マゾヒストの契約は父親を排除し、父権的な法の有効性の保証と適用の配慮を、母親に転位させることだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 P.117)
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フロイトの『機知』には、「真実」を言って、相手を騙そうとする話がある。
あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』)
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◆ When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe 2010、PDFより(私訳)
【性的虐待者→加害者への変貌】
性的虐待の昨日の犠牲者は、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。しかしながら、犠牲者と虐待者との間のつながりは、単純な白黒というよりはずいぶん複雑である。
性的虐待をベースにしたPTSD(心的外傷後ストレス障害)と倒錯構造とのあいだの関連は、性的虐待のどの犠牲者も加害者になることを意味しない。ましてや倒錯者になることを意味しない。ラカン理論内では、主体の特殊な構造は、主体と〈他者〉とのあいだの特殊な関係構造に依存する。慢性のトラウマ的想起(アナムネーシス)と神経症構造の結合は、とてもしばしば起こりうる。かつまた、それは「境界性人格障害 Borderline」をもたらしうる。
したがってここでの問いはこうだ。すなわち、主体と〈他者〉とのあいだのどんな種類の関係が、倒錯を引き起こすために必要か? そしてトラウマはこのプロセスのどこに溶け込むのか? 犯罪科学の叙述はすべて虐待する〈他者〉を指弾する。この〈他者〉は、伝統的には、父あるいは父の代理者だと思い込まれている。これは男根-父権的想定にとてもよく合致する。
母が子どもを虐待するという考えは、従来からの母性愛神話と相容れない。(…)他方、実証研究が示すのは、性的逸脱行為は他の逸脱行為に比べてはるかに不安定な愛情関係にかかわるというものだ。さらにこの不安定性は、父ではなく母への愛情 attachment にとりわけ関係する(Ward, Hudson, Marshall, & Siegert, 1995; Smallbone & Dadds, 1998)。
【幼児の標準的な発達(受動ポジション→能動ポジション)】
ここで先ず標準的な発達の話に戻ろう。幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象である羽目になる。そして母なる〈他者〉(m)Other から来る鏡的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子どもは能動ポジションを取ろうとすることである。
中間期は過渡的段階であり、子どもは「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このようにして、母を失うことについての不安は、なんとか処理されうる。標準的には、エディプス局面・父の機能が、子どものいっそうの発達が起こる状態を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。
【受動ポジションのままの倒錯者(マゾヒスト)】
倒錯の心因においては、これは起こらない。母は子どもを受動的対象、彼女の全体を作る物(おそらくファリックマザーあるいは全能の母としてよいだろう:引用者)に還元する。このミラーリング mirroring のため、子どもは母のコントロール下にいるままだ。こうして、子どもは自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。
これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母は、それを通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。この権威としての〈他者〉の陳腐化はのちに回帰するだろう。それは、倒錯者が、その行為を享楽と見なして自らに制裁を加えるときである。
このようにして、子どもは自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなり、それは子どもにとっての勝利である。他方で、彼ががこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子どもはその獲得物を保護しようと試みて個性的反転を演じる。彼は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に特権的ポジションを維持したままで、である。
臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。
【自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる倒錯者】
(……)倒錯者は自らを〈他者〉の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。
倒錯者の不安は、しばしばエディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安として解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。
これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。
※:「享楽の父」は、ラカン派の文脈では、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者であり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我である。これはラカンが超自我を「猥褻かつ苛酷な形象」[ la figure obscène et féroce ] (Lacan ,1955)と形容したことに基づく。
この享楽の父は、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。それゆえ、ミレール=ジジェクによって、「母なる超自我」とも命名されている(参照:[PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org)。
【犠牲者さ、率先してヤッたのは】
倒錯者における否認は性的関係のみに限定されるわけではない。それは象徴的〈他者〉、すなわち権威や享楽に対する全関係を決定づける。倒錯者自身の世界においては、欠如はない。彼自身の法が〈他者〉に課される。慣習世界においては、法は外面的には守られるだろう。すなわち、倒錯者は他者たちが慣習規則に従うだろうという想定の下に振舞い、この知を十全に活用する。
実に、原初の関係が繰り返されるのだ、最初の〈他者〉(母)と第二の〈他者〉に対する成人後の生活での後継者たちに。もっとも受動-能動反転がある。倒錯的主体は、「最初の」〈他者〉の後継者に向けて道具的ポジションに立つ。この〈他者〉の享楽に仕えるためだ。これは神経症者の観点からは、パラドックスである。倒錯者は、〈他者〉の享楽のために死に物狂いで奉仕していることを確固に信じている。このように、犠牲者は「それを求めたのだ」、彼らは「ほら、それをまさに楽しんだのだよ」等々という根強い考えを倒錯者は持つ。その考え方は、確かに原初の最初の〈他者〉(母)にとっては本当だ。この帰結は、還元されたヴァージョン、いわゆる「認知の歪み」においても、同様に見出される。何度も繰り返して証言されるのだ、犠牲者は「協力的だったよ」、あるいはさらに「犠牲者さ、率先してヤッたのは」と(Hall, 1995; Kennedy & Grubin, 1992; Ward, Hudson, Johnston, & Marshall, 1997)。
ーーこの論文の主要なテーマのもうひとつは、psychopathy(サイコパシー、精神病質)であり、これはおそらく共著者のJochem Willemsenが主に記しているはず(ラカンの精神構造三区分外に属するという仮説が立てられている)。他方、倒錯箇所は、Paul Verhaeghe(ポール・ヴェルハーゲ)が主に記しているようにみえる。
実際、ヴェルハーゲは、女性の倒錯を再考しなければならないと、十年以上から言っている。2008年にも「女性の倒錯」の第一人者Estela Welldonの著書2008を評して、次ぎのようなことを言っている。
・「母はつねに聖女であり、女たちは決して倒錯ではない」という神話をめぐって、Estela Welldonは、ポリティカル・コレクトネスから言えば正しくなく、臨床的にいえば正しい勇敢な主張をしている、と。
・Estela Welldon曰くの「倒錯は、母を観察することによってのみ理解されうる」。これが意味するのは、女性の倒錯をも同様に再考しなければならないことだ、と。
いずれにせよ、上の倒錯箇所の論旨からいえば、倒錯者が生まれる原因は、母の養育態度のせいとなる。かつまた、フロイト・ラカン派の従来のドグマ、女性には倒錯者は存在しないなどというのも、まったく疑わしくなる。
おそらく、旧来のラカン派の三つの精神構造ドグマは崩壊間近であるだろう。
……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Millerーー「神経症と精神病区分の終焉?」)
遡って若きニーチェの指摘を思い起せば、《女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである》(『人間的な、あまりに人間的な』)は、上にある「自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる倒錯者」の側面ではないのかとさえ思いたくなる。
とはいえ、わたくしはラカンの三区分に(いまだ)それなりのノスタルジーを抱くものであって、かねてよりのラカン派系のヒステリー(神経症の下位区分)の指摘は、いまだ捨てがたい。たとえば熱心なラカン読みであるクリステヴァの旦那ソレルス曰く、
「ヒステリー女が欲するものは何か?……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)
あるいは仏女流ラカン派第一人者コレット・ソレール曰く、
ヒステリーの主体は、カップルを作らない。少なくとも三者関係か時にもっと多くの関係を作る。(What Lacan Said about Women、Colette Soler、2003)
ーーこれらは、まさに今でも生き残る顕著な女性的特質と思われないでもない。
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※附記
マゾヒスム的関係における契約という形態(……)。マゾヒストが鉄の鎖につながれ紐で縛られているのは、外面的なものにすぎない。彼は自分の言葉によって束縛されているだけなのである。マゾヒストの契約は、犠牲者となるものの同意の必要性ばかりではなく、説得の資質、教育的かつ法律学的な努力をも表現するものであり、その資質と努力とを通じて、犠牲者は自分の拷問者を訓練するのである。(……)マゾヒストの契約の意味するものは、母親のイメージに法の象徴的威力を譲与することにある。((ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 P.97)
ヒステリーは〈他者〉の享楽の対象になることに堪えがたい。彼女は自身が「使用されている」、あるいは「食い物にされている」と感じる。他方、精神病者はおのれを、意図して〈他者〉の享楽の対象へと没入させ、そのなかに呑み込まれる(倒錯者は特別な事例である。彼は己を〈他者〉の享楽の対象としてではなく、〈他者〉の享楽の道具として位置づける、――彼は他者の享楽に奉仕するのだ)。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)
倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を〈他者〉に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって〈他者〉の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(ジジェク『斜めから見る』鈴木晶訳)
《自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえない》(ラカン 『セミネールⅩⅩ(アンコール)』)
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ーーと記して思い出したが、〈あなた〉はこういう調査結果についてどう思う?
1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。実際の割合いはたぶんもっと高いんじゃないか。というのは女たちはそのファンタジーを気楽には認める気にはならないだろうからね。(Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean? by Michael Castlemanーーレイプファンタジーの統計調査)
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※追記:【性的虐待者→加害者への変貌】の一般論(中井久夫のすぐれた指摘)。
治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。
特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。
それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。
犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。
スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)