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2016年9月12日月曜日

「シナナイタメニ」





芸術がメドゥーサの髪の毛を多数の蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。注目すべき事実は、それら自体がいかに恐ろしいものでも、実際は「恐怖の緩和」として役立っていることである。なぜなら、恐怖の原因であるペニスの不在をペニスに置き換えているためである。(フロイト『メドゥーサの首』草稿、1922年執筆、1940年(死後)出版)




我々はラブレーの作品に、女にヴァギナを見せつけられた悪魔は退散していることを読む。(同、フロイト、メドゥーサ)





ーーいわば「魔除け」の機能である。





私は、「女性性の拒否」Ablehnung der Weiblichkeit は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

いわゆるラカン曰くのフロイトの遺書『終りある分析と終りなき分析』で、上のような記述があった後、フロイトが終生執着した去勢不安やペニス羨望が語られているにもかかわらず、その叙述の流れのなかでフロイトは受動的態度(passive Einstellung)という言葉を口に出している。

事実フロイトは『夢解釈』1900)以前に「受動性の最初期経験 initiales Erlebnis von Passivität」(1896b, S. 386,PDF) という表現を口にしているし、かつまた、

本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なるものではないかと疑われる。(25 Mai 1897. Freud, Aus den Anfängen der Psychoanalyse, Brief e an W. Fliess、PDF)

ともある。





このフロイトの女性性と受動性をつなげるひとつの解釈を以下に示す。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009「古い悪党たちの新しい研究」)

…………

ところで草間彌生の作品群もフロイトがメドゥーサの首で記したように、「恐怖の緩和」として捉えられるだろうか。浅田彰は彼女の作品を「去勢の去勢」と呼んでいる。





1929年に生まれた草間彌生は、早くから旺盛な芸術活動を展開し、とくに57年にアメリカに渡ってからは、ミニマル・アートやポップ・アートの先駆者として世界的に注目されるようになる。そこで重要なのは、個人史における心的な必然性と、美術史における形式的な必然性が、ぴたりと一致したということだろう。

たとえば、幼い頃からいたるところに斑点の見える幻覚に悩まされていた彼女は、キャンヴァスの上にも執拗に斑点を並べていく。まさしく強迫神経症的な斑点の増殖。だが、それがある閾値を超えるとき、図と地、ポジとネガのめくるめく反転が生じ、観る者を窒息させる斑点の群れに代わって、それらの間の網目状の余白のほうが、前面に浮き出してくるだろう。そのとき、神経症的な自己は、「無限の網(インフィニティ・ネット)」のコズミックな広がりのなかへと消失してゆくのだ。あるいは、男根的なものに脅かされてきた彼女は、そういう男根的なオブジェで、机を、椅子を、いたるところを覆い尽くしていく。だが、ここでもまた、ある閾値を超えるとき、それらはおぞましいというよりむしろ滑稽なものとなり、ユーモラスな不能性を露呈してしまうだろう。

増殖による去勢? いや、単一のシンボリックなファルスによる抑圧やそれへの反抗という図式を逃れ、無数のイマジナリーなペニスと戯れてみせる彼女の戦略は、去勢そのものの去勢と呼んだほうがよい。このように、増殖を通じた消失(オブリテレーション)や去勢の去勢という草間彌生の逆説的戦略は、彼女にとって心的な必然性をもっていたと思われる。それがたまたま、一様な色面にまで行き着いた後でその混沌から抜け出そうとしていた美術史の動きと一致したのだ。

こうして、単純な形態の増殖によって構成される彼女の作品は、最小限の要素の反復によって新しい形態的秩序を作り出そうとするミニマル・アートの先駆けとなり、いたるところにカラフルな水玉を貼り付けて自己と世界の消滅に向かう彼女の過激なパフォーマンスは、美術界の枠を超えて派手な表現を展開しようとするポップ・アートの先駆けとなって、世界的に注目されるようになったのである。(浅田彰、草間彌生の勝利




子どもの最初のエロス対象は、乳幼児を哺乳する母の乳房である。愛の起源は、栄養欲求が満たされることへの愛着にある。乳幼児は最初は疑いもなく、乳房と自らの身体とのあいだの区別をしていない。乳房が身体から離れ「外部」に移行されなければならないときーー子どもはたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼は対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給の一部と見なす。

のちに乳房という最初の対象は、子どもの母という人物のなかへと統合される。その母は、子どもに哺乳するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は子どもにとっての最初の「誘惑者」となる。この二者関係に、母の重要性の根源がある。

人の全人生にとって、独自で、比べもののなく、変わりようもなく確立されている母の重要性。それは男女どちらの性にとっても、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母である。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse 、1938年執筆)死後出版ーー英訳よりの粗訳)



いずれにせよ、彼女の、すくなくとも初期の作品は、《書かれぬことをやめぬもの [ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]》(ラカン, S.20)としての原不安あるいは原トラウマに衝き動かされて生み出されたに相違ない。そしてそれはフロイトの「ペニス羨望」では解釈しがたい。浅田彰の去勢の去勢が含意するものとして「原去勢(=原不安)の去勢」と言い換えてみれば、それは正鵠を射ているように、わたくしには思える。

浅田彰は後年次のように言っていることも付け加えておこう。

平山郁夫や梅原龍三郎は単なるキヤノンのコピー機のようなもので、今の草間弥生や荒木経惟も札束を刷るだけの芸術家かもしれないけど、パブロ・ピカソもジョージア・オキーフも含めて、芸術家って、自分が最初に描きたいというモチーフやパッションで始まったのが、いつの間にか自分もモダンタイムスの機械になっちゃってるというところを、どうやって打破しようとしてるんだろうね。(浅田彰、憂国呆談2)




浅田彰のいう「キヤノンのコピー機」のより精緻な説明としては次の中井久夫の文がよいだろう。


【四つの軌道】
一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。

一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。


【①模倣】
「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。

【②絶えざる実験】
「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。

【③沈黙】
第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。

【④自己破壊】

第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。

【昇華という代償満足】
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996『アリアドネからの糸』所収)





◆草間彌生の自伝より

百年後の一人のために

 ものごころつく頃より、私は絵や彫刻や文章を、何十年と創りつづけてきたが、本心を言うと、私はいまだに自分が芸術家になれたとは思っていない。ふりかえってみるに、これらは筆やカンヴァスや素材をもって闘った求道への道程であった。

 それらは前方に燦然と輝く星。それを見上げれば、なおいっそう遠くに行ってしまうような、まぶしい星のたたずまいを仰ぎみて、自分の精神の力と、道を求める心の奥の誠実によって、人の世の混迷と迷路をかきわけて、魂のありかを一歩でも先へ近づける努力であった。

 考えてみるに、芸術家や政治家、医者などという職業のみが、特に世にぬきんでて偉いのではない。私がかつて感動した話は、身体障害者が施設で一日、一生懸命努力して、たった三個の小さなネジをやっとはめる仕事によって、神に自分が生かされているということの証を、自己自身感じとって、目を輝かしたということである。




 芸術家が芸術をやっているというだけで、他の人より特に偉いぬきんでた人種であるわけではない。たとえば、労働者であろうと農民であろうと掃除人夫であろうと芸術家であろうと政治家、医者であろうと、その人々が今日より明日、明日より明後日と、自分の生命への輝きと畏敬に一歩でも近づけたなら、虚妄と暗愚の中に埋もれた社会の中で、それは人間として生まれた人間らしい一つの足跡となるのではないか。

 今日、多くの人々は、飽食と猥雑と経済大国への道を求めて、栄達のためにせめぎあい、さまよっている。そうした社会の中で、重い荷物を背負った道を求めて歩むことは、より険しく、より困難になっている。しかし、そうした中でこそ、私はなおのこと魂の光明に近づきたい。

 たとえば、ゴッホの絵は何十億円もするからすごいとか、ゴッホは精神病で天才だからすぐれているとか、そんな考えをする人が世の中には多いが、そんなことではゴッホを観たことにはならない。また、日本の精神科医は、ゴッホが分裂病だの癲癇だのと論議しすぎるきらいがある。私のゴッホ観は、彼が病気であったにもかかわらず、その芸術がいかに人間性にあふれ、強靭な人間美を持ち、求道の姿勢に満ちあふれていたかという、その輝かしい美しさにある。その激越な生きざまにある。




 芸術家を志している私は、理不尽な環境に打ち勝つということは、追いつめられた立場に置かれた己れの苦しい状況に打ち勝つということであり、人間として生まれてきた故の試練であると思っている。だから、私の全人格をもってそれに立ち向かいたい。こういうことに巡り合ったことも、一つの人の世の運命であるから。

 天の啓示によって、私は神に生かされているのである。艱難辛苦、己れを玉にする毎日である。そして、歳月とともに死を意識すること、日一日である。

 光明に近づく求道の姿勢をいっそう深めたいと思い、大宇宙を背景にしても人間はしがない虫けらではないという畏敬の念を感じて、未来への心の位置を高めたい。そのため、私は芸術をそれへの手段として選んだ。これは一生をかけての仕事である。私の心を、死んで百年の間にたった一人でもよい、知ってくれる人がいたら、私はその一人の人のために芸術を創りつづけるであろう。

 そんな思いで、私は絵画を描き、彫刻を作り、文章を書いているのである。




 父・嘉門の死の九年後、1983年(昭和58年)12月に、母・茂が逝去した。母は終生、歌人でもあり、書家でもあった。母の遺稿を繙いていると、次の歌がみつかった。

  大ぜいの知人逝かせてこの年も 暮れなんとすなり つはぶきの咲く
  日の光 春をよびつゝぬかるみに まぶしく光る堤をゆけば
  眠られぬ小夜の臥床にひびきつゝ 列車の音の遠ざかりたり

 私は母のこの三首を、『心中櫻ヶ塚』の末尾に、「追記」として採録した。母に対する私の想いは、そして父に対する私の想いは、万巻を費やしても語りきれるものではないが、自分の著作の中に母の歌を添えることによって、私は父と母の思い出の片鱗を定着させたかった。

 そして、愛憎ともに万感こもごもに至る想いを抱いて生きてきた私ではあるが、今はすべてを越えて、こんなふうに思えている。私にこの年まで生かせてくれ、生死の明暗と、現し世の光陰などの綾なす社会の仕組みを、そして修羅場を見させてくれ、人間としての正しい知恵と真実への憧憬を体験させてくれたのは、父と母であると。従って私は今、私を生んでくださった、私のもっとも尊敬し愛する亡き父と母に、心から感謝をしているのである。





上の文に、《日本の精神科医は、ゴッホが分裂病だの癲癇だのと論議しすぎるきらいがある》とあった。ここでわたくしは彼女の思いに反することを記しているのかもしれない。

ところで中井久夫に「荒川修作との一夜」(『記憶の肖像』所収)というエッセイがある。

冒頭はこう始まる。

私はあわてていた。

前日、京都大学の木村敏教授から電話があった。「アラカワ・シュウサクという画家がボクたち二人にあいたいんだと。哲学者の市川浩さんからの依頼だ。キミといっしょにあったことのある、あの市川さんだ。(……)ひとつ、たのむよ。蹴上の都ホテルだ、三月十七日の夜七時、いいね」。茫然とした、「荒川修作って……」といいかけたとたろで、電話は切れた。

この文の初出は、1990年の「みすず」。中井久夫は、そのときまで「アラカワ」がだれだか知らなかった。

……ホテルのロビーに入ると、木村敏教授と市川教授が談笑しておられる。私の顔を見て市川さんが消えた。やがて、闘志満々、黒ズボンに白いシャツをまくりあげたのが、小柄な白人の女性をともなってやってくる。あれが音に聞く荒川なのか。

五人がおたがいに紹介しあった。荒川は、漆黒の頭髪が波打ち、きゅっとしまった容貌の真中に黒ダイヤの眼が光る。私には見えないものをふくめて、実に多くのものをみつめてきた眼だ。日本人にしては白い肌がニスの光沢を帯びて深いところから赤みがさしているのを、ほとんど美しいと、私は思った。動作はむしろぎこちなかった。時折、顔面をくしゃくしゃさせた。稲妻のように素早く―――。

女性はマドリン・ギンズ。夫人で「同士です」とのこと。……






アラカワとの話のとっかかりは、名古屋の話題になった。アラカワは名古屋の瑞穂区滝子の開業医の息子である。木村、中井両氏は、一時期、名古屋市立大学医学部精神科で伝説の「木村教授・中井助教授」という時期があった。

「母は私がニューヨークでやっていることを知らないはずです」と―――私の聞き間違いでなければ―――荒川は言った。「ぼくがまだ東京でノイローゼの治療していると思っているかも」。彼は東京である診療所にかかっていた。「ぼくの医者はひどいやつでね。ぜんぜん話にならん。最後に、おまえ、医者やめろと言ってやった」―――彼の顔が険しくなった。私たちは医者の名前を聞いて顔を見合わせた。「その人なら医者をやめて医師免許証も返還したという話ですよ。今では別の仕事で有名です。あなたのいうことをきいたのですね」。

今度は、彼が茫然とする番であった。「ほんとう? ほんとう」と彼は不安げに繰り返した。私は心配になった。「あなたはよい助言をされたわけです。彼は自分でも医者がいやだったとどこかで書いていますよ」。荒川はいくぶんほっとしたようであった。

「自分のは芸術ではない。そんな悠長なゆとりのあるものではない。あのね、英語でこういうけど(その言葉をど忘れしたのは私である:エッセイ集にまとめられた時点での注で、exhausted decisionであると、ある時ふっと思い出した、とある)、日本語でどういう?」「火事場の力? 窮地に出る思わぬ底力?」「かな、とにかく、ここでこうなら日本にいちゃだめだと思った。それでニューヨークに出たわけです。もう死ぬと思った。死なないために描いてきたのだ。死なないために、死なないために」。

何度「シナナイタメニ」が繰り返されたことであろう。(……)

彼は言った。「実は精神科医としてのあなた方に会いに来たのだ。あなた方はニューヨークでは有名です」。(……)

とにかく、荒川は、自分を死の瀬戸際に放置した日本の精神医学がその後どうなったか、すこしはましになったのかどうかを知ろうとやってきたのだ。驚くべきことである。……

(ARAKAWA WITH MARCEL DUCHAMP)



私たちが合格と判定されたとは思わないが、準備した話を終えてほっとしたのか、荒川は、シャガールに可愛がられた話を始めた。南フランス、いわゆる紺碧海岸のシャガールのアトリエに荒川が起居した一時期があったのだった。

「シャガールはね」と彼は語った。「朝早く、アトリエに来て、鉄のパレットを取り出す。九十四歳の彼が鉄のパレットだぜ。そこへ色を盛り上げ、カンバスにどしどし色を塗る。たいへんな仕事量だ。そして、夕焼けがアトリエの窓を染めると、部屋じゅうくまなく掃除して、雑巾をかえ、パレットをきれいに洗って、さあ帰ろうという。ある時、見かねてオレがやると言ったら、じいさん何と言ったと思う? 俺を殺す気か、これをやってるから俺は今まで生きてるんだとね、で、またごしごしさ」。いい話であった。私の大好きなライナー・チムニクの童話『クレーン男』のように、日々の力を信じて愚直に生きること―――。私は頭の中で、病なお残る若い身空の荒川になり、床に近いソファに横になって、立ち働く老ユダヤ人画家を見上げてみた。毎日ここにいたら、自分の中の何かが快癒してゆくだろうなと思った。日本の精神科医が治せなかった一青年を癒して画家にしたシャガールの偉大さが身にしみた。

「死なないためにだ。俺は、死なないためにやっているのだ。芸術? そんなのんきなものじゃない」。私は、私の患者たちが描く、時として哀切な美しい画を思った。治癒するとみな平凡な画になる。しかし、才能が涸渇するのではない、必要がなくなるのだ。私の患者たちも「死なないために」やっているのだ。名古屋弁でいえば「必死こいて」―――。(中井久夫「荒川修作との一夜」『記憶の肖像』所収)


以下、草間彌生と荒川周作に反してーー改めて二人の文章は発言を読んで戦慄しこういうことを記しているのは忸怩たる思いがしないでもないが、冒頭から始まる引用の補遺としてーー次のラカン派による(これはこれですぐれた注釈ではある)を付記しておく。


剥奪 (privation) は「想像的父を動作主とする象徴的対象の現実的穴」である。これをパラフレーズするためには剥奪の概念が去勢コンプレクスとペニス羨望を説明するために作られたことに注意しておかねばならない。

剥奪は,女性のペニスの不在(現実的な穴)つまり実在性の次元での知覚(の欠如)を,象徴的な仕方で代理することである(S4) 。たとえば,自らがペニスを持っていないことを発見した女性は,自分を男の子のようにペニスを付けて産んでくれなかった母親を憎み,いつの日かペニスの代わりの子供(象徴的代理)を父からもらえることを望む(ペニス羨望)。一方,男性の場合では,自分はペニスを持っているため,自らのペニスが剥奪されるわけではない。しかし,女性がペニスを持っていないこと(現実的穴)を発見することは,男性にとって外傷的に作用する。男性は女性の剥奪(ペニスの不在)を目にすることによって,自分も去勢されるかもしれないという不安をかかえることになるのである。

しかしペニスの不在が「不在」として知覚されるためには,そもそもその不在の知覚以前にそれが「現前」しているものとして想定されているのでなければならない。つまり,原初的には「男性だけでなく女性も母親をフアルスを授けられたもの,つまり,いわゆるファリックマザーとして考えている 」 ( E686) のである。 それゆえ,母のペニスの不在が知覚されたとき,そこには象徴的なフアルスが発見されているのである。これは例えるなら,図書館のなかで一冊の本がなくなったとき,それは純粋に存在しないわけではなく「あるべき場所に欠けている」わけであって,「ない」という意味で「ある」という性質を持つという事態に似ている ( S4) 。これは象徴的対象だけに起こる事態であって,反対に現実的対象は常にあるべき場所にあり.欠如の可能性をもたない。象徴的なもの,つまりシニフイアンだけが「その場所に欠けることができる」 (E25)のだ。

また,ここでFreudのいう事後性(遡及性Nachträglichkei:引用者)が機能していることも見逃してはならない。男性にとっては,去勢が発達において導入されるには,去勢の脅しが行われるだけでは十分ではない。「そんなことをしていると切ってしまいますよ」というやり方で自慰を禁止したりするだけでは,去勢は効果を発揮しないのである(S5)。去勢の脅しの後に,剥奪,つまり母という女性のペニスの不在(現実的な穴)を発見することによって,事後的に去勢が機能し始める。つまり.「去勢の意味作用は. . .「母の去勢」を発見することに基づいてのみ起こる」( E686 ) のだ。(松本卓也「エディプスコンプレクスの構造論一一フロイト.クラインからラカンへ」2011,PDF


次に、ポール・ヴェルハーゲのPAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009(「古い悪党たちの新しい研究」)の私訳の再掲(参照:古い悪党フロイトの女性論)。

一連の文章だが、やや長いので段落を分けて小題をつけている。


【10年のあいだ〈女〉を探し求めたフロイト】
フロイトの自伝(『自己を語る』(……)、最初のヴァージョンである1925年版においては、エディプスコンプレックスは次のように要約されている。少年は性的欲望を母へと集中する。それ故、ライバルである父に対して憎悪感を育む。少女にとっても、類似した状況が当然の如く起る。欲望される対象としての父とともに、母はライバルの役割が授けられる。10年後、フロイトは注を付し、このエディプスの発展の問題において、少年と少女のあいだに想定された類似性を廃棄する。この10年のあいだ、フロイトは〈女〉を探し求めていた。結果として、彼は母に遭遇したのだ。(……)


【男女とも最初の愛の対象としての母】
このフロイト理論の箇所は、比較的よく知られている。というのは、主にその議論の余地が大きい特徴のせいである(Grigg, 1999)。…まず問題含みの箇所を要約してみよう。

少年も少女もともに、母が最初の愛の対象である。息子にとっては、前エディプス期、エディプス期ともに、母は愛の対象のままである。そこで、父の介入がはっきりした効果を生む。すなわち去勢コンプレックスである。去勢不安のせいで、母は(愛の)対象としては放棄される。そして父の権威の内面化が生じる。このように、男性のエディプスコンプレックスは、去勢を施す父への恐怖の影響で、超自我を形成して終わる (『エディプスコンプレックスの消滅』 [1924])。近親相姦の禁止が、族外愛の強制を伴って設置される。いったん男になったら、以前の息子は性交にも同様にアクセスするが、他の女に対してである。この移行が常にはスムーズにいかないことは、既にフロイトによって、偉大な臨床的手練を以て叙述されている (『男性に見られる対象選択の特殊なタイプについて』[1910])。

事実上、前エディプス期の発見は、男-息子にかんするフロイトのエディプス理論に大きな変更を与えていない。ただ一つの例外がある。母はもはや、単に欲望される対象、受身の対象ではなくなる。彼女は前エディプス期の中心的形象となる。


【少女の愛の対象の母から父への移行】
少女にとっては、事態ははるかに複雑である。前エディプス期のあいだ、彼女は母に向けて能動的な愛の衝動をもつ。それは少年と同様である。だが、それからどうやって正式の愛の対象、すなわち父への移行が起るのか? フロイトによれば、これは少女によるペニスの発見と「ペニス羨望」の出現によって引き起こされる。少女がペニスを与えられていないという事実は、劣等感と嫉妬感の上に、彼女は憎悪を以て母から身を翻し父へと向かうことを意味する。父へと向かうのは、彼女に欠けているものを父から受け取ろうと希望するからである。去勢不安の女性版対応物、ペニス羨望は、このようして、エディプスコンプレックスの設置を引き起こすものとなる。そこでは、少年側は事実上、エディプス期の終焉の始まりなのだが(『解剖学的な性差の若干の心的帰結』[1925])。フロイトにとって、女性のエディプスコンプレックスは男性と同じような明確な終焉点をもっていない。そしてこれは、女性の超自我が男性のそれのような厳しさを獲得することが決してないのを説明する。


【二重の置換:クリトリス→ヴァギナ、母→父】
フロイトは二つのジェンダーのあいだの相違を、少女にのみ当て嵌まる二重の置換にて要約している。まず最初に、少女は性感帯を変えねばならない。男根的クリトリスはヴァギナと交換されねばならない。第二に、対象が変更されねばならない。父が母の場を占めるのだ(「女性性」[1933])。

この二つの移行は、さらにはっきりと解明され得る。最初の移行は、能動的・男性的クルトリスが、受動的で迎え入れる性質をもつ女性的ヴァギナと交換されなけばならないことを意味する。対象としての父への移行は、さらに二つの含意がある。第一に、もともと父から来るものとして欲望された対象としてのペニスは、子ども(赤ん坊)への欲望に変換されねばならない。第二に、この子どもは結局、男、彼女の男から欲望されなければならない。この男とは、彼女の父の場所を代わりに占める男だ。結局、フロイトは次のように書くことになる、女も後年、彼女の後の愛の対象として自分の母を探し求める、丁度どの男もそうするように、と(『女性の性愛』 [1931])。


【女になることの困難】
このように考えると、女になることはひどく複雑で困難な試みであるだけでなく、希望をもてないものになってしまう。注意深い読み手なら気づくことだろう、我々は振り出しに戻っていると。すなわち、母とともに始まり、最終的に母に戻るのだ、その母とは、すなわち、彼女自身が母となる少女である。さらに全体の過程は、男-父によって指図されている。男-父が事実上、女-母を生むのだ。この理論は数多くの拒絶反応を引き起こした。それがフェミニストからだけではないのは、驚くことではない。臨床的実践がたいした立証をもたらさないため、批判はさらに強くなる。

実際、ペニス羨望の存在はまったく明らかではない。そしてすべての娘が母から身を翻すわけではない。なぜ少女は父に向けて移行すべきなのか? フロイトの説明ーーペニスの欠如の発見に従った少女にとってのナルシシスティックな屈辱感が、少女を母から身を翻させて父に向かわせるーーこれは、ポストフロイト時代を通して、ひどく疑われた。そしてフロイト自身の論拠においてさえ、あのような展開は袋小路に行き着く。すなわち、少女は女にならない。単に母に変身させられるだけだ。こういったわけで、全く異なった解釈が可能だ。


【受動的ポジションから能動的ポジションへ】
袋小路はしばしば誤った前提の結果である。対象の変更のための動機としてのペニス羨望を、さらにもう少し検討しなくてはならない。フロイトが(少女が)母から身を翻す動機としてペニス羨望を議論したとき、彼は常に数多くの他の動機に言い及んでいた。それらは通常、ポストフロイト派の議論において無視されてしまっているが。

その動機の内で、中心的なものは、受動的なポジションから能動的なポジションへの移行である。我々はこう言うことさえできる、他者の他者であることから主体性への移行だと。ペニス羨望や去勢不安を言う前に、子ども、少年も含んだどの子どもも、既に、母との関係における受動的なポジションから離れて、能動的ポジションに移行しようと試みる。


【原不安としての分離不安と融合不安】
フロイトとともに、私はこの移行に、はるかに基本的な動機を見分ける。すなわち、最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的なsomatic未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動機(動因)は、不安である。これは去勢不安でさえない。原不安primal anxietyは母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では最初の世話人caretakerとしてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに分離不安separation anxietyである。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを融合不安fusion anxietyと呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別に、である。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的な加工(エラボレーションelaboration)とさえ言いうる。原不安は二つの対立する形式を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。


【ラカンの考え方】
ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる〈他者〉 (m)Otherに享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。フロイトの受動的ポジションと同様に、である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。

【エディプスコンプレックス劇場】
「前エディプス」期に先行されるエディプスコンプレックスという考え方は、主体の母、あるいは父への各々の焦点の輪郭を描くことになる。エディプスコンプレックス劇場では、全体として、父母の両方の人物像の配役がある。中心的な登場人物は母を以て始まる。母は、どの子ども、そのジェンダーにかかわりなく、いずれの子どもにとっても、最初の愛の対象である。この最初の関係は、とても特徴ある配役設定をもたらす。

一方で、能動的権力の体現者としての母がいる。拒絶したり、供与したり、さらに悪い場合は、不在である。他方、受動的で、受け取るしかないポジションの幼児がいる。そこでが選択は限られており、受諾か拒絶しかない。

ーー《エディプスコンプレックス自体が、症状である》(ラカン、セミネールⅩⅩⅢ)



【ファリックマザーとの同一化による全能感】
成人の神経症者に見られるいわゆる全能感は、想定された幼児期の全能感に戻ることではない。そうではなく、母の全能性への幼児期の同一化である。実に "Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut"(女が欲することは、神も同様に欲する)は次のように読むべきだ、"Ce que la maman veut, Dieu Ie veut" (母が欲することは、神も同様に欲する)と。既に(フロイトの症例ハンスの)小さなハンスが知っていた通りである。

もっとはっきり言うなら次の如し。成人の神経症の全能感は、幼児のファリックマザーとの同一化に戻ることだ(Lacan, 1994 [1956-57])。その意味は、ファリックマザーとは、欠如なしの母であり、母は子どもによってそう感受される。パラノイアが我々に示すのは、この関係性が取る病理的な形式である。より詳細には、母に殺される・貪り食われる・毒される恐怖である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。



【母に殺される恐怖/サディスティック衝動】
フロイトの所見によれば、受動性は常に独特の反応を伴う。すなわち能動的反復である。人が受動的に経験しなければならなかった物事の能動的反復である(フロイト『女性の性愛』 [1931])。前エディプス期の母-子どもの関係はこの規則の例外ではない。

子どもは能動的に振舞いたい(上演したい)のだ、母から受動的に我慢せざるを得なかったことを。最初の移行は、母乳を飲まされることから能動的に乳を啜ることの段階にかかわる。それは場合によって口唇-サディスティックな局面を伴う。病理的事例では、これは間違えようがない。母に向けての攻撃
的な口唇-サディスティック衝動はその反対物を見出す。母に殺される恐怖である。
この口唇期の例は単なる暗号ではない。実際、二つの対立する極ーー能動性対受動性ーーは、母と子の関係における享楽の局面に関係する。

受動の極から能動の時空への移行をする子どもの試み(それは少女だけではなく少年も同様)は、次のように理解されなければならない。すなわち、(母の)享楽の受動的対象にあるポジションから逃れ出し、快の能動的コントロールに向かう試みだと。


【子どもを誘惑する母】
最初期の理論にて、フロイトは、父による誘惑という考え方と神経症者にとっての基盤として幼児の性的トラウマを唱えた。神経症の遍在はこの考え方から距離をとることを余儀なくさせたのだ、もっとも実際にはそれを廃棄することは決してなかったが(Freud, letter to Fliess, September 21, 1897 [1978 (1892-99)])。

三十年後、彼はこの考え方を定式化し直した。原初の誘惑は、保育する状況以外の何ものでもない。母が子どもをある享楽の形式に「誘惑する」のだ。後ほど、すなわち最終のエディプス段階に過ぎない、誘惑者のポジションが、子どもの想像力のなかで父に移行するのは。

ついにフロイトは見出したのだ、想定されたトラウマ的誘惑の遍在にとっての本当の基盤を。どの保育状況も、潜在的に、誘惑的であり享楽的である。このまさに同じ状況における、トラウマ的で故にぞっとさせる側面は次の事実に関係する。すなわち、主体は他者の享楽の受動的対象のポジションに陥れられることである。そのような関係の原初のヴァージョンは、初期エディプスの、母と子のあいだの紐帯である。

ーーより詳しくは、「子どもを誘惑する母(フロイト)」を見よ。


【二者関係から三者関係へ】
この二者関係からの退出は、第三の形象、父によって可能になる。それは受動的から能動的なポジションへの移行を伴っている。

初期ラカンの枠組み内での類似の論考は次の通り。子どもはもともと二者関係内で母の享楽の受動的対象である。この享楽は、シニフィアンの象徴的秩序外部に位置するため、シニフィエ(意味づける)ことが不可能である。

ふつうは、父の介入が、意味作用と規制を導入することを通して、象徴秩序を導入する。ふたたび注意すべきなのは、この論旨において、フロイトとラカンともに、危険は母にあり、救いは父にあるということだ。二人のあいだの相違は、ラカンにとって、原父どころか父自身でもなく、父の象徴的機能にアクセントが置かれていることである。

(フロイトと母、1872年、16歳)


【補遺】--ここまでは一連の文章だが、以下は同じ書物の別の箇所から抜き出している。

後期の理論で、ラカンはフロイトの錯誤を公然と非難した。

それにもかかわらず、現在、フランスに精神分析のある保守的な層において、権威ある父の再生された懇願が聞かれうる (NAOURI , A. 2004)

この非難はラカンのセミネールの極めて後期に現れる。それ以前は、フロイトとラカンは異なった時代に書いているにもかかわらず、彼らの理論は、この点に関して、とてもよく似ている。二人ともエディプス理論を展開したのだ。それは父への懇願であったり、父への謝罪でさえある。その父とは、母に関する欲動に駆られた危険に対する不可欠な保証人である。

この二人のあいだにある最も重要な相違は、フロイトにとって、危険は、母への子どもの欲望(事実上、息子の欲望)を起源とすることだが、ラカンにとっては、全く反対方向だということだ。すなわち彼にとっては、子ども(事実上、息子)をあまりにも欲望する母に起源があるということだ。

この相違を脇にやれば、彼らの理論は似通っており、どちらも絶大な権威をもった父の形象から解決を期待している。まさに彼らの理論のこの側面が、私が考えるに、底辺に横たわる問題への神経症的な応答、その治療上の(理論の媒介による)承認に過ぎないのだ。後に詳述するが、この問題は、ラカンがその後期理論にて理解したものとしての「享楽」概念にすべてが関係する。


不思議にもラカンと母の写真は見当たらない。

母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ。(ラカン、セミネールⅩⅦ)

鰐の口、あるいはヴァギナ・デンタータでもこれといった画像は見当たらない。

かわりに荒木経惟の「書かれぬものをやめぬもの」を貼り付けておこう。





《自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう》

これはフロイトが『グラディーヴァ』で引用しているホラティウスの言葉である。

われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)




私のチューリップへの関係はひどくリンチアンだな、胸が悪くなるよ、想像してみろよ、あれはヴァギナ・デンタータと呼ばれるものじゃないか、君を飲み込んじまうヤツだ。そもそも花ってのはとんでみない代物さ。わからないかな、あの怖ろしさが。開いた誘いだろ、昆虫や蜂への。「おいで、私を掻き回して!」私が思うに、花ってのは子どもたちには禁じられるべきだね(ジジェク


2016年3月8日火曜日

ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる

主にメモ。

まず、ラカンのセミネールⅤから名高い箇所を画像のまま貼り付ける。




これは少しでもラカンに関心があるものは、誰でも掠め読んだか、解説書などによって聞き知っているか箇所だろう。


たとえば、向井雅明氏によって、次のように説明されている(向井雅明「精神分析と心理学」 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

つまり母親のファルスとなる。だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。
漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。
これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。






今、引用した向井雅明氏とほぼ同じように、ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲはこう書く。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ c’est le désir de la mère(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》(S.17)(Paul Verhaeghe,NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995 PDF

他にも、ネット上で拾える文から抜き出せば、藤田博史氏は、向井氏の記す「大きなファルス(Φ)」がうまく機能しない場合(倒錯)をも含めた説明のなかで、「母の欲望」を次ぎのように記している(『入れ墨、フェティシスム、男性同性愛』)。

……「母なしでは生き延びてゆけない」という絶対的無力を抱えたヒトの子は、結局死ぬまで「(母に)愛されたい」という願望を抱き続ける不思議な動物だ。発達のごく初期(生後六〜十八ヵ月)に、つまり言葉の世界に巻き込まれる以前に母と二人だけで過ごした蜜月の期間は、ヒトという哺乳類に或る特殊な情念の世界を賦与する。精神分析において「想像界」と呼ばれるこの言葉以前の世界では、唯一であろうとする自我にとって「母=自我の鏡像」は愛の対象であると同時に憎しみの対象でもある。これは母の殺害がそのままそれが自分の死を意味するような矛盾に満ちた関係である。  

母にしてみれば、子は自らの身体像に欠けている「あるもの」を補ってくれる対象なのであり、だからこそ母は子をあたかも自らの身体の一部であるかのように愛して止まない。想像界のなかで母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている。つまり子の欲望は母の欲望を求める欲望として相乗されている。しかし母の場所には決定的に「あるもの」が欠けており、これに対し、子はこの欠如の場所から母の欲望が生じていることを受け入れることができず、幻想のなかで、母の場所における欠如を補填せざるを得なくなる。つまり子は自らの幻想のなかで母にペニスを賦与する。しかしこのような幻想はまもなく挫折することになる。なぜなら子は早晩母の股間にペニスがないことを目撃してしまうからである。この「母にペニスがない」という現実を受け入れることは失望と痛みをともなうが、通常、子はこの堪え難き現実を認め、ペニスの有無に基づく基本的な判断基準を心的な構造のなかに導入する。つまりここで「去勢コンプレックス」が導入される。  

以上のような一般的な経過に反し、この現実を「否認」する子が表われる。このような子は、母におけるペニスの欠如を最終的に認めることができない。このような子は自らの幻想のなかで母のペニスの欠如している場所に「それに代わるもの」を設置して「母にペニスがない」という堪えがたき現実を否認し続けている。このとき、そこに設置された対象が「ペニスの代理人」としての「自己の鏡像」であるならば、子は母が自分を愛したように自分の愛の対象を選択して男性同性愛者となる。また、設置された対象が「ペニスの代理物」としての「モノ(=フェティッシュ)」であるならば、その子はフェティシストの道を歩むことになるだろう。  

「なにかが足らない」という視覚的現実に対して、この現実を「認めない」という心的機制が働き、不足しているものの代わりに同性の人物や代理のモノを愛の対象として選択してしまうこと、これが男性同性愛やフェティシスムという倒錯を生み出している基本的なメカニズムである。(「現実の否認 déni de la réalité」

※倒錯の機制のやや詳細については、「あの女さ、率先してヤリたがったのは(倒錯者の「認知のゆがみ」機制)」を参照のこと。

上の藤田氏の文にある、《母の庇護を求める寄る辺なき子は、「母の欲望」を欲望することによって母を自らにつなぎ留めている》に関しては、ラカンのセミネールⅤに次の文がある。

原象徴化 première symbolisation のなかで、子どもの欲望は確証され、未来の全ての象徴化が始まる、《(子どもは)母の欲望の欲望 であるil est désir du désir de la mère……

Dans cette première symbolisation, le désir de l'enfant s'affirme, amorce toutes complications ultérieures de la symbolisation en ceci qu'il est désir du désir de la mère et ……(S.5)


これらのネット上にある短い論であり、著書にはより精緻に記されていることだろうが、一般的に、ラカン派の「母の欲望」とは、このように語られることが多いだろう。


ところでツイッターセミネールをやっておられる小笠原晋也氏 @ogswrs には、次ぎのような文がある。

母の欲望」と呼ばれたものは,その本有において,他 Ⱥ の欲望であり,そしてそれは,その本有においては,存在欠如である.つまり,抹消された存在です: https://pic.twitter.com/Z2OAWDFr17(2016.1.25)
存在の在処に関する問い,それは,他の欲望 Ⱥ に関する問いでもあります.なぜなら,ex-sistence としての存在は Lacan が manque-à-être[存在欠如]と呼ぶところのものであり,それは Freud が無意識のなかに見出した欲望の正体であるからです.(2015.11.11)
Freud が死の本能と呼んだものは,我々の学素では φ barré です.Lacan の概念では,欲望です.(2014.9.4) 

冒頭の文のみに「母の欲望」が出てくるが、この三つの文はすべて同じことを言っている。つまり母の欲望は、存在欠如であり、死の本能(死の欲動)だといっていることになる。

わたくしはこの小笠原晋也氏のツイートを、ここで難詰するつもりはない(彼の「欲望」という語の取り扱いにひどく違和がある身ではあるが。彼が「欲望」と口に出すとき、そのおおくは「純粋欲望」ではないか、という疑念がある。--そして、純粋欲望の状態 l'état de pur désir をめぐって、次のように指摘する論者がいる、《主体の解任、すなわち欲望の根源的顕現は、逆説的に、欲望の終結を引き起こす》Lorenzo Chiesa 2007ーー結局、純粋欲望とは欲動のことである)。

とはいえ、彼の上のツイートは、父の名の介入によって父の隠喩作用が成立する以前の「母の欲望」に焦点を絞っており、それほど文句を言うつもりはない。

ただし、彼は、母の欲望をȺと言ってしまっている(「その本有において」が二度反復されて曖昧化されてはいるが)。だが、わたくしの今のところの理解では、隠喩化以前の「母の欲望」désir de la mèreとは、Ⱥ がシニフィアン化された(原象徴化された)のちのS(Ⱥ)であるはずだ。そこがわたくしには抵抗がある。

事実、ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独特のしにから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配さえされする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

このミレールの叙述さえ、20年前のものということもあるせいもあり、今読むといささか違和がないでもないが、ここでそれに触れるつもりはない。

(原初の)〈母の欲望〉とは、おそらく、母なる〈他者〉の享楽の侵入にかかわるのではないか(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

…la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est, à proprement parler, l'origine du signifiant.(S.17)

すなわち、最初のシニフィアンtrait unaire(「一」の徴)の機能は、《徴のもっともシンプルな形であり、厳密に言って、シニフィアンの起源である》であり、これが享楽の侵入の原初形態である。

享楽は、侵入 irruption を通して、身体に起こる。この侵入は徴を獲得する。その徴は、大他者の介入を通して、身体の上に刻印される inscribed。(Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility、2006ーー「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)

これは純シニフィアンにもかかわるはずであり、純シニフィアン signifiant pur とは、もちろん Ⱥ ではなく、S(Ⱥ)の領野にある(参照:純シニフィアンの物質性)。

…………

母の欲望はシニフィアンであろうことは、たとえば、若きラカン派の松本卓也氏のツイートを拾えば、次の通り。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアン…

…であって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです(分裂病急性期)。(松本卓也,2012、ツイート)
Pierre Naveau: Sur le déclenchement de la psychose. Ornicar ?, 44 : 77-87, 1988  ラカンが「精神病は〈父の名〉の隠喩がない」と言った意味を,ものすごく明瞭に説明してくれている.すこし引用する.

「ラカンは,〈父の名〉の隠喩が排除されたときの効果について述べている.もし〈父の名〉が排除されていなければ,そこで隠喩によって生産される意味作用は,ファルス的意味作用である ….このことは,x=(―φ)という式で示される

精神病の発病時には, …隠喩によって生産されていた意味作用すなわちファルス的意味作用の代わりに,穴( trou)が現れる.こうして隠喩は失敗し,〔母の欲望に対する〕代理の操作が生じない. …DM/x.母の欲望のシニフィアンによって生産された意味作用は謎めいたままにとどまる.x=?」

フロイトの発見は,神経症の症状は,すべて隠喩として構成されており,そのために性的な(ファルス的な)意味を持つということであった.それをラカンは継承している.つまり,隠喩は意味が(+)であり,換喩は意味が(ー)である(「文字の審級」).

そして,神経症を支配している最大の隠喩こそが,〈父の名〉の隠喩である.母の欲望は,何を欲望しているか分からない( DM/?).母の欲望のシニフィアンを,〈父の名〉で代理すること( NP/DM )によって父性隠喩が成立し,症状や夢,機知といったあらゆる象徴表現の可能性がうまれる.

E557 の父性隠喩の式の読み方はこれで分かる. NP/DM ・DM/x=+ファルス.父の名が母の欲望を代理することによって,ファルス的意味作用が成立する,ということ.( ※NP=父の名,DM =母の欲望)

精神病では〈父の名〉が排除されているということは,隠喩が作れず,よって神経症症状も形成されず,母の欲望があらわすものが謎のxのままにとどまるということ.だから,精神病の発病時には,世界の総体がひとつの大きな謎として主体に立ち現れるのである.

神経症では,〈父の名〉( Nom-du-Père)と出会い,ファルス的意味作用( signification phallique)が成立する.一方,精神病では,父なるもの( Un-Père)と出会い,謎の意味作用 (signification énigmatique)が成立する.(同上)

…………

※附記

別途投稿しようと思ったが、ここに貼り付けておこう。以下には、 Pierre BrunoのPhallus et fonction phalliqueに依拠しての松本卓也氏のツイートの内容といささか齟齬がある内容がある。

《たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。》(松本卓也)に対して、

……事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。 (Lorenzo Chiesa 2007)

Pierre Brunoがどんな文脈で語っているのかはしらないが、わたくしの今のところの理解では、上のロレンツォ・キエーザやポール・ヴェルハーゲの立場(参照)をとる。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》。(Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by 2007)
……父の名は、もはや〈他者〉の、すなわち象徴秩序の、保証ではない。逆も同様である。反対に、〈他者〉の〈他者〉はいない("il n’y a pas d’Autre de l’Autre")。

以前は、父の名は父(の機能)の保証だった。丁度、フロイトの原父がどの父をも基礎づけたように。今や、父の名が保証するものは〈他者〉のなかの欠如である。あるいは主体の象徴的去勢である。そして象徴的去勢を通して、主体はあらゆるものを取り囲む決定論から離れ、彼(女)自身の選択が、たとえ限定されたものであるとはいえ、可能となる。

この変貌の波紋は、ラカンのその後の仕事全体を通して、轟き続けた。まさに最後まで、絶え間なく寄せてはかえす波のように。 実に理論の最も本質的なメッセージは、どの理論も決して完璧ではないということだ。循環する論述によって組み立てられた閉じられたシステム、それを我々はフロイトとラカンとともに以前は見出した(原父や父の名によって保証される父、逆も同様)。だがそれは一撃で破棄された。  (PAUL VERHAEGHE『New studies of old villains』2009


松本卓也氏もこのあたりのことが分かっていないはずはないので(参照:『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』抜粋)、上に抜き出されたツイートのみを捉えた場合の齟齬としてよいだろう。

寄り道したが、ここでの関心の焦点は、冒頭からの「母の欲望」である。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFより

(1) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、ラカンにとって、全体としての原象徴的 protosymbolic 母-子関係の一般的呼称である。あるいは、よりうまく言えば、母子関係を構成する・母子関係において構成される、原象徴的 protosymbolic「諸シニフィアンsignifiers」の呼称である。

(2) 〈母の欲望〉Desire-of-the-Mother とは、いまだ組織内されず、あるいはグループ化されていない対立する「諸シニフィアンsignifiers」の流れである。

(3) より正確に言えば、これらの「諸シニフィアン signifiers」は、(絶え間なく変化する不確かな代理としての)母の欲望 mother's desire の換喩的対象に相当する。…

したがって、それらの諸シニフィアンは対立的である。というのは、不在の背景に対して、換喩的対象の場を一時的に占めるどんな対象にも当てられるから(既に象徴的対象として経験されたというゆえに)。

平行して、それらの諸シニフィアンは、流れ flow を表象すると言いうる。というのは、集合化されていないにもかかわらず、換喩的鎖を形作るから。そのような流れは、要求の永続的不満足によって支えられている。集合化は、後に、最初の父の隠喩によってもたらされる。

(4) 「原-諸シニフィアン」Primordial signifiers とは、なによりもまず、想像的シニフィアンであり、それ自体、記号 signsである。もし、一方で、それらの対立的側面ーー「いないないばあ Fort!–Da!」のような発声を伴ったーーは、それらを「諸シニフィアン」として考えさせてくれるとしたら、他方で、それらはまた、フロイトの「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」の意味での、記号 (Zeichen)でもある。

※「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」(仏語 représentant-représentation,英語 ideational-representative )。表象代理とは、「主体の生活史をつうじて欲動 Triebe の固着の対象となり、また、心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群」。

ラカンによれば、〈母の欲望〉を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における(子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィアン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。すなわち、子どもが、要求のなかで、彼の欲求を表明 articulate し、要求が想像的シニフィアンを創造すれば、子どもは抑圧をこうむる。

ここから、我々は結論づけることができる。フロイトとは異なり、ラカンにとって、すべての「表象代理」Vorstellungsrepräsentanz は、それ自体、原無意識 proto-unconscious のなかに、必然的に抑圧/刻印される。いったん無意識が、父の隠喩の作用によって、自己意識から正しく区別されたら、そのような表象代理の絶え間ない刻印が続いてゆく。この理由で、我々は言うことだできる、ラカンにとって、正当な原抑圧が起こった後、すべてのシニフィアンは二重に刻印される、と(意識的な通時的鎖 diachronic chain と無意識的な共時的鎖 synchronic chains のなかに)。
〈母の欲望〉の複合的な徴示 signifying 機能は、必然的に、〈父の名〉の地位にとって重要な飛び火をもたらす。

両方ともシニフィアンと考えられる範囲において、二つのあいだの置換作用は、正しく(父の)隠喩と呼びうる。他方で、〈母の欲望〉は、同時に、ただの原シニフィアン protosignifier 、表象代理の組織化されていない流れーーその想像的-象徴的徴示要素は、まだ何らかの形で、トラウマの現実界 Real of a trauma と直かの接触があるーーであることを考えれば、〈父の名〉はまた、記号として捉えうる。

我々は、少し前、やや異なった視点から結論づけたように、ファルスの意味作用を促進することによって、〈父の名〉は、両-一義的に bi- univocally 、謎めいた「彼女は何を欲しているのか?」ーー子どもは(完全には)象徴化しえるどころではない謎--を徴示する。まさにこの意味で、ファルスは、主人のシニフィアン (S1)と見なされるべきだ、うまくエディプス・コンプレックスに入場し崩壊させた主体たちの無意識のS1として。

セミネールVから、ラカンの最も有効な表現のひとつを使えば、ファルスは、結局、「signe constituant」である。興味深いことに、この段階におけるラカンは、この表現を、記号/想像的シニフィアンーーたとえば鞭や棒などーーのみに適用しているように見える。「異常な」エディプス関係において、それは、「代替的な」形で、子どもを能動的に象徴秩序に入場させる、と(マゾヒズム的倒錯によって徴づけられるものとして)。

《Il y en a parmi ces signes qui sont des signes constituants, je veux dire par où la création de la valeur est assurée, je veux dire par où ce quelque chose de réel qui est engagé à chaque instant dans cette économie est frappé de cette barre qui en fait un signe.》(S.5)

…もっと一般的に言えば、我々は強調しなければならない。父の法の超越性が、象徴的〈他者〉の自己充足性を与える限り、ラカンは、標準的なファルス幻想ーーそれはエディプス・コンプレックスの成功した施行にかかわる--を、あからさまには explicitly 認めていないことを。幻想は、倒錯の領野のなかに隔離されている。…

だが事態は変わる、ラカンが「〈他者〉の〈他者〉はない」の結論に到ったときにすぐさま。大他者の大他者はない、とは、単純に次のことを意味する。超越的な法はない。したがって、象徴界はそれ自体ーー精神病や倒錯の病理とは独立してーー、構造的に欠けているものがある秩序であることを。この点で、正しい性別化/エディプス的解決の責務を負うという役割は残存しているにもかかわらず、〈父の名〉は次のものとなった。(a) 象徴的ファルスと完全に同一なもの。(b) 他のどんな(倒錯的)主人のシニフィアン(S1)でもよいレヴェルへと質的に「品格を下げられる」。

言い換えれば、S1としての、父の名/象徴的ファルスは、どんな場合でも、象徴界のなかの欠如に対する最も標準の幻想的代償、あるいは防衛として考えられるようになり、「倒錯的」主人のシニフィアンと区別されるどんな構造的相違もない。父の名は、もはや大他者を「取り囲み encircle」はしない。それは、大他者の欠如を「ヴェール」することによって、単に「縫合 suture」するだけである。

結果として、諸主人のシニフィアン S1s は、それら各自の諸シニフィアンS2 が依拠する、平等に特権化されたシニフィアンとして定義される。しかしながら、そうした依拠は、意味作用のレヴェルに限られる。シニフィアン S2 は、所定の S1 に依拠するーーS2 は、彼の S1 に対して無意識の主体を表象、あるいは徴示するーーという事実は、S1 はその S2s を徴示することをもはや意味しない。

もはや諸シニフィアンのどんなシニフィアンもない。ただ相互に排他的なーー潜在的な無限性を通しての--諸シニフィアン S1 の複数性があるだけだ。それは、基本的幻想のなかで主体の無意識を固定することにより、シニフィエをシニフィアンする(意味されるものを徴示する)。

代数的なの幻想の式 $◇a ーーこれは、「去勢された主体の、原トラウマとしての現実界への(遡及的な)関係」と読まれるーーにかんして言えば、S1 はまさにこの二つの要素($、a)を結びつけるものである。

ーーここでの抜粋私訳は、ロレンツォのラカンセミネールⅤ解釈にもとづいているが、彼は別にセミネールⅩ(不安)にも依拠しつつ、「母の欲望」について詳細な記述がなされているが、ここでは割愛(わたくしにはいまだ納得できていない箇所がある、ということもある。彼の著書の核心そのものは、セミネールⅩⅩⅢの核心的記述(その一つは、この文)から、遡及的に過去のセミネールを読むという態度である)。

以下、いくらかラカン自身の文から引用しておこう。

ロレンツォの議論の核心の議論の一つは「欠如の欠如」である。すなわち、the lack is lacking” / “le manque vient à manquer” (1962)。まず、このリンク先には記載されていない文をひとつ抜き出しておく。

Ceci que ce sur quoi on met un accent qui n'est pas bien centré… à savoir que soi-disant l'angoisse serait liée à l'interdiction par la mère des pratiques masturbatoires …est vécu, perçu, par l'enfant comme présence du désir de la mère s'exerçant à son endroit.

Qu'est-ce que l'angoisse en général dans le rapport avec l'objet du désir ? Qu'est ce que nous apprend ici l'expérience si ce n'est qu'elle est tentation, non pas perte de l'objet, mais justement présence de ceci : que les objets ça ne manque pas !

Et pour passer à l'étape suivante, celle de l'amour du surmoi avec tout ce qu'il est censé poser dans la voie dite de l'échec, qu'est-ce que ça veut dire sinon que ce qui est craint, c'est la réussite, c'est toujours le : « ça ne manque pas ». P.91 S.10

あるいは、ロレンツォの論には、「不安」セミネールからの下記の文にからんだ解釈がある。

Il у а, au stade oral, un certain rapport de la demande au désir voilé de la mère.

Il у а au stade anal, l'entrée en jeu pour le désir, de la demande de la mère.

Il у а au stade de la castration phallique, le moins phallus (-φ), l'entrée de la négativité quant à l'instrument du désir, au moment du surgissement du désir sexuel comme tel dans le champ de l'autre.(Lacan,S.10)

・口唇期には、要求とヴェールされた母の欲望とのあいだある関係。

・肛門期には、母の要求の欲望にとっての機能開始がある。

・ファルスの去勢期には、マイナス-ファルス(-φ)、性欲望の興奮の瞬間に、欲望機構にかかわる否定性の登場、 …………という意味合いのことが記されている。



2015年9月17日木曜日

ラカンのシニフィアンの定義:「シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する」

まずラカン「無意識の位置」(エクリ)より。

E840

 シニフィアンの領域は、シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象するという事実を基礎に成立しています。これはすべての無意識の形成物、すなわち夢、いい間違い、機知の構造です。これと同じ構造はまた、主体の原初的分裂[division]を説明してくれます。シニフィアンはいまだ位置づけられていない《他者》の場所に作り出され、いまだ話すことのできない存在から主体を生み出します。しかし、このことはその存在を凍りつかせてしまうということをその代償とするのです。《そこにあった[il y avait]》今にも話さんとするものは消え去り、もはやシニフィアン以外の何物でもないものになります。ここで私が「il y avait」と申し上げたのは、フランス語の半過去の二つの意味を念頭においています。つまり、今にも話さんとするものを前の瞬間に位置づける(すなわち、そこにあったがもはやなくなってしまった)という意味と、後の瞬間に位置づける(すなわち、そこにありえたのだから、少し時が経てばそこにあるであろう)という意味です。

E841

 この操作が疎外[alienation]と呼ばれるのは、この操作が《他者》のなかで始まるからではありません。主体にとって《他者》が主体のシニフィアンの原因であるという事実は、どんな主体も自身の自己原因にはなれないということを説明してくれるだけです。これは主体が《神》ではないからというだけではなく、《神》を主体としてとらえた場合、《神》自身も自己原因になれない、ということから明らかです。聖アウグスティヌスはこのことを非常に明確に理解していたので、個人としての《神》に「自己-原因」としての性質を与えることを拒んだのです。(松本卓也訳

ーーなるほど松本卓也氏はすでに2004年にこのように訳しているのだな、2004年といえば彼はまだ20歳前後じゃないか。

オレのように耳順の齢をすぎてから英文(のみ)を斜め読みしている人間とはわけがちがう。

The register of the signifier is instituted on the basis of the fact that a signifier represents a subject to another signifier. This is the structure of all unconscious formations: dreams, slips of the tongue, and witticisms. The same structure explains the subject's original division. Produced in the locus of the yet-to-be-situated Other, the signifier brings forth a subject from a being that cannot yet speak, but at the cost of freezing him. The ready-to-speak that was to be there—in both senses of the French imperfect "ily avait" placing the ready-to-speak an instant before (it was there but is no longer), but also an instant after (a few moments more and it would have been there because it could have been there)—disappears, no longer being anything but a signifier.

It is thus not the fact that this operation begins in the Other that leads me to call it "alienation."The fact that the Other is, for the subject, the locus of his signifying cause merely explains why no subject can be his own cause [cause de soi], This is clear not only from the fact that he is not God, but from the fact that God himself cannot be his own cause if we think of him as a subject; Saint Augustine saw this very clearly when he refused to refer to the personal God as "self-caused" [cause de soi].

松本くんの訳文に出合った記念に、彼に敬意を表して、ほとんど縁のない仏原文をも掲げておこう。

Le registre du signifiant s'institue de ce qu'un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant. C'est la structure, rêve, lapsus et mot d'esprit. de toutes les formations de l'inconscient. Et c'est aussi celle qui explique la division originaire du sujet. Le signifiant se produisant au lieu de l'Autre non encore repéré, y fait surgir le sujet de l'être qui n'a pas encore la parole, mais c'est au prix de le figer. Ce qu'il y avait là de prêt à parler ,- ceci aux deux sens que l'imparfrait du français donne à l'il y avait, de le mettre dans l'instant d'avant : il était là et n'y est plus, mais aussi dans l'instant d'après : un peu plus il y était d'avoir pu y être, -ce qu'il y avait là, disparaît de n'être plus qu'un signifiant.

Ce n'est donc pas que cette opération prenne son départ dans l'Autre, qui la fait qualifier d'aliénation. Que L'Autre soit pour le sujet le lieu de sa cause signifiante, ne fait ici que motiver la raison pourquoi nul sujet ne peut être cause de soi. Ce qui s'impose non pas seulement de ce qu'il ne soit pas Dieu, mais de ce que Dieu lui-même ne saurait l'être, si nous devons le penser comme sujet -saint Augustin l'a fort bien vu en refusant l'attribut de cause de soi au Dieu personnel.


ところで、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ラカンのテキストに驚くほど繰り返し出現するのだが、たとえば『同一化セミネール』では次ぎのようにラカンは語っている(参照:ラカン派の「記号」と「シニフィアン」)。

シニフィアンは記号とは逆に、誰かに何かを表象するものではなく、主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象するものである。私の犬はご存知のように、私の印、記号を探し、そして話す。なぜこの犬は話す時に言語を使わないのであろう。それは、私はこの犬にとって記号を与えるもので、シニフィアンを与えることはできないからである。前言語的に存在し得るパロールと言語の違いはまさにこのシニフィアンの機能の出現にかかっているのである。(セミネールⅨ、向井雅明試訳)

冒頭だけ仏原文を掲げておこう。

Le signifiant… à l'envers du signe, n'est pas ce qui représente quelque chose pour quelqu'un …c'est ce qui représente précisément le sujet pour un autre signifiant. Séminaire 9 Staferla 版p.78


ラカンは後年セミネールⅩⅦで「四つの言説」概念を提出したが(参照)、そこでも《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》という文をとくに「主人の言説」を例に挙げて説明している(Staferla 版、P.19)。

これらは解釈者たちによって次のように説明される。

◆Lacan’s fifth Discourse, introducing the Capitalist Discourse(Philippe Gendrault)




ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW.2004

ラカンの名高いシニフィアンの「定義」、シニフィアンは主体をもうひとつのシニフィアンに対して表象する…主人の言説が基本の母胎を提供してくれる。すなわち主体はもうひとつのシニフィアン(「ふつうの諸シニフィアン」の鎖あるいは領域)に対するシニフィアンによって表象される。象徴的表象化に抵抗する残余ーー喉に刺さった骨ーーは対象aとして出現する(生産される)。そして主体は幻想的な形成を通してこの過剰に向けて彼の関係性を「正常化」しようと努める(これが主人の言説の式の下段が幻想のマテーム $ – a を示している理由である)。(私訳)


◆Paul Verhaeghe enjoyment and impossibility 2006

主体は諸シニフィアンの鎖の効果であり、ほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって表象される。主体は「己れ」を読むために主人のシニフィアンが必要である。セミネールXXにおいて、ラカンはこう言っている、主人のシニフィアンは封筒のようなものであり、その包みを通して諸シニフィアンの全ての鎖ーー知knowledgeーーは存続しうる、と。(Seminar XX, 129-131)


ここではもうひとつ、上に掲げたエクリにある《どんな主体も自身の自己原因にはなれない》にも注目してみよう。セミネールⅩⅣには、「シニフィアンはそれ自身をシニフィアン(徴示)することができない」、というふうに要約できる文がある。

英訳:it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.(The Logic of Fantasy)

仏原文;il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( Logique Du Fantasme l966-67 )


さらに、《シニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象する》とは、ジュパンチッチのバディウ論によれば、”a major breakthrough of contemporary thought”だそうだ。しかもラカンの現実界の定義にもかかわり、pas-tout(非全体の論理)もかかわる、と。


■THE FIFTH CONDITION Alenka Zupancic

A conception that finds its most concise formulation in Lacan's statement: ‘a signifier represents a subject for another signifier'. This was a major breakthrough of contemporary thought, a breakthrough that could in fact provide philosophy with its ‘fifth condition', i.e. its own distinctive conceptual space. For in this conception, representation is not a ‘presentation of presentation' or the state of a situation but rather a ‘presentation within presentation' or a state within a situation. In this conception, representation is itself infinite and constitutively not-all (or non-conclusive), it represents no object and does not prevent a continuous un-relating of its own terms (which is how Badiou defines the mechanism of truth). Here, representation as such is a wandering excess over itself; representation is the infinite tarrying with the excess that springs not simply from what is or is not represented (its ‘object'), but from this act of representation itself, from its own inherent ‘crack' or inconsistency. The Real is not something outside or beyond representation, but is the very crack of representation.


この最後の現実界の定義めいたものは、ジジェクが『LESS THAN NOTHING』(2012)でいっている「波打ち際」にもかかわるのだろう(参照:“A is A” と “A = A”)。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

…………

※追記

セミネールⅢにもすでに次ぎのように出て来ていることに注目しておこう。

Il n'y a pas d'autre définition justement scientifique des subjectivités que par cette possibilité de manier le signifiant à des fins purement signifiantes, et non pas significatives, c'est-à-dire qui n'expriment aucune relation directe de l'ordre de l'appétit, et font jouer l'ordre du signifiant, et non pas simplement à l'état de signifiant constitué. p.421

そしてラカンのシニフィアンの捉え方の説明として初期から後期までのラカンの主体概念を綿密に解釈するおどろくべき書『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 (Lorenzo Chiesa. 2007)における冒頭近くにある軽いジャブ程度のシニフィアンの定義を掲げておこう。

(1)《シニフィアンはどんな対象とも関係しない記号である》(S.3)。それは《他の記号と関係する記号であり、それ自体、他の記号の不在を徴示するように構造化されている。言い換えれば、二つ組で己に対立する》(S.3)。さらにシニフィアンは必らずしも(文のなかの)言葉に相当しない。音素から文までの言語のあらゆる階層的レヴェルでの対立するユニットはシニフィアンとして機能しうる。人のボディランゲージもーー例えば、頭を振ったり頷いたり手を振ったり等々ーーそれが多義的である限りにおいてシニフィアンとして働きうる。

(2) 記号とは、厳密に言えば、コード概念、あるいは「生物学的な記号」と重なり合う何かである。索引と指示物とのあいだのとゲシュタルト的/想像的なーー両-一義的な bi-univocal ーー関係である。これは動物のコミュニケーションの領域である(思い起こしてみよう、例えば動物においてある色の出現はそのパートナーにおけるある性的反応を惹き起こす仕方を)。このように動物のコミュニケーションは「(特別の)意味をもつ significant」。他方、人間のコミュニケーションは「徴示する signifying」。その意味はけっして「両-一義的 bi-univocal」でないことである。というのは根絶できない虚偽の可能性ーー象徴的局面の精髄ーーが間違いなくあるのだから。

(3)「主体性のどんな科学的定義もない、次ぎのように考え始める以外は。すなわち意味する先ではなくnot significant ends、純粋に徴示するものpurely signifyingに対するシニフィアンを扱うことの可能性から始めること。これは、欲求の秩序とのどんな直接の関係性もないことを言っている」(Seminar. III, p. 189) この定義はすでに1960年代初めのラカンの名高い公式の基本を提示している。その公式によれば、主体はほかのシニフィアンに対するシニフィアンによって代表象される。主体はシニフィエに還元され得ない。シニフィエの主体the subject of the signified とは自我egoに相当する。他方、主体はシニフィアンにさえ同一化できない。というのはシニフィアンの行為そのものが言表内容と言表行為のあいだで主体を分裂させるからだ。どんなシニフィアンも主体を十分に徴示するsignifiesことはない、それが「特権的なシニフィアン」であってさえも。(私訳)

そしてシニフィアンを考える上で肝腎なことは次ぎのようなことだ。

医療診断学において、症状は、底に横たわる障害を指し示す記号として解釈される。その記号は、孤立化されると同時に一般化される。臨床的な精神診断学においては、われわれはシニフィアンに直面する。そのシニフィアンは、患者と〈他者〉とのあいだのその折々に見合った相互作用において絶え間なく移動する意味をもっている。(……)

臨床的な精神診断学の問いは、「この患者はどんな病気を持っているか?」というものではそれほどなく、むしろ「この症状は誰に、何に、差し向けられているのか?」というものである。底に横たわる、しかし目に見えない構造――患者に交差するすべてを決定する構造――があるに違いないというものである。

医療診断学は特定化(症状symptom)から始め、一般化に向かう(症候群syndrome)。それは、個々人の苦情に完全に焦点を絞った記号的なシステムsemiotic systemを基礎としている。臨床的な精神診断学は一般(化)(始まりの苦情)から始めて、個別化(N = 1)に進んで行く。それは、主体と〈他者〉とのあいだのより広い関係性の部分であるシニフィアンのシステムを基礎としている。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

これはなにも精神分析臨床の実践の場のみにはかかわらない。われわれはたとえばツイッター上での発言を記号として捉えるか、シニフィアンとして捉えるか、そこに人の発言を判断する「分析」の要(のひとつ)がある。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』ーー「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」(フロイト))

ーーでは、〈あなた〉は「精神科医」でないのだから、人の発言を「額面通り」とるのだろうか? それが好きならそうしたらよろしい。だがそれでは、たとえば「政治家」の発言をなにも解釈できないだろう。

…………

※追記:別に投稿しようと思ったがあえてそうするまでもない気がしてきたのでここに追記しておく。

ジジェクによるラカンの「波打ち際 littorale」のよりわかりやすい説明は次ぎの文がいいだろう。

Levi R. Bryantは『The Democracy of Objects』(2011)にてジジェクの『為すところを知らざればなり』から引用して次ぎのように記している。

the bar which separates [the symbolic and the real] is strictly internal to the Symbolic, since it prevents the Symbolic from “becoming itself”. The problem for the signifier is not its impossibility to touch the real but its impossibility to “attain itself”—what the signifier lacks is not the extra-linguistic object but the Signifier itself, a non-barred, non-hindered (Cf. Žižek, For They Know Not What They Do, p. 112.)
In short, the real is not something other than the symbolic, but rather is a sort of effect of the symbolic resulting from the difference that haunts every signifier by virtue of the split between the signifier and its place of inscription. Because the signifier always embodies this difference between itself and its place of inscription, the signifier always and everywhere necessarily fails to attain identity with itself. However, this very failure to attain identity with itself is precisely the very essence of its identity. As Hegel playfully remarks in the Science of Logic, if A were identical with itself, why would I need to repeat it? The repetition of an identity in a tautology like “A = A” actually marks the difference or non-identity of A with itself.

彼は同じ書で、ラカンのシニフィアンの定義をヒステリーの言説にて説明している。



In the discourse of the hysteric, the subject addresses the Other or master from the standpoint of his split. This split results from the inability of the symbolic or language to provide the subject with a signifier that would fix or name his identity within the symbolic.

In short, the hysterical subject calls on the other to tell him what he is. This inability of language to provide a signifier that would found the subject arises from the essence of language itself.

As Lacan remarks in The Logic of Fantasy, “it is of the nature of each and every signifier that it cannot signify itself”.273

Insofar as the signifier cannot signify itself, it always requires another signifier to produce effects of signification.

In this respect, signifiers have the structure of sets that do not include themselves, and Lacan does not hesitate to draw a parallel with Russell's paradox pertaining to the impossibility of a set of all sets that do not include themselves. The net result of this is that there cannot be a “universe of discourse” or totality of language because it will always be beset by paradox from within.274

The consequence of this is that there can be no stable signifier that could ground the subject's identity, for each signifier will necessarily refer to another signifier without any possibility of completeness. It is this structure of language that accounts for the divided structure of the subject.

Moreover, in the position of truth in the discourse of the hysteric, we encounter objet a as that remainder that is always lost within language. It is this remainder that literally drives the subject forward, forever looking for that signifier that would ground identity, and further alienating himself through his speech.

The product of this discourse, we note, is knowledge, S2, produced as a result of the hysteric's demand. Indeed, Lacan claims that the discourse of the hysteric is the only discourse that produces knowledge.275 In this connection, we can treat Φ and the master or S1 to which the hysteric addresses himself as equivalent.

ようするにシニフィアンの定義の文は四つの言説のいずれであっても説明可能であり、核心は四つの言説の基底にある形式的構造である。








2015年6月17日水曜日

精神病、あるいは「父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す」症状

「精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.同時に,精神病では,大他者は享楽から分離していません.パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います.…

…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます.スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです.また同時に,パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です.パラノイアにとっての大他者は存在しますし,大他者はまさに対象aの大食家なのです」Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23 松本卓也訳

ーーというわけで、ラカン派的にも、パラノイア/スキゾフレニーの相違が肝要だろうが、あるいは現在なら自閉症などを絡めて、さらには日本的文脈では統合失調症とはほんとうにスキゾフレニーのことなのだろうかという問いもあるだろうが、ここでは精神病一般についてのメモ。

日本術語「統合失調症」の”区切り”より

オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』

なおフロイトやラカンがときに同じものと扱ったりそうでなかったりするAusstossung/Verwerfungについて、次のような見解さえあることを、ここでの文脈からはずれるが、先に示しておこう。

Ausstossung(排出)は、Verwerfung(foreclosure排除・拒絶)とは徹底的に異なったものだ。それは精神病に特有の機制であるどころか、〈他者〉自体の領野を開くものである。この意味で、それは象徴界の拒絶ではなく、それ自体、象徴化なのである。我々はここで精神病と妄想を考えるべきではない。そうではなく主体それ自体を考えるべきある。決定的なのは、これは排除foreclosureは精神病者を言語のなかに住むことを妨げることはないという事実にかかわる。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999, p. 72.私訳)

…………

◆ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」 Jacques-Alain Miller, An Introduction To Lacan's Clinical Perspectives, in Reading Seminars I and II: Lacan's Return to Freud

ラカンはフロイトの著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。[Verdrangung(repression)]、精神病では排除[Verwerfung(foreclosure)]、倒錯で は 否 認 [Verleugnung(disavowal,desaveu)] です 。 ラカンは最終的には否認[Verleugnung]に dementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。

ラカンの分析の教義の多くは、否定の三つの異なったモードを作ることにささげられています。ラカンはこのように言います――精神病における排除[Verwerfung] は 父のシニフィアンの否定であり、倒錯における否認[Verleugnung]はファルスのシニフィアンの否定の特別なモードであり、 神経症における抑圧[Verdrangung]は主体自身のより広範な否定である、 と。 これらのメカニズムには詳細なレクチャーが必要でしょう。

これらのカテゴリーのそれぞれには、もちろんさらなる区別があります。ラカンは何度も三つのカテゴリーに平行線を引いています。ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。

とはいえ、ミレールは最近次ぎのような発言をしている。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

さて、一般には、精神病者が妄想をつくるのは、「回復の試み」(フロイト)であるとされる。父の名の隠喩のかわりに妄想的隠喩(métaphore délirante)を自ら導入することで、不安定な謎の意味作用を安定化させようとする。

かつまた、無意識は主体につねに真理を語りかけているのだが、《神経症者は、その無意識(=大他者)の声に耳をとざしてしまっている。一方、精神病では無意識の主体にむけた語りがダイレクトに届いている(=幻聴)。こういった意味で,精神病者のほうが認知が優れている、とラカンは考えた》(松本卓也ツイート)などともいわれる。

以下の文はその前提で読んでみよう(なお再三くり返しているが、このブログの書き手は、精神医学臨床にかんしてまったくシロウトである)。


◆ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012 私訳(「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって」より)。

…この決定的なポイントをはっきりさせるため、精神分析理論における眼差しと声の地位を明確化することから始めよう。そこでは、我々は常に神経症、精神病、倒錯の異なった地位を念頭に置かなければならない。

(1) 神経症において、我々はヒステリー的な盲目と声の喪失を取り扱う。すなわち、声あるいは眼差しは、その能力を奪われてしまう。精神病においては逆に、眼差しあるいは声の過剰がある。精神病者は己れが眼差されている経験をする(パラノイア)、あるいは存在しない声を聴く(幻聴)。これらの二つの立場と対照的に、倒錯者は声あるいは眼差しを道具として使う。彼は眼差し・声とともに「物事をなす」のだ。

(2) 眼差しと声のカップルは、また物表象Sach‐Vorstellungen と語表象Wort‐Vorstellungenのカップルにかかわる。「物表象」は眼差しを含んでいる(我々が物を見るとき)。「語表象」は声(声のイメージ)を含んでいる(我々が言葉を聞くとき)。

(3)さらに、眼差しと声はそれぞれ、イド(欲動)と超自我に関係する。眼差しは覗見欲動を動員し、声は超自我の審級ーー主体に圧迫をかけるーーの媒体である。しかしまたここで心に留めておく必要がある、超自我はイドからエネルギーを引き出していることを。その意味は、超自我の声もまた欲動を動員するということだ。

このように、欲動の用語において、声と眼差しは、エロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。眼差しは「 一撃で打ちのめすsiderates」 、脱線させ、釘づけにする、あるいは主体の顔を不動化する、主体をメドゥーサのような恐怖ですくみ上がった実体にする。現実界への洞察は身体を苦しめる。それは死を表す(メドゥーサの頭自体、釘づけにされた/恐怖ですくみ上がった眼差しである。それを見ることは、私を盲目にしない。ーー反対に、私自身が釘づけにされた眼差しになる)。他方、誘惑的な声は、前エディプスの法の彼方/法の底にある母との繫がりを表す。(母の子守唄からから催眠術師に声までの)活気を帯びた臍の緒を表す。

(4) 四つの部分対象(口唇、肛門、声、眼差し)のあいだの関係は、二つの軸、「要求/欲望」と「〈他者〉へ/〈他者〉から」の軸に沿って構造化される四角形の関係である。

口唇対象は要求を伴う。それは〈他者〉へ向けられる(母へ、私が欲しいものを下さい!)。他方、肛門対象は、〈他者〉からの要求である(肛門経済において、私の欲望の対象は〈他者〉の要求へ降格される。ーー私は糞便を規則正しくしなければならない、 親の要求を満足させるため)。

同様に、覗見欲動は〈他者〉へ向けられた欲望を伴う(それを見せて!私に見させて!)。他方、声の対象は〈他者〉からの欲望を伴う(声は私から欲しいものを知らせる)。すこし異なったふうに言えばこうなる。主体の眼差しは〈他者〉を見ようとする試みを伴う。他方、声は懇願・呪文である(ラカンの懇願・祈り欲動 invocatory drive)。それは〈他者〉(神、王、愛された者)を駆り立てる試みである。この理由で、眼差しは〈他者〉に屈辱を与え-鎮定し-不動化するmortifies‐pacifies‐immobilizes。他方、声は〈他者〉を活気づけるvivifies。声は〈他者〉から言動を誘い出すのだ。

(5) 眼差しと声は、それでは、いかにして社会的領野に刻み込まれるのか。まずは、恥と罪である。過剰に視る・裸の私を見詰める〈他者〉による恥。他者たちが私について言っていることを聞くことにより引き起こされる罪。声と眼差しは、このように、超自我と自我理想の対照にかかわるのではないか? 超自我は、主体に纏いつき、主体の罪を見出す声である。他方、自我理想は、主体がその前で恥じ入る眼差しである。このようにしてトリプルな同等物の連鎖がある。「眼差しー恥ー自我理想」、そして「声ー罪ー超自我」である。(ジジェク ZIZEK,LESS THAN NOTHING 2012)


◆フィンク THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE by Bruce Fink(1995 私訳)

ラカンによれば、精神病は、幼児の“原”シニフィアンを取り込む失敗の結果である。“原”シニフィアンとは、その取り込みに失敗しなければ、子どもの象徴世界を構成するものである。失敗すれば、子どもは言語のなかに錨を下ろさないままになる。方向を示す磁石がないということだ。精神病者の子どもは言語をとてもよく取り入れるかもしれない。とはいえ、神経症の子どもと同じようではない。基本的な錨を下ろす点が欠けているため、取り入れられたシニフィアンの残りは、漂流に追い込まれる。
神経症者は珍しい用語をきくとき…その言葉をきいた最初の折を思い起こすかもしれない。…他方、精神病者はもっぱら音声や音波phonetic or sonicの側面に集中する。…言葉は物として、リアルな対象として捉えられる。

以下、Lorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる)の補遺でもある。


◆Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007より

1960年代から1970年代にかけて、ラカンの理論は、《〈他者〉の〈他者〉はない》(それはアルジェブラとしてはȺとして言い表される)という前提にしっかりと依拠しているようにみえる。ラカンの思考のこのフェーズは、別の思考に先行されているが、この事についてラカンはしばしば相反する言明を提供しており、この本質的な結論が、初めて十全に想定された特定の瞬間をはっきりと同定するのは難しい。

セミネールV(1957‒1958)は、議論の余地なく、「〈他者〉の「他者〉は存在する」という仮定のもとに、父の隠喩の機能を導入している。ラカン曰く、《分析の経験が我々に示してくれるのは、〈他者〉にかんする〈他者〉Other with respect to the Otherによって提供される背景[arrière-plan] の必須性である。それなくしては、言語の世界は自らを分節化できない》。

一年もたたないうちに、今度はセミネールVIで、躊躇なく宣言することになる、《〈他者〉の〈他者〉はない…シニフィアンのどんな表明の具体的な成り行きconsequenceを支えるシニフィアンは存在しない》(=メタランゲージは存在しない:訳者)。

我々はこの明らかに折り合いのつかない二つの引用文をどう取り扱えばいいのだろう? 私は示唆しておきたいのだが、せっかちに選定してしまうこと、すなわちセミネール V とVI のあいだのどこかに根本的な転回Kehreをみることは、おそらくラカンの思考の多面的かつ非線形の進化を見逃がすことになるだろう。

とはいえ、1958年から1963年にわたる実りの多い年月のあいだに、ラカン理論が目醒しく動いたのはたしかだ。それは1950年代の半ばに優勢だったものを超えて、「構造」概念に向う。その概念にとって「〈他者〉の〈他者〉はない」は、暗黙のモットーとして考えられるべきだろう。この公式が意味することを手短かに概括してみよう。

「(象徴的)〈他者〉の(象徴的)〈他者〉がいる」という事実が示すのは、シニフィアンの秩序としての〈他者〉は別の超越的な〈他者〉、すなわち父性の〈法〉に支えられているということである。〈法〉としての〈他者〉、〈他者〉の〈他者〉は、〈父の名〉に一致する。これがエディプスコンプレックスの消滅を許容する。その結果、主体は母とのあいだの不穏な関係から脱却する。

このようにして、主体は能動的に、間主体的な象徴領野に入ることが可能になる。私はこの点をグラフ4.1にて示そう。そこでは斜線を引かれた主体$、諸シニフィアンの〈他者〉S2、主人のシニフィアンS1、そして父の名としての〈他者〉の〈他者〉のあいだにある関係を示している。



主体が、言語によって引き起こされた分裂Spaltungの結果として、斜線をを引かれている限り、彼は次のように見なされることになる。すなわち、一つのシニフィアン(無意識のシニフィアンの鎖のなかのあらゆるシニフィアンS2)は他の(特権的)シニフィアン(S1)を表象する。標準のファルス的幻想の場合、主人のシニフィアンは象徴的ファルスΦと同じものであり、それは父の名の超越的な法を体現する。

グラフ4.1 は、まずは地形図的に「父の名」の超越性を表している。それは全ての他のシニフィアン(Φを含む)にかんして超越的である。父の名は「背景arrière-plan」の機能をもっており、「諸シニフィアンのなかのシニフィアンsignifier of signifiers」としてある。まさに父の名が全ての他のシニフィアンを取り囲んでいるがゆえ、この段階でのラカン理論は、自己完結的で自立した象徴的〈他者〉の存在を仮定しているようにみえる。《全ての言語はメタランゲージである》(セミネール III)

この結果として、現実界の審級は象徴界から完全に分離している。現実界はただ否定的に、象徴界でないものとして定義される。

この文脈で、ラカンが精神病者を次のように定義したのは偶然ではない。すなわち、主体が現実界とのダイレクトな接触のなかに自ら見出した故の、排除、父の名のラディカルな拒絶と。精神病者は〈他者〉の〈他者〉を欠いている。

これが、『精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について』(1957‒1958)にて、ラカンが提案が次のように提案した理由である。精神病はただtout court〈他者〉の不在に対応するのではない。むしろ、(諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiersとしての)父の名の欠如の効果にかかわる。《父の名と呼ばれるものは、〈他者〉のなかのある点に対応するかもしれない。単なる一つの穴に、である。その穴は、隠喩効果の不十分性によって、ファルスの意味作用の場に付随した穴を引き起こすだろう》。

言い換えれば、精神病者は言語との関係が欠けているどころか、彼は実は、言語的な〈他者〉に浸り切っている。その言語的〈他者〉とは、父性隠喩によって「ファルス的に」組織されていないものだ。

精神病者の場合、諸シニフィアン(S2) の〈他者〉は、法の〈他者〉に統整されていないので、精神病者は言語の犠牲者のままである。すなわち、彼は言語によって「話させられている」。これを私はグラフ4.2で図式化した。象徴的〈他者〉の〈他者〉は主体が現実界によって侵入されることを妨げる。精神病の場合に、その侵入が起これば、悲惨な結果をもたらす。


ラカンは確信していた、精神病者の精神生活は、諸シニフィアンによって完全に決定づけられていることを。彼はまた信じていたようにみえる、精神病者は想像的な意味作用を生みだしうると。実際のところ、精神病はしばしば潜在的である。逆に、妄想は、たいていの深刻な事例でさえ「部分的」だと考えられていた。精神病者ができないことーー父の名が欠けており、その結果として主人のシニフィアン (S1)が欠けていることによって、できないことーー、それは、一貫性した言説において生み出される意味作用の秩序である。

言い換えれば、精神病者の精神生活は、にシニフィアンからシニフィアンへの絶えまない換喩的な横すべりで単に成り立っているわけではない。隠喩的な過程もまた可能なのだ。ラカンは実際に「妄想的隠喩」について語っている。そこでは《シニフィアンとシニフィエが(一時的に)安定化される》(S3)。ある程度の象徴的分節化はあるのだ。その分節化は種々のシニフィアンの連鎖が重なることで意味作用が生み出されるおかげであるーー《これらの患者は、我々と同じ言語で我々に話しかけている》(S3)ーーしかしながら、これらの連鎖は、諸シニフィアンのシニフィアン(父の名)によってより広く秩序づけられてはいない。

ここから導きだされる最も重要な結論は、妄想がいかに深刻で根強いものであっても、精神病者はけっして、言語を超えた、純粋な、原初の現実界の神秘的な領野に囚われるわけではないことだ。そのような頻繁に生じる誤解を避けるために、注意深く、精神病についてのラカンの最も有名な定式のひとつ、「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」の重要性をふたたび見極めなければならない。

…………

以下、続くーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」に掲げたーー 、がここに再掲しておこう。この定式についてラカンは実際にはそんなことを言っていないという見方もそこで示したが、それはわたくしにはよくわからないし、いまはたいした問題ではないだろう、と思っている。最も肝要な点は、排除されたものの回帰を、「排除された<もの>Das Dingの回帰」と読んではならぬということだろう(das Ding、すなわちフロイト的〈モノ〉 。不可能にして獲得不能な享楽の実体)。
@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

というわけで、 Lorenzo Chiesaの叙述を再掲。

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」が、第一に意味するのは次のことである。すなわち、象徴界の外部の支えexternal guarantorとしての父の名が排除されるなら、毎日の現実は言語の現実界へ変身しturns into the Real-of-language、妄想delusionsが起りうるということだ。

セミネールIIIにて、ラカンは文字通りには次のようにいっている、《象徴化されないものは現実界のなかに回帰する》(SIII, p. 86)そして《Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる》(p. 190)。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……

2015年6月13日土曜日

ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ

ラカン派では精神病の特徴としての「排除」概念にまつわって、「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」という言い方がかねてからなされてきた。

たとえば、ジジェクはすでにはやい時期から、ミレールのラカン解釈に依拠しつつ、こう書いた。

象徴界から排除されたものは、症状の現実界のなかに回帰する。

what was foreclosed from the Symbolic returns in the Real of the symptom'(ZIZEK 1989)

ところで、一年ほどまえかーーもう少し前だったかーー、松本卓也氏が向井雅明氏との対話の直後なのだろう、 次ぎのようなツイートをしていた。

@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

とても印象的なツイートで、ラカンは「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」とは言っていないのだな、と目が覚まされた。もちろんより重要な点としては、黒字強調した箇所である。


ところで、最近、比較的若いラカン派のLorenzo Chiesaの名にたまたま遭遇した。私はこの数年のあいだ、ラカンの精神分析の目標として主体の解任(神経症者にとって)ということがいわれるが、これは神経症者を精神病者的にすることではないか、という疑念をもっていた。といっても「ときに」であり、専門家ではまったくないので、深く追求することはなかったが。この問いをめぐる応答としてたまたまLorenzo Chiesaの論文「アルトーととものラカンLacan with Artaud」に行き当たったわけだ。

分析の終りとして後期ラカンの仕事によって提唱されたサントームとの同一化(自らのリアルを名付けることとしての)は、決して永久的な主体の解任、精神病的な象徴界の無-機能になることではない。(Lorenzo Chiesa「Lacan with Artaud」ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

ここで、Lorenzo Chiesa.の別の論『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan』 2007 からぬき出してみよう。

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」が、第一に意味するのは次のことである。すなわち、象徴界の外部の支えexternal guarantorとしての父の名が排除されるなら、毎日の現実は言語の現実界へ変身しturns into the Real-of-language、妄想delusionsが起りうるということだ。

“what is foreclosed from the Symbolic returns in the Real” to mean primarily: if the Name-of-the-Father as external guarantor of the Symbolic is foreclosed, then delusions may arise in which everyday reality turns into the Real-of-language

「象徴界から排除されたものは、現実界のなかに回帰する」とは、Chiesaによれば、ラカンのセミネールⅢ(精神病のセミネール)からの次の二つの文に由来するということだ。

セミネールIIIにて、ラカンは文字通りには次のようにいっている、《象徴化されないものは現実界のなかに回帰する》(SIII, p. 86)そして《Verwerfung(排除)の対象は現実界のなかに再び現れる》(p. 190)。

In Seminar III, Lacan literally says that “what is not symbolized returns in the real” (The Seminar. Book III, p. 86), and that “the object of a Verwerfung [foreclusion] reappear[s] in the real” (ibid., p. 190).


以下、この議論における肝腎だと思われる文章の私訳を掲げる。

子どもは、エディプスコンプレックス(その消滅)を通して象徴界への能動的な入場active entryをする前に、文字letterとしての言語、言語のリアルReal-of-languageに関係する。人は原初の肝所を思い描くことを余儀なくされる、肝所、すなわちペットのように言語のなかに全き疎外されている状態を。これはたんに神話的な始まりを表すだけに違いないとはいえ、それにもかかわらず、子どもは、いかに話すかを学んだのちも、(文字としての)言語によって話されbe spoken by language続ける。

精神病者は、もし諸シニフィアンのシニフィアンsignifier of signifiers (父の名)が排除されているなら、いかに意味作用あるいは意味されるものを生み出すのだろうか? 私は、精神病にて《S2sはそれら自身のあいだに関係をもつ》(B. Fink, The Lacanian Subject [1995])について十分に議論されていないと信じている。

もし、精神病にて、S2sのあいだの関係が、言語のリアル(文字)の領野を超えてゆくのなら、もし、精神病者がしばしば潜在的(非発病)で、その主体は意味作用の生産をなんとかやっているのなら、ある数のシニフィアンーーS2sを越えたものでありながら正当なS1の地位を獲得していないいくつかのシニフィアンの手段によってのみ、そうし得る。

これは次のラカンの言明を説明するだろう、《人間にとって、「正常normal」と呼ばれるためには、彼は「最低限の数」の縫合点 “a minimal number” of quilting points を獲得しなければならない》(The Seminar Book III, pp. 268‒269)。

言い換えれば、精神病者は縫合点がないわけではない……精神病者は、原初の(そして質的にはより重要な)縫合点、父性隠喩によって生み出された縫合点を排除している。とはいえ、それにもかかわらず、精神病者は(量的に不十分な数の)他の縫合点を持っている。それは定義上、S2の地位におとしめることはできないものだ。もしこれがそうでなかったら、彼はシンプルに「完全な狂人」だろう、彼は我々の言語を話さない……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007 )


 言語のリアルReal-of-languageとは何か。もちろんアルトーのいわゆる「舌語」やラカンの「ララング」を思い起すこともできるが、ここではより分かりやすい中井久夫の文を掲げておこう。


◆中井久夫「詩の基底にあるもの」より(『家族の深淵』所収 初出1994)

―――その生理心理的基底



精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。




詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。

私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。

その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。




実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。

むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。

散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。

かりに、貴重な薄氷感を失えば、言語の発見論的使用は「妄想」に堕する危険がある。実際、妄想は全面的危機に際して一つの解釈を示して救い手として現れるものであり、患者が妄想にその内容にふさわしい恐怖を示さないかに見えることは、何よりもまず、それに先行する事態がはるかにおそるべきものであって、それに比すれば何ほどのことはないからである。実際、妄想の反復性と一義性とは、内容の恐怖性を補って余りある安定を与える。ここに妄想の抜けにくさがある。それは不要になった時に自然に消滅する他はないものである。しかし、安んじて共存できるものでもない。また問題は、新しい体験が入ってこなくなることであり、それゆえに妄想を持つ人の「心が痩せる」。詩と妄想とは最終的には相互排除的であるが、出発点においては、まったく別個のものではないと私は考える。むろん、発見論的使用と無縁な韻文はありうる。それは韻文であるが「詩」との相違は、数学の論文とパズルとの差に近くはないか。もっとも、詩作のある段階においてはパズル的側面、言語ゲーム的側面が前に出ることもある。それが詩を完成させる救いになることもある。

以下まだ続くが、それは「「dyssyntagmatismus者」たち、あるいはニーチェと樫村晴香」の末尾を見よ。




2015年4月26日日曜日

ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行

以下は個人メモ(後に活用のため)。普段はこのように書いて、公表の資料として、もう少し説明的に書き直すのだが、長くなり過ぎそうなのでやめた。つまり「よい子」は無視して下さい。わたくし自身、「遡及性」をめぐって叙述すると混乱する部分がいまだある。すなわち、より関心の薄い人たちには、この文を読んでも、おそらく混乱するばかりだろう。

…………


さて、「フロイトの「拘束されたエネルギーと拘束から解放されたエネルギー」をめぐって」に引き続いて、ジジェクの最初期の著作における叙述に拘ってみよう。

ジャック=アラン・ミレールは、その公表されていないセミネールで…、特殊排除から一般排除(もちろん遠回しに、アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を仄めかしている)について話している。

ラカンが1950年代に排除の概念を導入したとき、それが示したのは、ある鍵となるシニフィアン(クッションの綴じ目point de capitan、父の名)の、象徴界からの追放の特殊な現象だった。そしてそれが精神病を引き起こす、と。…

しかしながら、ラカンの教えの晩年において、この排除の機能は普遍的な領域に及ぶ。シニフィアンそれ自体の秩序にある固有の排除があるというものだ。我々が、ある空虚の周りに構造化された象徴的構造を持つ限り、ある鍵となるシニフィアンの排除を意味する。セクシャリティの象徴的構造化は、性関係のシニフィアンの欠如を意味するのだ。すなわち「性関係はない」ーー性関係は象徴化できない。それは不可能な、「互いに敵対する」関係なのである。

そして二つの普遍化のあいだの相互連関を掴むために、我々はシンプルに何度も何度も次の命題を繰り返さなければならない、「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。

現実界としての症状ーーこれは古典的なラカンのテーゼ、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立するように見える。症状は、すぐれて象徴的形成物、解釈を通して消滅させうる暗号化されコード化されたメッセージではなかったのか?…ラカンの全ての要点は、我々は、身体の想像的仮面(たとえば、ヒステリーに症状)の裏に、象徴的重複決定overdeterminationを見抜かねばならぬことではなかったのか? この外観上の矛盾を説明するために、我々はラカンの教えの異なった段階を考慮しなければならない。我々は、症状概念を、糸口、指標の一種として、ラカンの理論的展開の主要な段階を差異化することができる。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』私訳)


 ここにあるように、ラカンの前期症状概念と後期のそれとの相違の把握は、おそらくとても重要である(それは症状のない主体はない》(ラカン)で、比較的詳しく見た)。

だが、今はその話題ではない。今まず注目したいのは、冒頭にあるミレールが言ったとされる《特殊排除から一般排除》が、《アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行》を示唆しているという叙述だ。このアインシュタインの理論への言及は、2006年に上梓された書にも次ぎのような説明がある。

アインシュタインの特殊相対性理論から一般相対性理論への移行を例にとって考えてみよう。特殊相対性理論はすでに歪んだ空間という概念を導入しているが、その歪みを物質の効果と見なしている、物質がそこに存在することによって空間が歪む、つまり空っぽの空間だけが歪まない。一般相対性理論への移行にともなって、因果が逆転する。物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している。このことと精神分析との間にどんな関係があるのかというと、見かけ以上に深い関係がある。アインシュタインを模倣しているかのように、ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。

このことはわれわれをフロイトへと引き戻す。その外傷理論の発展の途中で、フロイトは立場を変えたが、その変化は右に述べたアインシュタインの転換と妙に似ている。最初、フロイトは外傷を、外部からわれわれの心的生活に侵入し、その均衡を乱し、われわれの経験を組織化している象徴的座標を壊してしまう何かだと考えた。たとえば、凶暴なレイプだとか、拷問を目撃した(あるいは受けた)とか。この視点からみれば、問題は、いかにして外傷を象徴化するか、つまりいかにして外傷をわれわれの意味世界に組み入れ、われわれを混乱させるその衝撃力を無化するかということである。後にフロイトは逆向きのアプローチに転向する。フロイトは彼の最も有名なロシア人患者である「狼男」の分析において、彼の人生に深く刻印された幼児期の外傷的な出来事として、一歳半のときに両親の後背位性交(男性が女性の後ろから性器を挿入する性行為)を目撃したという事実を挙げている。しかし、最初はこの光景を目撃したとき、そこには外傷的なものは何ひとつなかった。子どもは衝撃を受けたわけではさらさらなく、意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだのだった。何年も経ってから、子どもは「子どもはどこから生まれてくるのか」という疑問に悩まされ、幼児的な性理論をつくりあげていったが、そのときにはじめて、彼はこの記憶を引っ張り出し、性の神秘を具現化した外傷的な光景として用いたのである。その光景は、(性の謎の答を見つけることができないという)自分の象徴的世界の行き詰まりを打開するために、遡及的に外傷化され、外傷的な<現実界>にまで引き上げられた。アインシュタインの転向と同じく、最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生されたのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p128)

フロイトは、最初に外傷(トラウマ)を、《象徴的座標を崩してしまう何か》だと考えたとある。これが特殊相対性理論である。

次にフロイトは態度変更して、《最初の事実は象徴的な行き詰まりであり、意味の世界の割れ目を埋めるために、外傷的な出来事が蘇生された》とある。これが一般相対性理論ということになる。象徴界は最初から歪んでいるのである。そして外傷は遡及的に見出される。これがラカンの《原初とは最初のことでない》(『アンコール』)の意味である(参照)。


《物質が空間の歪みの原因なのではなく、物質は歪みの結果であり、物質の存在が、空間が曲がっていることを示している》、--トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である、ということになる。

ここで誤解のないようにつけ加えておけば、トラウマには二種類ある。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma)

 これはなにもラカン派だけの観点ではない。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

ジジェクの冒頭の叙述に沿えば、構造的トラウマ(原トラウマ)は、「性関係はない」ということである。ポール・ヴェルハーゲの説明ならかくの如し。

フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「男と女の愛には、心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。(Paul Verhaeghe『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 )
要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”)


「女は存在しない」やら「性関係はない」やらは、結局、最初の喪失にかかわる。だがこれは遡及的に見出される(後述)。

最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。(ブルース・フィンク『後期ラカン入門: ラカン的主体について』私訳→原文は「ラカンの S(Ⱥ)をめぐって」参照)

そして、フロイト的にいえば「スフィンクスの謎」である(参照)。


…………

さて、いささか話が逸れたが、「トラウマは象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と書き記した箇所に戻ろう。

この文を変奏してみよう、「症状は象徴界の歪みの原因ではなく、象徴界の歪みの結果である」と。

ここでの「症状」は、前期ラカンの暗号化されたメッセージとしての症状ではなく、原トラウマとしてのーー「性関係はない」としてのーー症状である。

前期ラカンの症状は、象徴界、われわれの日常生活を歪める「原因」であった。だからそれを解釈によって取り除かねばならない。だが後期ラカンの症状は、象徴界の井戸の底にあるものであり、治療不可能なものの別名である。

純化された症状とは、象徴的成分から裸にされたもの、すなわち言語によって構成された無意識の外部にex-sist(外-存在)するものであり、対象aあるいは純粋な形での欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975ーー《症状のない主体はない》(ラカン)

 この原症状とでも呼ぶべきものがあるせいで、象徴界自体が歪んでいるのだ(くり返せば、論理的には、原症状が先にあるにしろ、見出されるのは遡及的に、である)。

《トラウマは遡及的に作用する。

S1―>S2->S1

エマの例。店員の笑い→過去の想起商店の親父の性的いたずら→症状一人で店に入れない。ある回想が抑圧されずっと後になって遡行作用によって初めて外傷になる。》(向井雅明
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、《象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外ー存在するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動》である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.ーーラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって

象徴界自体の歪曲が、《現実は現実界のしかめっ面》(ラカン『テレヴィジョン』)の意味である。現実としての象徴界は、もともとしかめっ面なのであり、その歪曲が、原トラウマ・原症状(≒「性関係はない」)を遡及的に見出す。

According to Lacan, libidinal stages have nothing whatsoever to do with a natural development; they are retroactively organised starting from the later castration anxiety. This anxiety operates by means of Nachträglichkeit (retroactivity)(”Subject and Body Lacan's Struggle with the Real”Paul Verhaeghe)

ここにある「Nachträglichkeit」は、もちろんフロイト概念である。
別に、ヴェルハーゲには、「現実界は象徴界の非-全体の領域に外-存在する」とでも要約できる文がある(The Real ex-sists within the articulated Symbolic.……The whole contains the not-whole, which ex-sists in this whole.)。これはジジェクの見解と同様である(参照:象徴界(言語の世界)の住人としての女)。ただし、このあたりは異論もあることだろう。

※ミレール直弟子の小笠原晋也氏の独特のマテームφ barréは「性関係はない」を示し、これは「原去勢」あるいは「原トラウマ」とも翻訳することができる(事実、小笠原氏はランクの「出産外傷」概念をφ barré説明するのに使っている)。かつまた、80年代にミレールが提示した「斜線を引かれた享楽J barré」も同様に「性関係はない」を近似的に意味するものであろう。

われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)

ジジェクは、1989年の『イデオロギーと崇高な対象』にてすでにこの見解を示していながら、2012年に至るまで、同様な見解をくどいほど繰り返している。すなわち、一般には未だなかなか理解されていないせいだろう(かつまた、ラカン派内部でも異なった見解があるということかもしれない)。

François Balmèsの変奏なら次のようになる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être 1999)
…………

もう一つ、冒頭のジジェクの叙述、後期ラカンの症状は、「無意識は言語のように構造化されている」と真っ向から対立することをめぐって簡略に記す。

これからお話しするのは、皆、おそらく混同していることが多々あるからです。わたしのスピーチがある種のオーラを発していて、そのことで皆、言語について、混同している点が多々見受けられます。わたしは言語が万能薬だなどとは寸毫たりとも思っていません。無意識が言語のように構造化されているからではありません。(ラカン『ラ・トゥルワジィエーム』 La Troisième 31.10.1974 / 3.11.74
「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります》(ラカン於てScuala Freudiana 1974.3.30ーーラカンのオーラ

このあたりは一般には先入観がある。たとえば中井久夫さえ次のように書いている。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収 P209)

中井久夫は自らラカンには詳しくないと言っているのでやむえないとしても、ラカン派と称されることもある斎藤環もかくの如し。

記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」2007)

…………

ところで、今ではわが国の代表的なラカン派二人とさえ言えるかもしれない向井雅明氏と松本卓也氏がつぎのような語らいをしているようだ(松本卓也氏ツイートからだが、いつ頃のものかは失念。それほど昔ではなく、この一年前後前ぐらいのもののはず)。

@schizoophrenie: 向井先生と話し合って、「精神病において父の名は排除されるけど、その父の名は回帰しない」という結論に達した。

@schizoophrenie: 簡単に書いておくと、まずラカンが60年代までに父の名に関して「回帰する」とはっきり書いているところはない。『精神病』においては「父である」というシニフィアン(父の名の前駆的概念)という大きい道が排除されているときは、その周囲の小さな道を通って行かねばならない、と言われている。

@schizoophrenie: ラカンの構造論的な精神病論のまとめである”D'une question preliminaire...”では「排除」は出てくるが「回帰」は一切でてこない。その代わりにあるのが「現実界のなかにシニフィアンが解き放たれる=脱連鎖するdéchaîner」という術語。

@schizoophrenie: 神の名を語ってはいけないのと同じように、父の名もあらわれてきてはいけないんですね、おそらく。その代わりに、父の名の周囲のシニフィアンたちがどんどん自力で歌い出す(連鎖が切れて現実界に現れる)、という風に理解するべきだという話。

これは冒頭のジジェクの文においては、「父の名は回帰しない」のは当然としても、「性関係はない」=原症状は回帰するということになる。再掲すれば次の文である。

「象徴界から排除されたものは、症状の現実界として回帰する」と。女は存在しない。彼女のシニフィアンは元々排除されている。これが、女が男の症状として回帰する理由である。(ジジェク)

 だが、このあたりも見解の相違があるのかもしれない。

さらには松本卓也氏は四年ほど前、次ぎのようなツイートもしている。

後期ラカンはすべてのディスクールは保証が不在であるとする.それゆえ象徴的体系を支えるシニフィアンも,構造をとわず排除されている.固有名としての父の名から,述語名としての父の名へと位置が変わる.父の名っぽい機能を果たせば何でもいい,と

そこからミレールの話は「精神病の一般化」つまり「人類みな狂人」なんて話にまで至る.この辺ちょっと微妙で,一般化とかいいつつミレールは神経症と精神病の構造の差異も主張している.ECF内でも意見が分かれているようで,同号のSkriabineの論文は「人類みな精神病」の論調.

(僕が大いに依拠する)Jean-Claude Malevalは反対に,ミレールの議論から「父の名の排除」と「一般化排除」はまったく異なるという議論を持ちだしてくる.こっちのほうが臨床的には有意義な議論だと思うけど,ラカン自身の70年代の記述そのものはSkiriabine寄りです.(松本卓也ツイート 2011/09/01 ーー「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)


ここにある《「父の名の排除」と「一般化排除」》とは、ひょっとして、特殊相対性理論と一般相対性理論の話ではないか。ーーとはいえ、無謀な憶測はやめておこう。

(このあたりはおそらく、この四月後半に発売された彼の実質上のデビュー作、『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』で明らかになっているのだろう。)