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2015年4月25日土曜日

トラウマと主体性

レイプされたのはあなたのせいじゃない―被害に遭った女性ジャーナリストが、被害者を撮り続ける理由

――という記事を少し前に読んだのだが、その後、この記事をリンクして、次のようにツイートしている方がいるのに行き当たった。

寮美千子 ‏@ryomichico これは、奈良少年刑務所の教官がいつも話していることと合致。加害者の多くは、虐待を受けてきた子。

あれ? そんなことが書いてあったかなと疑問に思い、この方の別のツイートを眺めてみると、このようにある。

寮美千子 @ryomichico 【性欲よりも“支配欲” レイプ被害の真の姿とは?】 http://wotopi.jp/archives/15289 「性犯罪は性欲が強い人が行うと思われがちですが、アメリカでは、性暴力は性欲よりもむしろ支配欲によって行われると考えられています。他者を支配下に置きたい、コントロールしたいという欲望」

おそらくこの「支配欲」を《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》という文における加害者の支配欲と読み取られたのであろう。

――というわけで、この寮美千子さんにも元記事のフォトジャーナリスト大藪順子さんにも何の文句を言うつもりもない。

ただ、大藪さんのインタヴュー記事には、《悪意のある人はいなかったですね。たとえば「加害者にリベンジしてやろう」というような。そうではなくて、前に進もうとしている》とあり、すなわち彼女が取材して写真を撮った性虐待を受けた方々は、加害者になっていないと語られている。

他方、寮さんの《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》というツイートは、それとは相反するということだけだ。わたくしと注目する箇所が異なったのだろう。

そして寮さんは、《加害者の多くは、虐待を受けてきた子》という奈良少年刑務所の教官の話を強調したかったのだろう。

今、わたくしはひどく曖昧に書いていることを自覚しているが、冒頭の記事だけではなく、大藪順子さんが発言されたり講演での語りなどにかかわる別の記事も三つほど読んでみた。とはいえ繊細に扱うべき問題なので、あまりシロウトの感想を書きたくない。そのための曖昧さである。

ただ写真を撮るという行為には、次のような側面はあるだろう。

カメラを持つ手が武器を握る手に見えないような奴はカメラマンを辞めろと藤原新也がどこかで言っていて、まあ何如にも藤原さんらしい言い方だが、このハードボイルドな断定が一時気に入っていて、本を読む姿が云々、コンピュータを見る目が云々、とか色々変奏させて人を判断していたことがある。(丹生谷貴志ツイート)
写真をとるということは、機関銃に似た固い物体を相手にむけるという行為である。写真をとることにも、とられることにも、私に抵抗があるのは、このためもあるらしい。つまり、私の心の中にある対人恐怖に、相手から攻撃されること、人を攻撃してしまうことの恐怖が加わって、写真というものを苦手にしているらしい。(中井久夫「顔写真のこと」『記憶の肖像』所収)
遥かな距離にある対象物に照準を合わせること、そして指の微妙な動きが成功と失敗とを分けへだてるという物理的な類似にとどまらず、ある攻撃的な衝動なしには達成されがたい振舞いとして、撃つことと撮ることとの心理的な類縁性が、すでに写真の発生期に、狩猟の快楽に目覚めたばかりの旅行家によって実践されている点に、われわれは改めて興味をおぼえる。ある種の征服欲の発現なしには、撃つことも撮ることも真の目的を遂げえないだろう。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』p607)



わたくしが、寮美千子さんのツイートに、ある穿った見解を書かれているのかな、と一瞬の錯覚を覚えたのは、これらの文が念頭にあったせいである。そしてそれは誤解であったことが分かった。


…………

◆いくつかの資料の列挙。

【一般論】

性的虐待の昨日の犠牲者は、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。

It's now an open secret that yesterday's victims of sexual abuse run the risk of becoming today's perpetrators. (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)


【トラウマとその治療】

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。

特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。

それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。

犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。

スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。

幻想的復讐を初め、これらの被害者側の行為は外傷の治癒に寄与せず、むしろ「化膿」をひどくするからこそ強迫的反復が起こるのであろう。治療者も、この行為の被害者(にして加害者)となることがあり、その確率は相手の外傷被害性に気づいていない場合に特に高い。特定の具体的被害を同定する前に、これらを含めて外傷被害者的特性に対する感覚を持っている必要がここにある。通常の逆転移分析では足りない。いずれにせよ、このような例では、治療者が困惑する事態が頻繁に起こり、対処に苦しむことが多い。

時には、被害者が、家族の誰かの治療者役を演じることによって、その誰かの「病気」を永続させる結果になっていることもある。その誰かが治癒した時に、被害者の重大な障害が明らかになったこともあった。

私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』中井久夫より抜粋)


【トラウマと主体性】

トラウマと主体性という組み合わせは奇妙なものに思えるかもしれません。トラウマというのは、主体がそれを経験するとき、まさに主体はそれにたいして何の主体的な行為もできずただ受動的に出来事を被るだけです。主体は何の準備もなく、不安さえも感じず、何も理解できないまま突然出来事に巻き込まれます。ですからトラウマ的体験に出会うときには主体性の欠如があるといえるでしょう。ではトラウマを語るにおいて主体性というものを問題にする必要はないのでしょうか。

ひとつの例を挙げてみましょう。これはすでに他のところでも紹介したものです* 。

1973年8月にストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件が発生しました。その事件を有名にしたのは、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明したこと、そしてまた、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったほか、1人の人質が犯人に愛の告白をし結婚する事態になったことなどです。そこからストックホルム症候群と名付けられました。

これについてウィキペディアは次のように書いています。「犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情したりして、人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。また「警察が突入すれば人質は全員殺害する」となれば、人質は警察が突入すると身の危険が生じるので突入を望まない。ゆえに人質を保護する側にある警察を敵視する心理に陥る。このような恐怖で支配された状況においては、犯人に対して反抗や嫌悪で対応するより、協力・信頼・好意で対応するほうが生存確率が高くなるため起こる心理的反応が原因と説明される。

上述のように、ストックホルム症候群は恐怖と生存本能に基づく自己欺瞞的心理操作(セルフ・マインドコントロール)であるため、通常は、人質解放後には、犯人に対する好意は憎悪へと変化する」。

しかしこうした心理学的説明ではどうして事件の後で犯人との結婚にまで至ったのかが説明できません。

フランスの分析家ジャン-ジャック・ゴログはこの事件について次のような解釈を与えています。「ストックホルム症候群は、主体が受動的に被った出来事に、それがあたかも自分自身の選択であるかのような意味を与えるという大きなメリットがある」

つまり、人間は偶然に被るトラウマに甘んじることはできない、運命にいたずらに引き回されるだけでは生きていけないということです。天からふってくるようにおこる人質事件の被害者であっても、そこで主体的な行為によって自分自身を関与させることでトラウマを逃れ事件を生きることができるのです。そこに主体的行為があったからこそ事件後結婚にまで至ったのです。人間の行為は行為をなした者の以後の言動をも決定するからです。

もう一つの例は有名なフロイトの「糸巻き遊びの子ども」の例です。この例は「快感原則の彼岸」でフロイトが死の欲動を導入するための動機のひとつとしてあげています。人間に取ってもっとも大きなトラウマのひとつは母親からの離別でしょう。この子は母親がこの子を残してどこかに出かけるとすぐに紐の付いた糸巻きを投げオーオーオー「fortあっち」と叫び、つぎに糸巻きを取り戻してダー「Daここ」と嬉しそうに叫ぶのです。フロイトによると、子どもは母親の喪失を受動的に被るのだが、その苦しみを逃れるために子どもは離別のシーンを糸巻きによって能動的に再現し、あたかもそれは子ども自身が積極的に行った行為のように扱うのです。フロイトはこう言います「子どもたちは生活のうちにあって強い印象をあたえたものをすべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者となることは、明らかである* 」つまりトラウマ的体験たいして主体的に立ち回ることでトラウマによる苦痛をのがれることができると言うことです。これらの例が示すのはトラウマに対抗するには主体性というものが必要であるということです。

ラカンはこの子どもの遊びのなかの糸巻きを、子どもが自分自身から切り捨てる対象であると言っています。子どもはこうやって対象喪失を引き受け主体として母親から分離して生きていくのです。ここには対象と主体、ラカン用語では小文字のaと斜線を引かれたS/があります。 ラカンは対象と主体がある形で結びつくことをファンタスムと呼び、それをS/<>aという記号で記します。この子どもの遊びの中にはしたがってファンタスムの構造が見られるわけです。(向井雅明『精神分析とトラウマ』ーー 2014年一月26日京都大学における公開シンポジウム「トラウマと反復精神分析の臨床」における発表