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2015年10月7日水曜日

象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)

ようやく「ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって」にて引用した「 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa」の文を訳す気になった。2015年4月18日の記事であり、その気になるまで半年弱かかったことになる。すなわち十分に納得するまでにこの期間が必要だった。

ここではほぼ同じ文章が掲載されている 『Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 』2007からの文を訳す。

ここで、私はことさら強調しなければならない、ラカンが JȺ ーーそれを彼はまた名高いサントームとも呼んでいるーーの出現と、現実界の名付け、かつ享楽の徴付けmarkingの話を結びつけて考えていることを。これは長いあいだ据え置かれたままの問いだった。これが関わっているのは、主体が象徴界のなかに再刻印すること、そして象徴界の再象徴化a reinscription in and a resymbolization of the Symbolic を成し遂げるやり方である。それは主体が〈他者〉におけるリアルな欠如 Ⱥ を一時的に引き受けた後のことだ。ラカンにとって、ジョイスは実に“Joyce-le-sinthome.”だった。

もし一方で、ジョイスが「シンボルを破棄した」こと…が本当なら、他方、それは同様に当てはまるのだ、(人の現実界の名付けとしての)「サントームとの同一化」、ーーラカンが精神分析の目標としての最後の仕事において提唱したそれーーは決して半永久的な「主体の解任 subjective destitution」、精神病的な象徴界の非機能 nonfunctioning にはならないことが。

このような誤った結論に対して、私は次のことを強調しなければならない

(1) ジョイスはーーDarian Leader によって提案された公式を採用するならーー「引き金を引かれていない non-triggered」精神病である。彼はもともと神経症と精神病との「どっちつかずの in between」状態にあった。そして引き続いて(部分的な)個人化された象徴界をなんとか生み出した

(2) 神経症者はいつかは彼らのイデオロギー的症状ーー支配的な根本的幻想によって課された享楽ーーを非精神病的サントームに変えることができる。無論「幻想の横断」を経た時の話である。すなわちそれは、象徴界からの「分離」の瞬間、そしてそれに引き続いた過程、新しい個人的な「主人のシニフィアン S1」を通した象徴的再刻印の過程による。これがまた意味するのは、ジョイスははっきりとした「精神病者」ではなかったにもかかわらず、彼はもともとどんな「根本的幻想の横断」をする必要なかったということだ。

神経症者と異なり、ジョイスは既に象徴界から分離されていた。その代わりに、彼は彼を基礎づける主人のシニフィアン S1を創造する必要があった。

※JOYCE LE SYMPTOME(LACAN Autres écrits)

Point souligné par moi, sans doute de ce qu'il reste après Joyce que j'ai connu à vingt ans, quelque chose à crever dans le papier hygiénique sur quoi les lettres se détachent, quand on prend soin de scribouiller pour la rection du corps pour les corporections dont il dit le dernier mot connu day-sens, sens mis au jour du symptôme littéraire enfin venu à concomption. La pointe de l'inintelligible y est désormais l'escabeau dont on se montre maître. Je suis assez maître de lalangue, celle dite française, pour y être parvenu moi-même ce qui fascine de témoigner de la jouissance propre au symptôme. (LACAN Autres écrits p.570)

…………

冒頭に上の文を訳すまで半年もかかった、と「カッコウをつけて」記したが、実はあの文以降のLorenzo Chiesaの叙述はすでに「なんとなく理解したままで」訳している。いまその一部を掲げておこう。

……神経症の標準的な状況では、父の名は、それが機能しなければ引き起こし得る破壊的な享楽を、症状を通して、統整する。その「否」を、我々は(イデオロギー的に仮装して)享楽する。そこで享楽するのは象徴界に穴を開ける欠如である。ラカンがジョイスについての後期のセミネールにて、さらに示唆しているようにみえることは、「引き金をひかれていないnon-triggered」精神病の場合では、この同じ統整ーーそれは主体を社会的領野に住むことを可能にするものだがーーが、究極的にサントーム自体によって実現されうることだ。

言い換えれば、〈他者〉の斜線化ーー構造的欠如の出現ーーに従った「父の名」の相対化は、究極的に二つの補足的な結果を伴う。それが症状にかかわる限りで、だが。

一方で、父の名はそれが事実上コンピタンスcompetenceの外部に横たわった場を占める限りーーというのは、欠如は現実界の領野に属するのだからーー、父の名はそれ自体、症状として捉えられる(故に、ラカンはセミネールXXIIIにて、「エディプスコンプレックスはそれ自体、症状である」と言っている)。

他方、「享楽を方向づけ組織しようとするものは何もかも」制御行動を行う。それはふつうは「標準的な」父の名によって成し遂げられるものだが、父の名が正しく機能しないなら、なにか他のものが必要だ。

ジョイスの父の隠喩には欠陥があった。すなわちそれは作者によって補わなければならない。このように「ジョイスJoyce」という名は、文字通り〈他者〉における欠如の独自のプレイスホルダplaceholder を具現化している。そしてエクリチュールの独特の仕方によって、父の隠喩の欠如を補足するのだ。……(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーーLorenzo Chiesa、ジジェクによるミレール吟味(サントーム/主人のシニフィアンをめぐる))

ようするにこのあたりのことがより鮮明にようやくなってきた、ということである。

ベルギーの精神分析家ポール・ヴェルハーゲがくり返し述べていることもこの主人のシニフィアンの再刻印、再象徴化にかかわることがようやく判然とした。

巷間のフロイト・ラカン派の分析家たちーーとくに日本ではーーはあまりに「主体の解任 destitution subjective」、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)をいまだ強調しすぎているようにわたくしには思われる(勘違いでなければ)。これらはすべて脱象徴化にかかわる。だが患者によっては、そして社会構造のかわった現在では、ますます再象徴化ーー象徴化の構築ーーの手助けのが必要なのだという二人のラカン派の見解である。

それについては「旧態依然の破廉恥な精神分析家」に記した。

以下、症状の二重の構造を叙述するヴェルハーゲの文を貼り付けておく(上部の症状(象徴界)/地階の症状(現実界)。現在の「症状」は地階の症状が目立ってきたのであり、それは「父の名」の下落にかかわる。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)
フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

この二重の構造の視点のもとでは、すべての症状は二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換性の症状は、症状の形式的な外被に帰着する。すなわち、「それらの症状は欲動の現実界に象徴的な形式が与えられたもの」(Lacan, “De nos antécédents”, in Ecrits)ということになる。このように考えれば、症状とは享楽の現実界的核心のまわりに作り上げられた象徴的な構造物ということになる。フロイトの言葉なら、それは、「あたかも真珠貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの」(『あるヒステリー患者の分析の断片』)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq,2002)

トラウマももちろんこの二層構造になっている。ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」と「事故的トラウマ」である。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

日本でもすぐれた精神科医ならこのことをとっくに指摘している。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収 )

最近、斎藤環氏が提唱している「オープンダイアローグ」についてもーーわたくしは寡聞にしてほとんどその内容を知らないがーー「象徴界の再象徴化・再刻印」の文脈で捉えうるものなのではないだろうか。

これらの対応を、「ボーダーライン」やら「ふつうの精神病」、あるいは「現実神経症」に対するものと呼ぼうが、肝腎なのは次のことであるだろう。

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe(参照) 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(Aktualpathologie(現勢病理)≒Aktualneurose(現実神経症)

…………

さてここで飛躍してこうつけ加えておこう。

「父の権威」の崩壊後の世界(参照:「神の二度めの死」=「マルクスの死」)において、バディウ、ジジェク、Paul Verhaeghe、Lorenzo Chiesaなどまともなラカン派が考えようとしているのは、なにか?

父の権威の時代とは社会の構成員自体が、あるいは社会構造そのものが「精神神経症psychoneurosis」の時代であった。他方、マルクスの死以後の新自由主義の時代とは、「現実神経症Aktualneurose」の時代である、と仮にしてみよう。

われわれは現在、社会的にも《恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う》っているではないか? ナショナリズムやレイシズムの猖獗もこの文脈で捉えうる。

ラカンは早くも60年代に、今後数十年の間に新たな人種主義が勃興し、民族間の緊張と民族の独自性の攻撃的主張が激化するであろうと予言した。(ジジェク『斜めから見る』p.302ーー「人間の顔をした世界資本主義者たち」)

父の権威の没落後のこの非イデオロギーというイデオロギー「新自由主義」時代、まともなラカン派ーーフロイトのいう意味での「まともな」である。すなわち個人の病は社会構造が生む。とすればフロイトが『集団心理学と自我の分析』や『文化のなかの居心地の悪さ』などでやったように分析家とは必然的に社会構造に目を向けなければならないという意味だーーが考えようとしているのは、主人のシニフィアンS1の象徴界のなかへの再刻印・象徴界の再象徴化である(参照:フロイトとラカンの「父の機能」)。

わたくしに言わせれば柄谷行人がやろうとした・やっていることも(その統整的理念)、同じS1の象徴界のなかへの再刻印・象徴界の再象徴化である(参照:「主人のシニフィアンと統整的理念」)。


…………

※追記:ここに記されていることは次ぎの内容にもかかわる(参照:《症状のない主体はない》(ラカン))。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))
われわれは不安の発展を危険状況によるものとしたが、これからさらにすすんで、症状は自我が危険状況からまぬかれるためにつくられるといいたい。症状形成がさまたげられると、じっさいに危険がおそってくる。(……)

症状の形成は、危険な状況をすてさるという実際の効果をもっている。症状形成には二つの面があり、一つはわれわれには秘密のままで、エスの中にある変化を起こし、この変化によって自我が危険をまぬがれるという面であり、他はわれわれにむけられた面であり、影響をこうむった衝動過程のかわりにつくりだしたところの代理の形成である。

ところで、もっと正確に表現するとすれば、ちょうどいま症状形成についてのべたことを、防衛過程に帰さなければならないし、症状形成という言葉自体を代理形成の同義語としてもちいなければなるまい。そうすると防衛の過程は、逃避と類似のものであることが明らかである。逃避とは、自我が外界のさしせまった危険からまぬかれる手段であるが、防衛過程もまた、衝動の危険からの逃避の試みといえる。(フロイト『制止、症状、不安』フロイト著作集6 pp358-359)

ーー症状が人の心理構造に安定化を与えるものであり、とりのぞくべきものではない場合があるという知見を得るには、なにもフロイト・ラカン派である必要はまったくない。ここで、わが国の最も優れた精神科医の一人であるに相違ない中井久夫の論からも抜き出しておこう。

医者にとって症状とは先ず診断の目安である。だからいろんな次元のものが混じっている。もう一つ、本来は診断の目安としての症状と治療の目的としての症状とは違うものなのだろう。双方は一致することも多いだろう。しかし、いちおう区別しておこう。

治療の目安としての症状は、第一に、それのあるなしが、病気がどこまで回復したかを教えてくれるものである。第二に、それがどの程度必要かどうかを決めるのがよいだろう。症状は何でも目の敵にして消してしまわなければならないとは限らない。(……)

一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う。幻聴でも、消えた後に空虚感、索漠感が残ることがある。幻聴を聞いている間はなかった「また幻聴が起こるのではないか」という恐怖と不安が起こってくることもある。幻聴の悪性度を減らし、いっぽうでそれが生活に占める比重を減らすような生活にして、なくなってもさびしくないような心境になれば自然になくなることが少なくないように思う。(中井久夫「症状というもの」1997『アリアドネからの糸』所収)