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2015年9月30日水曜日

旧態依然の破廉恥な精神分析家

「旧態依然の破廉恥な精神分析家」について罵倒系の文を記したのだが、それはこの際公表するのをやめてーーどうもわたくしは遠慮深いタチなのだーー、表題だけをそのままにして、その「悪態」のベースになる文献のみを掲げておく。

 …………

中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

ーーくり返し引用している文だが、具体的に何が変わったのだろうか。

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。精神分析学はすでに一九一〇年代から、特にハンガリー学派が成人言語以前の時期に挑戦し、そして今も苦闘している。ハンガリー学派の系譜を継ぐウィニコット、メラニー・クライン、バリントの英国対象関係論も、サリヴァンあるいはその後を継ぐ米国の境界例治療者たちも、フランスのかのラカンも例外ではない。

この領域の研究と実践とには、多くの人が臨床の現場でしているような、成人言語以前の世界を成人言語に引き上げようとすること自体に無理があるので、クラインのように一種の幼児語を人造するか、ウィニコットのように重要なことは語っても書かないか、ラカンのようにシュルレアリスムの文体と称する晦渋な言語で語ったり高等数学らしきものを援用するかのいずれかになってしまうのであろう。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』所収)

エディプス期以降の病理とそれ以前の病理がある。それは神経症/精神病と言われたり、端境期の病理であるだろうボーダーライン、それ以外にも解離、自閉症等々が注目されるようになったのは周知だろう(ラカン派なら、「ふつうの精神病」、「ふつうの倒錯概念」が新たに現われている)。

ここで座談会「来るべき精神分析のために」(十川幸司/原 和之/立木康介、2009/05/29 岩波書店)から十川氏の発言を抜き出してみよう。

ところで先ほど精神病患者の変化という話をしましたが、 精神分析に来る患者も時代とともにずいぶん変わっています。

フロイトでも初期に診ていたヒステリー患者と、晩年に診ていた患者とではその間に大きな変化があります。 しかし、 全般的に言えるのは、 フロイトの時代と比べて、 今は患者がみずからの生を物語る能力がなくなってきている、 ということです。 このような現象も病理の軽症化と何らかの関係があるのかもしれません。 フロイトの患者たちは物語る能力に長けています。 そして、 その語りが、 患者が秘めた病理に向かって収束されていきます。 一方で、 現代の患者たちは--ヒステリー患者は貴重な例外です--みずからの生を散漫とした形で、 明確な歴史もエピソードも作ることなく生きているように思えます。 そういう患者たちの語りは、 病理の所在がはっきりせず、 また語りが病理の核心に向かうことがない。 こういう患者側の変化も精神分析の衰退の一つの要因になっているように思えます。 つまり、生が希薄化、 断片化していて、 しかもそれらが言葉によって歴史化されていないため、言葉を治療手段とする分析治療が鋭角的な手ごたえをもったものとして機能しない
もちろん分析家の側にも責任はあるでしょう。 分析家は、 患者の側の変化を敏感に感じ取ることなく、 いまだに硬直した理論で分析行為を行っています。 患者の生のあり方が変わってきたなら、 それに即して分析家は新しい臨床を始めていくべきなのです。それがほとんどなされていないのが現状なのです。

《いまだに硬直した理論で分析行為を行っています》とあるが、社会の病理、具体的には社会における〈他者〉、「父の名」の劣化が明らかなのに、実際のところいまだおどろくべき旧態依然の「分析家」を自称する人物がうようよと存在しないわけでは全くないだろう。

以下、十川幸司氏の問いがより鮮明に語られているベルギーの精神分析家のインタヴュー記事を私訳して掲げよう(いくらか意訳したところもあるので、原文をかならず参照のこと)。

An Interview With Paul Verhaeghe(Paul Verhaeghe and Dominiek Hoens,2011)

ほぼ15年前ほどから私は感じはじめたんだ、私の仕事のやり方、私の伝統的な精神分析的方法がもはやフィットしないようになってしまったと。私はとても具体的にこれが確かだとすることさえできる。あなたが分析的に仕事をしているとき、いわゆる予備会話をするだろう。この意味は誰かを寝椅子に横たえる瞬間をあとに延ばすということだ。あなたはいつ始めるかの目安をつかむ。あなたが言うことが出来る段階のね。さあ私は患者を寝椅子に横たえるときが来た、と。ところが多くの患者はこの段階までに決してならない。というのは彼らが訪れてくる問題は、寝椅子に横たえさせると、逆の治療効果、逆の分析効果をもっているから。

それで私は自問した、これはなんだろうと。ここで扱っているのはなんの問題なんだろう? と。どの診断分類なのだろう? あらゆる診断用語のニュアンスを以て、どの鑑別的構造に直面しているのだろう? 私が思いついた最初の答、それによって擁護しようと思った何か、いまもまだ擁護しようとしているものは、フロイトのカテゴリーAktualpathologie(現勢病理≒現実神経症)だった。

ここに私はこれらの患者たちのあいだに現れる数多くの症状の処方箋を見出した、まずはパニック障害と身体化somatisationだった、不十分な象徴化能力、徹底操作や何かを言葉にする能力の不足とともに。これが我々の最も重要な道具、「自由連想」を無能にしたのだ。

※Aktualpathologie(現勢病理≒現実神経症Aktualneurose)については、「忘れ去られたフロイトの現実神経症(現勢神経症)概念」を参照のこと。


古典的な精神神経症のグループは意味の過剰に苦しんだ、ヒストリー=ヒステリーの過剰、イマジネールなものの過剰に。そしてこれがあなたが脱構築しなければならないものだった。新しいグループは全てのレヴェルでこれらが欠けている。かつまた彼らは他者を信頼しない。転移があるなら陰性転移しかない。象徴化の能力はほとんどない。ヒストリー(歴史)も同じく。

いや彼らにヒストリーはある。だがそのヒストリーを言語化できない。…私はなんと逆の方向に仕事をしなければならないのだ。

社会的側面に戻れば、私が自問したのはなぜこのようなラディカルな移行が起こったのか、ということだ。なぜ古典的なヒステリーや強迫神経症者が少なくなったのか?…

答えは母と関係がある。母と子どものあいだの反映、つまり鏡(像)の過程にある。…
結果として我々は視界を拡げなければならない。母が以前に機能したようにはもはや機能していないのなら、異なった社会的文脈にかかわるにちがいない。そのときあなたは試みなくてはならないーーこれは古典的な分析家/心理学者にとってはひどく難しいのだがーー何を試みるべきかといえば社会的要因への洞察を得ようとすることだ。

さらに、あなたはイメージを形成するようにしなくてはならない、素朴な解決法に陥らないようにしながら。だから私は母親非難mother-blamingモデルの考え方を捨て去った瞬間をとてもよく覚えている。私はとても素早くそうした。そのモデルには別の危険が潜んでいる、すなわち保守主義だ。…

たとえばテオドール・ダーリンプルを同志としてあなたは見ることができる。心理的機能のレヴェルにおける変化、ーー増大する個人主義、利己主義、あまたの社会的不安等々ーーは新自由主義の結果であり、福祉国家のせいでは全くない、ダーリンプルが言うようにね。デジタル化された実力主義と共の新自由主義経済、(これが悪の根だ。)…

私は精神分析的にこの新自由主義社会のモデルに対して何かできるだろうか。もちろんだ、精神分析は享楽と欲望のレヴェルにおける個人と社会のあいだの緊張につねに取り組んできた。もしあなたがフロイト理論の核心を要約するなら、そうなる。

個人があり、社会がある。そして社会は快楽と欲望にかんしてある規則を確保する。個人はそれに抵抗する。と同時にその規則が必要だ。だが我々が今生きている社会モデルはフロイトの時代と全く逆だ。彼の時代は全てが欲望をめぐっていた。…だが我々の時代は快楽が強調されている。…

※「(これが悪の根だ。)」については、わたくしがややまわりくどい箇所を意訳している。ヴェルハーゲは、 最近でもGuardian(ガーディアン 2014.09.29) にて"Neoliberalism has brought out the worst in us"「新自由主義はわれわれに最悪のものを齎した」という記事を記している(参照)。


――無意識にかんして質問します。無意識概念は新しい病理、新しいアイデンティティと主体性において役割があるのでしょうか、それともないのでしょうか?


異なった視点が必要だ。我々が無意識を概念的に検討するなら、フロイトが無意識のシステム、核(夢の臍、菌糸体等)と呼んだものと、抑圧された無意識がある。無意識の核にフロイトはリビドー的なもの、構成的なもの、かつまたトラウマ的なものを含めている。これらは明確には決して言葉で言い表されない。はっきりした象徴化は不可能だ。

抑圧された無意識、それは力動的無意識とも言われるが、それは再構築されうるし、言葉で言い表されうる。神経症とは抑圧された無意識の病理だ。この理由で古典的な技法ーー自由連想ーーの効果がある。だが我々は現在、以前に比べてとても頻繁に無意識の核に直面している。すなわちトラウマ的なもの、リビドー的なものであり、この理由で快楽と不安の病理がある。

こういった理由で、治療はむしろ数々の象徴化の構築の手助けに焦点を絞ることになる。それは古典的な神経症の治療とは全く逆だ。神経症では象徴化があまりにも多くありそれを剥ぎとらなければならない。
ーー別のカテゴリーから接近するなら、ラカンには主体概念があります。主体はシニフィアンの主体であり、このシニフィアンがほかのシニフィアンに対して主体を代表象する。これらの新しい病理は、主体を語ることにわずかな意味しか与えないように一見思えますが?


分裂Dividednessが中心の論点だ。トポロジーの遷移を見てみよう。フロイトとともに意識、前意識、無意識を。そしてラカンとともに(主体の分裂splitとして)、同一化、疎外と分離を。あなたは見るだろう、ラカンは徐々に分裂dividednessの側面を強調し、疎外と分離の側面を強調しないようになっていく。私の意見では、これはラカンが何かが変わりつつあることを悟っていた徴候だ。現代の主体はことさら分裂dividedしている。疎外と分離の側には置かれることは少ない。中心の論点は裂け目fissureなのだ。

このあと、ミレールの「ふつうの精神病」概念への批判がある。実際、この概念は、フロイトの「現実神経症Aktualneurose」とひどく類似しているように思われ、ヴェルハーゲの批判はまずは漠然とした「ふつうの」などという表現に苛立っていることにあるのだが、それについてはミレール派からの再批判もあるということだけを指摘しておくだけにし、ここでは詳しく触れるつもりはない。


ただしひとつだけ強調しておくが、ヴェルハーゲの見解に、新しい症状(現実神経症)では象徴化の構築の手助けが必要であり、かつての症状(精神神経症)では脱象徴化が必要である、とある。これはミレール派によるサントームの治療でも同様であり、サントームという父の名の代替物による象徴化が強調されている(参照:「父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない」)。

あるいは、

エリック・ロランが特定するように、S1とS2の関係から、S1と対象aの関係への移行が、普通の精神病の臨床において決定的である。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)

そして旧来の分析治療とはイデオロギー的な「父の名」、あるいはイマジネールなものとしての対象a(参照:「対象aの五つの定義」)を剥ぎ取り、裸の症状を露出させてしまうことだった。

ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

脱象徴化はヴェルハーゲ自身、別の論で次のように言っている。

■“The function and the field of speech and language in psychoanalysis.” A commentary on Lacan's ‘Discours de Rome'. Paul Verhaeghe(2011)

分析の目的とは隠された無意識の意味を発見することではない。全く違う。そうではなく、〈他者〉から来る諸シニフィアンsignifiersの決定づけを与える効果から免れさせることだ。

これが私が考える治療的側面における我々の仕事である。そして神経症の場合なら、精神分析治療はひどく役立つ。もし誰かが私に会いにきて精神分析は何をしてくれるのでしょうと尋ねたら、私の答えは、あなたが日々直面している『制止、症状、不安Hemmung, Symptom und Angst』(フロイト)の代わりに、もっと選択の自由を得るでしょう、とするだろう。(ポール・ヴェルハーゲ)

 ここで彼は旧来の分析治療の側面を主に語っているといってよい。つまり単純には象徴化/脱象徴化という図式は描けないことは念を押しておこう。


…………

※附記

◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

三十年ほど前に、私は最初の患者に出会った。私のうけた古典的な教育と訓練は、次のような臨床的特徴に廻り会うよう想定されていた。すなわち患者は、解釈されうる症状をもっており、これらの症状は意味溢れる構築物だということ。もっとも患者は防衛メカニズムのためにこの意味に気づいていないのだが。患者はこれらの症状がライフヒストリーに関連することに気づいていた。話すことによる治療の目標は、この関連の覆いを取り除くことだった。そうするのは、その裏に潜んだ葛藤が、他のよりより解決法を導き得るようにするためだった。そのうえ、相対的には陽性転移がやがて手助けしてくれた。これは1905年にフロイトによって提唱された、精神分析治療を成功させるための、基本的規準だった。要するに、古典的な精神分析の治療とは、古典的な精神神経症psychoneurosisに向けられたものである。私はここで強調しなくてはならない、接頭辞“精神”を。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。