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2016年1月5日火曜日

神経症と精神病区分の終焉?

緊張病の極致は恐怖の世界です。この頃それが見えなくなってきましたね、緊張病の場合は薬で曖昧になるものですから。私も、ケースカンファレンスに出て、「この人は鬱病でしょうか」とか、「病気か病気でないかわかりません」といわれる人が、昔だったら急性の緊張病状態で重症となるはずの人でした。皮肉なことに、統合失調症で一番派手であり、重症の重症たるゆえんであると思われてきた緊張病状態に一番薬が効くんですね。いまのドクターもナースも、薬が入っていない患者さんは、初診のときにちょっと見るだけでしょう。あとは、薬が入っている状態ばかり見ているものですから、緊張病の世界がよくわからなくなってきている。

昔は緊張病で何年も全然動かない人というのがたくさんおられました。それは、すごい緊張のエネルギーを内側に向けている状態です。患者さんは「指一本動かしたら世界が壊れるかもしれない」と本当に思っているわけです。身動きしたら世界が壊れるかもしれない、自分は全世界に責任をもっているという感じです。これを緊張病性昏迷といいます。意識はあって、しかも刺激に対してまったく反応できない状況です。

それに対して、緊張病性錯乱の人は、世界が善と悪との分かれて戦っていて、自分は、本当は嫌なんだけれども、それに否応なしに巻き込まれているという人が多いです。……(中井久夫「統合失調病の経過と看護」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収 P.224)

ーーと中井久夫をまず引用したが、表題とは何の関係もない。下に緊張病という言葉が出てくるので、それへの参照である。

…………

神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳)
精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。…父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれに仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでもかくの如しである。(同上)

« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan Tout le monde délire、1979)

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

※1:ラカンの父の名の理論的変遷の基本については、簡略版:「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」を見よ。

※2:ミレールと異なった見解があり得るのは、「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」を見よ。

いずれにせよ、すこし前までは次ぎのように言われた、これはミレール自身も同じ。

@schizoophrenie 2011/12/10 神経症,精神病,倒錯はどう頑張ってもお互いに行き来できない.神経症の「治癒」は幻想の横断と主体の脱解任によって生じ,精神病の「治癒」は妄想形成か補填によって生じるのであって,構造は死んでも変わらない,というのがラカン派のセントラルドグマです.(松本卓也)

たとえば、それなりに権威がないわけではないだろうJean-Louis Gault.は Two statuses of the symptom(2007)で次のように言っている。

神経症においては、ポイントは症状の暗号を解読することである。それは象徴界から現実界へ動くことだ。この暗号解読が「分析」という語が目指すものである。

精神病においては逆に、考え方は、現実界から象徴界へと向かうこと、そして症状を構築することである。ここでは「治療」という用語がふさわしい。…ポイントは症状構築の手段による象徴界を以て現実界を治療することである。(私訳)

この文は、まだ若いJonathan D. Redmondの博士論文 「Elementary phenomena, body disturbances and symptom formation in ordinary psychosis」PDF(supervisorはラカン英訳で名高いRussell Grigg)からの孫引きであり、彼は上の文を引用して次ぎのように記している。

例えば、強迫症状は神経症と精神病ではひどく異なった機能をもちうる。神経症では、強迫症状はしばしば侵入的かつ破壊的で、個人にとって酷い苦痛をうむ。神経症主体にとって、強迫症状の分析と抑圧解除は、症状除去あるいは破壊的影響の調整をもたらす。対照的に、精神病における強迫症状の「防衛的機能」は、主体に精神病的現象の襲来にたいする「バッファ(緩衝物)」を提供する (Laplanche and Pontalis, 1973; McWilliams, 1994)。このように、精神病における強迫症状は、事例によっては、主体にたいして安定化機能をもちうる。(Jonathan D. Redmond、2012)

ーーとメモしたのは、ふつうの精神病と現実神経症の相違はあるのだろうかという問いからである。

精神神経症と現実神経症は、互いに排他的なものとは見なされえない。(……)精神神経症は現実神経症なしではほとんど出現しない。しかし「後者は前者なしで現れるうる」(フロイト『自己を語る』1925)。これは、現実神経症的病理が単独での研究領域であることを正当化してくれる。さらにもっとそうでありうるのは、フロイトは、現実神経症を精神神経症の最初の段階の臍と見なしているからだ。(ポール・ヴェルハーゲ、2007ーーフロイトの美しい表現:「真珠を生む砂粒」と「夢の菌糸体」)

この叙述からも窺われるように、現実神経症とは実際には神経症とは言いがたいので、ヴェルハーゲは別に現実病理 actualpathology と命名している。

現実病理 actualpathology の因果要素…は、主体の内的欲動興奮が〈他者〉によって応答されないーーあるいは充分にされないーーという事実に横たわっている。 (a) からAへの移行、それを通して、〈他者〉は答えを提供し、第二次的な作用が動きだすのだが、その移行が起こらない。結果として、初期の興奮は不安に変わり、さらには分離不安に変わる。( (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 2004).

要するに、「現勢神経症」(現実病理)の主な特徴とは、表象(象徴化)を通しての欲動興奮を処理することの失敗だということになる。

ふつうの精神病と現実神経症の相違については上に掲げた若いJonathan D. Redmondの論があるが、わたくしには理解し難い箇所がたくさんある。

彼の論文は次ぎのような紹介で始まる。

この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))

…………


ミレールの文に、精神病においては、我々は(父の名の)代わりに「穴」を持っているとあったが、中井久夫の以下の説明も分裂病におけるその穴の「補充」行為ーー身体症状あるいは妄想語りの出現ーーということになるのだろうか。いずれにせよ、それはある意味での「象徴化」であろう。

統合失調症の人は回復の途中にはあまり身体の症状がないと思われていたのですが、看護日誌を克明に洗って、時間の順序に並べてみると、非常に身体が揺れ動くときがあることがわかります。(……)

そういうふうに身体症状が、タイプによって消化管に出たり、血圧が上がったり、不明熱が出たり、ときには痙攣が起こったりすることもあります。そういうものが出だしたら、もう精神症状のほうは収まる頃であると、私は患者さんにもあらかじめいっておきます。「良くなりだしたら、エンジンをかけたときにブルブルというように、身体が……」と。(……)とにかく「最初は身体の乱れが出てくるので、出てきたらしめたもんですよ」と。特に女性の場合、無月経ですね。かえって重症のときは月経は通常です。「身体は知らんぞ」という感じですね。やはり個体保存のほうが子孫を残すより重要ですから。無月経になったら、「ひょっとしたら君、これは治る機会かもしれないぞ」といいます。(……)

このへんで妄想をはじめて話す場合がけっこうあるんですね。妄想を話したので悪くなったととる人が、ドクターの中にもいますし、症例報告の中にもあります。しかし、妄想が言葉になるというのは良くなってきたからです。つまり妄想と一体になっているときは言葉にならないものです。ボーッとしているような感じで、睡眠でも覚めているのでもないような状態です。

回復のはじめに悪夢を見るということもあります。私は、あまり内容は聞かないことにしているのです。ただ見たかどうかだけを尋ねます。幻聴の患者さんに告げておくのは、「もし幻聴が夢の中に入ったら教えてくれ、それは消える前兆だから」ということです。幻聴が夢の中に入ったときに「昼間はどうだ?」と聞くと、「昼間は弱くなりました」とか「あ、消えています」というのが普通です。(中井久夫「統合失調症の経過と看護」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収pp.225-226)

補遺:パラノイアとスキゾフレニーの区分