原理主義とイスラム原理主義が互いに背反しないことを察知している。(スラヴォイ・ジジェク 「楽園にトラブル発生」)
NAMの「原理」はいわば遺伝子であって、資本=ネーション=ステートというガンのなかに、対抗ガンを作り出す。(NAM〜New Associationist Movement(2000-2003))
いずれにせよ、北丸氏の書くように《私たちは私たちの拠って立つ世界の基盤への本質的な問いかけに直面している》ことには相違ない。
イスラム教とは、コミュニズム衰退後にその暴力的なアンチ資本主義を引き継いだ「二十一世紀のマルクス主義」である。(ピエール=アンドレ・タギエフーージジェク『ポストモダンの共産主義』からの孫引き)