この10年のあいだに、ラカンの精神病概念理論化をめぐる二つの重要な発展があった。ポール・ヴェルハーゲの「現実神経症」とジャック=アラン・ミレールの「ふつうの精神病」である。(Contemporary perspectives on Lacanian theories of psychosis Jonathan D. Redmond、2013(PDF))
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「精神病とは,対象が失われておらず、主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです。ラカンが、狂人は自由な人間だというのはこのためです。同時に、精神病では、大他者は享楽から分離していません。パラノイアのファンタスムは享楽を大他者の場に見定めることを伴います。…
…パラノイアとスキゾフレニーの差異を位置づけることができます。スキゾフレニーは言語以外の大他者を持っていないのです。また同時に、パラノイアと神経症における大他者の差異を位置づけることも可能です。パラノイアにとっての大他者は存在しますし、大他者はまさに対象aの大食家なのです」 (Clinique ironique. Jacques-Alain Miller, La Cause freudienne 23、1993年)
はて、スキゾフレニーは言語以外の大他者をもっていない、とはどういうことか?
ラカンは、1950年代だが、スキゾフレニーとパラノイアをめぐって、「スキゾフレニーにとって、すべての象徴界は現実界である。これはパラノイアとはひどく異なる。パラノイアは想像界の構造が支配的である」というような意味のことを言っている。
Dans l'ordre symbolique, les vides sont aussi signifiants que les pleins; il semble bien, à entendre Freud aujourd'hui, que ce soit la béance d'un vide qui constitue le premier pas de tout son mouvement dialectique. C'est bien ce qui explique, semble-t-il; l'insistance que met le schizophrène à réitérer ce pas. En vain, puisque pour lui tout le symbolique est réel. Bien différent en cela du paranoïaque dont nous avons montré dans notre thèse les structures imaginaires prévalentes, c'est-àdire la rétro-action dans un temps cycli.que qui rend si difficile l'anamnèse de ses troubles, de phénomènes élémentaires qui sont seulement pré-signifiants et qui n'atteignent . qu'après une organisation discursive longue et pénible à établir, à constituer, cet univers toujours partiel qu'on appelle un délire. (Lacan,Écrits pp.392-393)
たとえばミレールには次のような指摘がある。
セミネール III でさえ、 ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものは、このように精神病的なものでありますから、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。鏡像段階は投影によって構造化されているのです。主体の天然のパラノイア、想像的レベルに位置する主体、正常性(象徴的正常性)へと加入することを許可する象徴的秩序、をラカンはたびたび強調していました。しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。
象徴的なものの視点からみれば、主体の天然のヒステリーを強調することができます。 ラカンが主体に$[S barre]というシンボルを用いるのはこのことを理由としており、このように書かれる主体はヒステリー的な主体なのです。余談ですが、主体の天然のパラノイアという概念は、クライン派における全ての主体の精神病的な核についての理論と同種のものです。そのため、クライン派は鏡像段階に興味を示すのでしょう。ラカンの鏡像段階の概念は、いまでは標準的なクライン派のトレーニングに取り入れられていますが、彼らはそこでおしまいにしてしまいます。鏡像段階は主体の発達の基礎的な段階だと考えられ、人間はみな本質的にパラノイアなのだと断言することができます。さらに、分析を精神病的な核の回帰としてとらえる方もいらっしゃいますが、ラカンは違います。ラカンは主体の天然のパラノイアについて語るとき、治療は想像的な軸に戻ることによってなされるのではなく、反対に、象徴的な軸を高めることによってなされると考えていたのです。(ジャック=アラン・ミレール 「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」 松本卓也訳)
これはパラノイアをめぐる説明なのであって、精神病一般の説明ではない。すなわち、スキゾフレニアはこうではないということになるはずだ。
かつまた、上の引用の最後の文、《分析を精神病的な核の回帰としてとらえる方もいらっしゃいますが、ラカンは違います。ラカンは主体の天然のパラノイアについて語るとき、治療は想像的な軸に戻ることによってなされるのではなく、反対に、象徴的な軸を高めることによってなされると考えていたのです》とは、分析と治療という語彙の扱いがひどく微妙であって、たとえば、前回引用したとJean-Louis Gault.の「分析」と「治療」の定義は次ぎの通り。
この文自体、「そのままとれば」奇妙な文ではある。神経症の「分析」が《象徴界から現実界へ動くこと》であるなら、それをおし進めれば、《精神病的な核の回帰》となってしまうはずだから。かつまた精神病を神経症にして治療するとさえ読めてしまう。
あるいは次ぎのような文をどう読むか?
これらはーー「精神病的な核の回帰」、「治療不能なものの前景化」などはーー、すくなくとも神経症の「分析」においては「主体の解任destitution subjective」にかかわる。フロイトの表現ならば、「真珠を生む砂粒」や「夢の菌糸体」にかかわる(参照)。
われわれは、おそらくーーわたくしは専門家ではないので口はばったいことは言いたくないがーー晩年のラカンの次の文とともに「分析」という用語を理解しなければならない。
それについてのやや詳細は、「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」を見よ。
あるいはまたラカンの1976年の言葉にいくらか保留を加えるならば、1977年の次の文が核心のひとつであるだろう。
この文の「症状symptôme」を、「裸の症状(精神病的な核)」とわたくしは読む。そしてその裸の症状と同一化しつつも、距離をとらなければならない、と読む。
日本でもラカンの上の文(「分析は突きつめすぎるには及ばない……」)を引用して、藤田博史氏が次ぎのように言っているようだ(そしてそれにひどく反撥する精神分析家もいる)。
かつまた、上の引用の最後の文、《分析を精神病的な核の回帰としてとらえる方もいらっしゃいますが、ラカンは違います。ラカンは主体の天然のパラノイアについて語るとき、治療は想像的な軸に戻ることによってなされるのではなく、反対に、象徴的な軸を高めることによってなされると考えていたのです》とは、分析と治療という語彙の扱いがひどく微妙であって、たとえば、前回引用したとJean-Louis Gault.の「分析」と「治療」の定義は次ぎの通り。
神経症においては、ポイントは症状の暗号を解読することである。それは象徴界から現実界へ動くことだ。この暗号解読が「分析」という語が目指すものである。
精神病においては逆に、考え方は、現実界から象徴界へと向かうこと、そして症状を構築することである。ここでは「治療」という用語がふさわしい。…ポイントは症状構築の手段による象徴界を以て現実界を治療することである。(Jean-Louis Gault.Two statuses of the symptom(2007)、私訳)
この文自体、「そのままとれば」奇妙な文ではある。神経症の「分析」が《象徴界から現実界へ動くこと》であるなら、それをおし進めれば、《精神病的な核の回帰》となってしまうはずだから。かつまた精神病を神経症にして治療するとさえ読めてしまう。
あるいは次ぎのような文をどう読むか?
ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)
これらはーー「精神病的な核の回帰」、「治療不能なものの前景化」などはーー、すくなくとも神経症の「分析」においては「主体の解任destitution subjective」にかかわる。フロイトの表現ならば、「真珠を生む砂粒」や「夢の菌糸体」にかかわる(参照)。
ここで、私はことさら強調しなければならない、ラカンが JȺ ーーそれを彼はまた名高いサントームとも呼んでいるーーの出現と、現実界の名付け、かつ享楽の徴付けmarkingの話を結びつけて考えていることを。これは長いあいだ据え置かれたままの問いだった。これが関わっているのは、主体が象徴界のなかに再刻印すること、そして象徴界の再象徴化a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic を成し遂げるやり方である。それは主体が〈他者〉におけるリアルな欠如 Ⱥ を一時的に引き受けた後のことだ。ラカンにとって、ジョイスは実に“Joyce-le-sinthome.”だった。
もし一方で、ジョイスが「シンボルを破棄した」こと…が本当なら、他方、それは同様に当てはまるのだ、(人の現実界の名付けとしての)「サントームとの同一化」、ーーラカンが精神分析の目標としての最後の仕事において提唱したそれーーは決して半永久的な「主体の解任 subjective destitution」、精神病的な象徴界の非機能 nonfunctioning にはならないことが。 Lorenzo Chiesa、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, 2007)
このあと、《このような誤った結論に対して、私は次のことを強調しなければならない》と続く(参照)。
われわれは、おそらくーーわたくしは専門家ではないので口はばったいことは言いたくないがーー晩年のラカンの次の文とともに「分析」という用語を理解しなければならない。
分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))
それについてのやや詳細は、「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」を見よ。
あるいはまたラカンの1976年の言葉にいくらか保留を加えるならば、1977年の次の文が核心のひとつであるだろう。
En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” (J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7)
この文の「症状symptôme」を、「裸の症状(精神病的な核)」とわたくしは読む。そしてその裸の症状と同一化しつつも、距離をとらなければならない、と読む。
日本でもラカンの上の文(「分析は突きつめすぎるには及ばない……」)を引用して、藤田博史氏が次ぎのように言っているようだ(そしてそれにひどく反撥する精神分析家もいる)。
これが分析の極意です.
前期,中期のラカン思想しか知らない人にはまったく意外でしょうが,これが晩年のラカンが到達した最終地点なんです.そして,わたし自身が現在臨床で実践している分析もまた同様の理念に依っています.
行き過ぎた分析は「死」を引き寄せ,「死」に直面し,不幸な結果を引き起こします.
あるいは「分析のための分析」というアディクションを引き起こし,自分は「存在」や「真理」について追求しているのだ,という錯覚を引き起こします.わたしはこれをあえてファルス享楽の追求と言いましょう.
その結果「人生のための分析」ではなく「分析のための人生」という,本末転倒の事態を引き起こします.一生を分析に捧げて,不幸なまま終わる人が少なからずいます.
そうではなく,とても単純なことですが,長年の臨床のなかで見えてくること,それは分析は不幸になるためではなく,幸せになるためにあるのだ,という単純な事実なのです.
前期,中期のラカン思想を過大評価しないように注意してください.寧ろ,晩年のラカンが到達したこのシンプルな地平こそ,現実にスキゾフレニアや,デプレッションや,摂食障害などを治癒させ得る治療理念なんです.
なお、前回も触れた「現実神経症」概念を前面に出すポール・ヴェルハーゲの考え方はつぎの通り。
精神分析実践の目標が、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論)
分析の目的とは隠された無意識の意味を発見することではない。全く違う。そうではなく、〈他者〉から来る諸シニフィアンsignifiersの決定づけを与える効果から免れさせることだ。
これが私が考える治療的側面における我々の仕事である。そして神経症の場合なら、精神分析治療はひどく役立つ。もし誰かが私に会いにきて精神分析は何をしてくれるのでしょうと尋ねたら、私の答えは、あなたが日々直面している『制止、症状、不安Hemmung, Symptom und Angst』(フロイト)の代わりに、もっと選択の自由を得るでしょう、とするだろう。(“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.” A commentary on Lacan's ‘Discours de Rome'. Paul Verhaeghe(2011ーー旧態依然の破廉恥な精神分析家)