…………
さて、「フロイトの「拘束されたエネルギーと拘束から解放されたエネルギー」をめぐって」に引き続いて、ジジェクの最初期の著作における叙述に拘ってみよう。
ジャック=アラン・ミレールは、その公表されていないセミネールで…、特殊排除から一般排除(もちろん遠回しに、アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を仄めかしている)について話している。
ラカンが1950年代に排除の概念を導入したとき、それが示したのは、ある鍵となるシニフィアン(クッションの綴じ目point de capitan、父の名)の、象徴界からの追放の特殊な現象だった。そしてそれが精神病を引き起こす、と。…
しかしながら、ラカンの教えの晩年において、この排除の機能は普遍的な領域に及ぶ。シニフィアンそれ自体の秩序にある固有の排除があるというものだ。我々が、ある空虚の周りに構造化された象徴的構造を持つ限り、ある鍵となるシニフィアンの排除を意味する。セクシャリティの象徴的構造化は、性関係のシニフィアンの欠如を意味するのだ。すなわち「性関係はない」ーー性関係は象徴化できない。それは不可能な、「互いに敵対する」関係なのである。
そして二つの普遍化のあいだの相互連関を掴むために、我々はシンプルに何度も何度も次の命題を繰り返さなければならない、「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。
現実界としての症状ーーこれは古典的なラカンのテーゼ、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立するように見える。症状は、すぐれて象徴的形成物、解釈を通して消滅させうる暗号化されコード化されたメッセージではなかったのか?…ラカンの全ての要点は、我々は、身体の想像的仮面(たとえば、ヒステリーに症状)の裏に、象徴的重複決定overdeterminationを見抜かねばならぬことではなかったのか? この外観上の矛盾を説明するために、我々はラカンの教えの異なった段階を考慮しなければならない。我々は、症状概念を、糸口、指標の一種として、ラカンの理論的展開の主要な段階を差異化することができる。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』私訳)
ここにあるように、ラカンの前期症状概念と後期のそれとの相違の把握は、おそらくとても重要である(それは《症状のない主体はない》(ラカン)で、比較的詳しく見た)。
だが、今はその話題ではない。今まず注目したいのは、冒頭にあるミレールが言ったとされる《特殊排除から一般排除》が、《アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行》を示唆しているという叙述だ。このアインシュタインの理論への言及は、2006年に上梓された書にも次ぎのような説明がある。
アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。
このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)
フロイトは、最初に外傷(トラウマ)を、《象徴的座標を崩してしまう何か》だと考えたとある。これが特殊相対性理論である。
次にフロイトは態度変更して、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》とある。これが一般相対性理論ということになる。象徴界は最初から歪んでいるのである。そして外傷は遡及的に見出される。これがラカンの《原初とは最初のことでない》(『アンコール』)の意味である(参照)。
《物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している》、--トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である、ということになる。
ここで誤解のないようにつけ加えておけば、トラウマには二種類ある。
トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )
ジジェクの冒頭の叙述に沿えば、構造的トラウマ(原トラウマ)は、「性関係はない」ということである。ポール・ヴェルハーゲの説明ならかくの如し。
フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「男と女の愛には、心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。(Paul Verhaeghe『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 )
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”)
「女は存在しない」やら「性関係はない」やらは、結局、最初の喪失にかかわる。だがこれは遡及的に見出される(後述)。
最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』私訳→原文は「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」参照)
そして、フロイト的にいえば「スフィンクスの謎」である(参照)。
…………
さて、いささか話が逸れたが、「トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と書き記した箇所に戻ろう。
この文を変奏してみよう、「症状は象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と。
ここでの「症状」は、前期ラカンの暗号化されたメッセージとしての症状ではなく、原トラウマとしてのーー「性関係はない」としてのーー症状である。
前期ラカンの症状は、象徴界、われわれの日常生活を歪める「原因」であった。だからそれを解釈によって取り除かねばならない。だが後期ラカンの症状は、象徴界の井戸の底にあるものであり、治療不可能なものの別名である。
この原症状とでも呼ぶべきものがあるせいで、象徴界自体が歪んでいるのだ(くり返せば、論理的には、原症状が先にあるにしろ、見出されるのは遡及的に、である)。
《トラウマは遡及的に作用する。
S1―>S2->S1
エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。》(向井雅明)
純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975ーー《症状のない主体はない》(ラカン))
この原症状とでも呼ぶべきものがあるせいで、象徴界自体が歪んでいるのだ(くり返せば、論理的には、原症状が先にあるにしろ、見出されるのは遡及的に、である)。
《トラウマは遡及的に作用する。
S1―>S2->S1
エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。》(向井雅明)
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。
固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)
症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって)
象徴界自体の歪曲が、《現実は現実界のしかめっ面》(ラカン『テレヴィジョン』)の意味である。現実としての象徴界は、もともとしかめっ面なのであり、その歪曲が、原トラウマ・原症状(≒「性関係はない」)を遡及的に見出す。
According to Lacan, libidinal stages have nothing whatsoever to do with a natural development; they are retroactively organised starting from the later castration anxiety. This anxiety operates by means of Nachträglichkeit (retroactivity)(”Subject and Body Lacan's Struggle with the Real”Paul Verhaeghe)
ここにある「Nachträglichkeit」は、もちろんフロイト概念である。
別に、ヴェルハーゲには、「現実界は象徴界の非-全体の領域に外-存在する」とでも要約できる文がある(The Real ex-sists within the articulated Symbolic.……The whole contains the not-whole, which ex-sists in this whole.)。これはジジェクの見解と同様である(参照:象徴界(言語の世界)の住人としての女)。ただし、このあたりは異論もあることだろう。
※ミレール直弟子の小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréは「性関係はない」を示し、これは「原去勢」あるいは「原トラウマ」とも翻訳することができる(事実、小笠原氏はランクの「出産外傷」概念をφ barré説明するのに使っている)。かつまた、80年代にミレールが提示した「斜線を引かれた享楽J barré」も同様に「性関係はない」を近似的に意味するものであろう。
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)
ジジェクは、1989年の『イデオロギーと崇高な対象』にてすでにこの見解を示していながら、2012年に至るまで、同様な見解をくどいほど繰り返している。すなわち、一般には未だなかなか理解されていないせいだろう(かつまた、ラカン派内部でも異なった見解があるということかもしれない)。
François Balmèsの変奏なら次のようになる。
現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être 1999)
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もう一つ、冒頭のジジェクの叙述、後期ラカンの症状は、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立することをめぐって簡略に記す。
これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74)
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30ーーラカンのオーラ)
このあたりは一般には先入観がある。たとえば中井久夫さえ次のように書いている。
ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収 P209)
中井久夫は自らラカンには詳しくないと言っているのでやむえないとしても、ラカン派と称されることもある斎藤環もかくの如し。
記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」2007)
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ところで、今ではわが国の代表的なラカン派二人とさえ言えるかもしれない向井雅明氏と松本卓也氏がつぎのような語らいをしているようだ(松本卓也氏ツイートからだが、いつ頃のものかは失念。それほど昔ではなく、この一年前後前ぐらいのもののはず)。
@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。
@schizoophrenie: 簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。
@schizoophrenie: ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。
@schizoophrenie: 神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。
これは冒頭のジジェクの文においては、「父の名は回帰しない」のは当然としても、「性関係はない」=原症状は回帰するということになる。再掲すれば次の文である。
「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。(ジジェク)
だが、このあたりも見解の相違があるのかもしれない。
さらには松本卓也氏は四年ほど前、次ぎのようなツイートもしている。
後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名っぽい機能を果たせば何でもいい,と
そこからミレールの話は「精神病の一般化」つまり「人類みな狂人」なんて話にまで至る.この辺ちょっと微妙で,一般化とかいいつつミレールは神経症と精神病の構造の差異も主張している.ECF内でも意見が分かれているようで,同号のSkriabineの論文は「人類みな精神病」の論調.
(僕が大いに依拠する)Jean-Claude Malevalは反対に,ミレールの議論から「父の名の排除」と「一般化排除」はまったく異なるという議論を持ちだしてくる.こっちのほうが臨床的には有意義な議論だと思うけど,ラカン自身の70年代の記述そのものはSkiriabine寄りです.(松本卓也ツイート 2011/09/01 ーー「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)
ここにある《「父の名の排除」と「一般化排除」》とは、ひょっとして、特殊相対性理論と一般相対性理論の話ではないか。ーーとはいえ、無謀な憶測はやめておこう。
(このあたりはおそらく、この四月後半に発売された彼の実質上のデビュー作、『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』で明らかになっているのだろう。)